六十一話
記憶が無くなって初めての幼稚園。 昨日の夜に観たビデオで友達や先生の名前と顔は覚えた。 以前のようなボクにはなれることはできないけど、なろうとする努力ぐらいはしたつもりだ。
それでも変なしゃべりかたはパパから「できるならしないで」とやんわり言われた。 はじめの方は頼まれてもやるものかと思ってたけど、あれはあれで味があることを知った。 言い出せないけど、あのしゃべりかたはいつかしてみたい。
「将ー! 準備できたかー?」
玄関の方からパパの呼び声が聞こえた。 最後のボタンを閉めカバンを持って駆け足で玄関に行った。
ボクになってから初めての幼稚園。 まわりはどんな反応を示してくるのだろうか。 みおちゃんやダイスケくんは以前のように友達でいてくれるだろうか。
拭いきれない不安を抱えて車に乗った。
幼稚園の正門前ではママたち同士がおしゃべりをしていた。 子供は友達を見つけるとすぐに幼稚園の中に入っていった。
ボクたちが車から降りるとまわりが急に静かになって、一斉に視線を感じた。 それでもパパはボクの手を引いて園内に入った。 園児たちも見てる。
誰も声をかけようとせず、ただただじっとボクのことを見ていた。 視線に耐えきれなくなって下を向いて歩いていると、喜びに満ちた声で名前を呼ばれた。
「結城さん!」
パパは手を上げて、こっちに走ってくるセンセイの名前を呼んだ。 ビデオでも見たから分かる。
あの人がボクのセンセイで、パパの次にボクと一緒にいてくれる人。
センセイは軽くパパと話してから、ボクと視線を合わせるために腰を下ろした。 目が少し濡れていた。
「改めまして、私が結城先生です。 困ったことがあったら、いつでも頼ってね!」
微笑むように笑い、ボクもつられて少しだけ笑う。 人を惹き付けるようなセンセイの顔にほんの少しだけ元気が出たような気がする。
「それでは将をお願いします」
「はい、わかりました。 お仕事頑張ってください! ほら、将くんもパパに『いってらっしゃい』しよっか?」
「いってらっしゃい」
手を振って言うとパパは優しく微笑んで「行ってくる」と言い、頭に手を置き会社に向かった。
センセイに手を引かれて教室に入ると、みんなが驚いた顔をしてこっちに駆けよって来た。 そのなかにはみおちゃんとダイスケくんもいた。 心配したとか、もう大丈夫なのかとかいろいろ聞かれて今度はこっちが驚く番になった。
——どれからこたえらいいの!?
センセイに助けを求めるように見上げても、うれしそうに笑うだけでこの状況を楽しんでいるようだった。
——こういうときに、おとながたすけてくれるものじゃないの!?
答えあぐねていると、責め立てるようにこっちに詰め寄ってくる。 そのたびにこっちも一歩また一歩と後ろに後退しているうちに、外に出るまでになってしまった。
「もうだいじょうぶなの? ねぇ!」とみおちゃんが追い詰めるように言った。
「だまってないでこたえろよ! こっちはしんぱいしてたんだぞ!」とダイスケくんが怒ったように言った。
「ボクはもうだいじょうぶ。 どこもいたいところもないし、けんこうそのものだよ」
ボクが答えた瞬間、シーンと静まり返った。 みおちゃんとダイスケくんもその他の子も、目を大きく開いて信じれないものを見るかのような顔をした。 俯き、空気に溶けてしまいそうな小さい声でみおちゃんが言った。
「ボクってどうしたの、ショウくん? いつもみたいに『ショウは』っていわないの……?」
「キオクを……なくしちゃって。 でもかおとなまえはきのう、おぼえたから!」
「おぼえたって……」
怒りがこもった声だった。 裏切られたとか、理不尽なことにあったとかそういった理解できなようなことに対しての怒りだった。
ボクとしてはしょうがないとしか言えない。 だけど軽々しく言葉にしていいものではないと悟った。 記憶を無くしたことで一番被害を受けるのはもちろん自分自身だが、次に被害を受けるのはその人の近しい人になる。
友達とか恋人とか家族とか。
これまで積み上げてきた思い出を勝手に忘れられてしまう。 これを受け入れてくれる人もいるだろうが、受け入れられない人もいることは確かである。
みおちゃんは後者——————受け入れられない人だろう。
受け入れられないため友好関係が崩れてしまうことだってあり得る。
ボクはみおちゃんの言葉を待った。
どんなにひどいことを言われても、それはボクのせいでみおちゃんは悪くない。 それで友達ではなくなってしまうのは悲しいけど、それをひどく言うつもりもない。
記憶を無くして被害者になり、無くしたことで加害者になったボクにはどうこう言う資格はないのだから。 すべてを受け入れて呑み込むしかない。
「……ひどいよ」
ぼつりとみおちゃんがつぶやいた。
「ずっといっしょだったんだよ……。 いろんなことして、たのしかったのに。 かってにわすれるなんてひどいよ!!」
言葉を投げつけるように言うと走って去っていった。
「ダイスケくん」
「うぇ!? な、なに?」
ボクとみおちゃんを交互に見ていたダイスケくんは、すっとんきょな声を出してこっちを見た。
「ボクはなにもおぼえてないんだ。 ダイスケくんと、どんなことをしたのかもわすれてる。 それでもともだちでいてくれる?」
「そ、それは……」
「むりならそれでもいいんだよ。 でもみおちゃんとは、これからもなかよくやってほしいかな」
切羽詰まったように顔をしかめてから「ごめん!」と言ってダイスケくんも去っていった。
他の子も霧が晴れるようにその場を去っていった。 残ったのはボクだけだった。
教室の前でこっちを見てるセンセイに乾いた笑みを送った。
記憶も友達もすべては振り出しに戻った。 ボクとしての新しい生活が始まる。




