六十話
「俺が将のパパだ」
そう言った人がいた。
その人は事あるごとに笑顔を見せていた。 お話をするとき、おはようの挨拶をするとき、おやすみなさいの挨拶をするときも笑顔だった。
——どうしてこのヒトは、えがおでいられるの……?
ボクの病気のことはお医者さんに聞いたから分かる。 ボクには以前の記憶がない。 あの人の子供であること、友達のこと、幼稚園のセンセイのこと、なにもかも覚えてない。
ボクはそれがすごく不安だった。 真っ暗闇のなかで一人取り残されてしまったような不安感。 足元も右も左も見えなくて、一歩でも踏み出したら落っこちてしまいそうだった。
それなのに、あの人はずっと笑顔だった。 普通なら落ち込んでいるものではないのだろうか。
分からない。 ボクにはあの人が分からない。
家に戻って以前、幼稚園でやったという『白雪姫』のビデオを見ることになった。 あの人は少し嬉しそうにしていた。
はじめに映ったのはボクだった。 こっちを見て微かに笑ったように見えたけど、すぐに画面は暗くなってしまった。
またボクが映った。 花畑でお花を摘んでいる女の子に音を立てずに近づくボク。
そして最後にはみんなが笑顔で壇上に上がった。 ボクの両隣には白雪姫と王子様がいた。 ボクは二人と一緒にうれしそうな笑みを浮かべて幕が閉まった。
なんだか変に気分になってくる。 映っていたのはボクであるけど、ボクではない。 ボクはあんな変なしゃべり方をしないだろうし、あんなに笑えない。
姿はまったくの一緒なのに、まるで知らない別人。 そう思えた。
「どうだった? なにか思い出せることはあるか?」
あの人は期待を持った顔で言った。
あのビデオを見ることで少しでも記憶が戻ることを期待していたに違いない。 でも思い出せる事は何もなく、ただただ怖いと思った。
それでも不安を顔に出さないように答えた。
「あのこたち、だれ?」
あの人はそれでも笑顔を作って、説明をした。 あの人は戻るかもしれないという期待を裏切られたのにも関わらず、寂しそうな顔を一つもしなかった。
不安になる。
ずっと笑顔を向けられるのは不安だ。
今のボクはどうでもよく扱われているのだろうか。 だって、期待を裏切ってしまったのに笑顔でいるなんでおかしい。 こんなことは絶対におかしい。
あの人はボクの友達のこと、幼稚園のセンセイのことなどを懐かしそうに話していた。
知っているはずなのに知らない。 それがこんなにも不安になるなんて……。
もうボクには誰とも思い出を共有することはできない。 そう思うとなんだか悲しくなってくる。
「おなかでも痛いのか?」
あの人が心配そうに聞いた。 初めて見るあの人の笑顔ではない顔。
ボクはいま思っている感情をそのまま伝えると、あの人は優しく抱きしめてくれた。
——あたたかくて、おちつく。
これまでの不安や怖い思いといったマイナスな感情がスっと溶けて消えてしまいそうだった。 あの人からすれば見知った人であるだろうけど、ボクからしたらまだなにも知らない他人でしかない。
それなのに安心する。 あの人のにおいやぬくもりが心地いい。
ずっとこのままでいたいけど、くすぐったい。 苦し紛れのことを言って離してもらうと、あの人は笑顔ではなく真剣そのももの顔をした。
「思い出せなくてもいいんだ。 思い出せない分、覚えていけばいい。 ゆっくりとな」
そう言った。
本当に分からない。 思い出させるために『白雪姫』のビデオを見せたのに、思い出せなくてもいいと言う。 どっちなんだろう。 思い出してほしいのか、ほしくないのか。
でも救われたような、心が軽くなったような気がした。
さっきまでは何も覚えてないボクが怖くてしょうがなかった。 知ってるはずなのに知らない。 ただこれだけで怖いと感じた。
このままじゃ、おかしくなる。 早く思い出さなきゃ、て焦っていた。
あの人は思い出せなくてもいい、と言ってくれた。 今のボクを肯定してくれた。 それだけで心が軽くなる。 焦っていた気持ちが落ち着く。
もう「あの人」ではなく、「パパ」と呼んでもいいかもしれない。
今日、ボクは心の底から安心した。




