第二話 柳川家のよくある夕食時
「加齢臭がするっていうのは一体どういうことかね小吾君」
三人で食卓を囲んでいる最中、唐突に質問を投げかけられた小吾は、サラダに添えられたキュウリを取ろうとした箸を止める。
「何だ? その件はまだ続いていたのか?」
「当たり前じゃないか」
「あれからもう十二時間は経っているじゃないか。今更何だ」
「一時保留と言った筈だ。議論はまだ行われてはいない」
「はあ、面倒臭い話だな」
「臭いっ!? やっぱ臭いのか俺!? 体中からオヤジ臭が分泌されているというのかあああああっ!?」
大吾は頭を抱えながらカーペットの上を転げ回る。
「やめろ鬱陶しい」
「兄さん。食事中にそういう話はちょっと」
奈々香は大吾に注意を促した。
「ああ悪い、けどな……」
珍しく、本当に珍しく悩み込んでいる様子の大吾。
妹の身として気になった奈々香は、大吾に今日の出来事を尋ねることにした。
「会社で何かあったんですか?」
「いやな、会社の女子達に話しかけようとしたら、何かわざとらしい理由をつけて俺から皆遠ざかってくもんだからさ、ひょっとしたら俺相当臭ってんじゃないかと思ってよ」
「……はあ」
思っていたほど大した悩み事ではなかったので、溜息を吐くような相槌を打つ奈々香。
「で、そこんとこウチの小吾先生に確認したかったんだが、どうですかい先生?」
「ふん」
と、鼻で笑った小吾は箸を茶碗の上に置く。
「それは紛れもなく加齢臭が原因だろうな」
眼鏡を中指で掛け直しながら小吾は言う。
「や、やっぱりか!」
「女というのは男と比べて匂い(臭い)には敏感だからな。かと言って直接本人にそのことを告げる訳にもいくまい。だからその女共も、もっともらしい理由をこじつけて、悪臭の範囲外に出るしかなかったんだろうな」
「くそうなんてことだ! 今年ぴっちぴちの二十代を迎えるこの俺が、既に加齢臭に犯されていたなんて!」
「机の上に消臭剤を置かれているようになればアウトだな」
「何だとっ!? はっ、そう言えば以前、先輩で一人知らない間に消臭スプレーを机に置かれていたということがあった。あれは『お前マジ臭えんだよ』っていう女子社員からの隠れた意思表示だったのか!」
「おそらくは……な」
「奈々香っ!」
「え? あ、はい?」
話に入っていける間がなく、とりあえず食事を進めていた奈々香に急なお呼びがかかる。
「嗅げっ! 俺を嗅げっ!」
「ええっ!?」
大吾は奈々香の顔近くに袖を捲った腕を突き出す。
「本当に俺からオヤジ臭がするのか否か、お前のその小っちゃくて可愛い鼻で確認してくれ!」
「いや、あの、その……」
奈々香は大吾の腕から視線を向けたり逸らしたりと挙動不審な行動をとる。
「む? 何だ? はっ、そうか。腕じゃそこまで臭いは伝わらないか。ならば、こっちでどうだっ!」
「きゃあああああっ!」
シャツを捲り上げて上半身をさらけ出した大吾を奈々香は至近距離で見てしまう。
仕事柄、それなりに筋肉はついている為、少しばかりたくましい体つきをしている。
「準備はOK! さあ嗅げ! 嗅いでくれ奈々香! さあ、さあ、さあっ!」
「な……、な……」
奈々香の顔は今にも目を回して倒れそうなほど熱くなり、くらくらと頭を揺らしている。
そんなこととはいざ知らず大吾は上半身を徐々に迫らせていく。
「さあ、さあ、さあへぶうっ!」
厚さ八センチはあろうゲーム攻略本の角が、回転を加えながら大吾の頭に命中する。
妹に不埒な真似を働こうとした大吾に、強制猥褻未遂の罪により、裁判長柳川小吾による有罪判決が下ったのだ。
「この低脳が」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「という訳で、消臭剤を置かれる前にどうにかしたいので、何か改善策を教えてください」
復活して食卓の定位置に戻った大吾は、二人に解決方法を求めた。
小吾は露骨に嫌そうな顔をする。未だ胸の動悸が治まらない奈々香はしばらく答えることができなさそうだ。身内の体とはいえ、耐性の浅い女の子が男の裸を至近距離で見てしまったのだから仕方ない。
「……ふん。なら、手っ取り早い方法を教えてやる」
小吾は面倒臭そうに口を開く。
「流石は我が家の雑学女王。頼りにしてるぜ」
「死ねばいい」
「うんよし最初から考え直そうか」
一言で済ました解決法を予測していたかのように、素早くツッコミを入れる大吾。
「何だ不満か?」
「あるに決まってんだろこの野郎。何で加齢臭消すのに命差し出さなきゃいけねえんだよ」
「それでもう臭いを気にする必要もなくなるだろ」
「死後だって気にするわ。てかそれだと違う臭いもしてくるだろうが。主に腐敗的な」
「心配するな。そうなる前にゴミに出すから」
「また生ゴミか!」
「いや、燃えるゴミだ」
「そうか燃えるゴミ……、いや特に嬉しくねえよ!」
「火葬にしてやるだけありがたいと思え」
「ありがたく思われてえならせめてちゃんとした葬式を挙げて!」
「ふざけたことを抜かすな。どうして僕が貴様の葬式を挙げなきゃいけないんだ」
「実の兄の葬式すらしてもらえないの!?」
「そんな金があれば僕のゲーム代に回す」
「俺への冥福は電子機器に劣るというのか!」
「……………………………………………………………………………………………………………正解」
「アーイムショオックッ!」
「あの、そろそろ話を戻しませんか?」
動機が治まり正常状態に戻った奈々香は、放っておくと長くなりそうだった二人の雑談を中断させに入る。
話のキリがよかったのか、大吾と小吾は言うことを素直に聞いて奈々香の方を見る。
「えっと、私なりに考えたんですけど、やっぱり体の清潔さを保つのが一番いいんじゃないでしょうか? ちゃんと毎日お風呂に入って、腋の下や頭皮みたいな臭いの溜まりやすい場所を念入りに洗えば、それなりに効果があると思いますよ。私は常日頃そうしてますし」
「なるほど、シンプルイズベストという訳か。難しく考えるより、そういう普通のことの方が案外いいのかもな」
「朝臭いが気になるようでしたら、私が朝風呂を用意しておきますし」
「そいつはいいねえ。ついでにキンキンに冷えた奈々香を用意してくれれば言うことなしだぜ」
「兄さん、朝からお酒は……って何で私なんですか!」
「いや、気持ちいいと思って。いろんな意味で」
「そこはビールとかでいいじゃないですか!」
「だって俺まだ未成年だから酒飲めないし」
「そんなところだけまともにならないでください!」
実際、大吾は酒も飲まなければ煙草も吸わないし、規定年齢に達するまで十八禁の代物には一切手をつけてこなかった。
根本的なところは真面目なのである。
「おい奈々香、貴様まで脱線してどうする」
「はっ!?」
役割変動。
今度は小吾が二人を本筋に連れ戻す。
「ご、ごめん」
「まあそれはさておき、奈々香の提案自体は悪くない。が、まだまだ手緩いな」
「そ、そうかな?」
「そんなもの所詮は誤魔化し、単なる一時しのぎでしかない。やっていることは付加とさほど変わりないからな」
「え、エン、ちゃんと?」
ゲーム関連に疎い奈々香はただ疑問符を浮かべるしか道がなかった。
「とにかくだ。加齢臭を薄めるなら、もっと根本から正していくほうがいい」
「根本?」
「臭いの元だ」
箸で大吾の体を指しながら小吾は言う。
「加齢臭とは酒や煙草、脂肪分やタンパク質を多く含むものを普段から食べ過ぎていると、若年層でも発しやすくなるらしい。貴様の場合、食生活を見直して正していけば、改善は望まれる筈だ」
「脂肪分……」
大吾は食卓の上を見る。本日のメインディッシュである食べかけのポークステーキが置いてあった。
「犯人はお前かー!」
「えええええっ!?」
あらぬ疑いをかけられた奈々香。
「くそうなんてことだ! まさか奈々香が俺を陥れようとしていたなんて! そんなに俺をオヤジ化させたいのか!」
「ち、違いますよ! 今日はたみゃ、たまたま豚肉が安かっただけですから!」
若干噛みながらも罪を否定する奈々香。その可愛らしいミスについ顔が緩む大吾。
「そもそも、私はいつも二人の体を考えて、毎日バランスのいいようメニューを調整しているんですから、栄養が偏る訳ないですよ」
食卓の上にはポークステーキの他に白米、キャベツの味噌汁、今まさに小吾の小さな口の中で瑞々しい音を奏でているキュウリたっぷりサラダが並べられていた。
無罪を主張するには十分な証拠である。
「それなのに、冗談でも私を疑うなんて、酷いですよ兄さん……」
「ふぐぉっ!」
悲しみで潤んだ美少女の瞳プラス上目遣いのコンボが、大吾の男心を槍の如く貫いた。
「奈々香よ、妹とはいえ、それは反則すぎるだろ……」
「え?」
「いや、何でもない」
胸を押さえながら前屈みで言う大吾。
「しかし、お前の言うとおりだ。兄ちゃんどうかしてるぜ」
「兄さん……」
「そうだよな。俺への愛情を所狭しと詰め込んだ料理を朝昼晩毎日食ってんだ。不健康になる訳がねえ」
「ちょっと気になるところはありますけど、そうですよ。その通りですよ」
「だよなあ。かっかっか!」
「おいちょっと待て」
ここで小吾から待ったの手が出される。
「何だ小吾?」
「そうなると前提が崩れることになるんだが」
「前提?」
「貴様自分のことなのに忘れているのか……」
はあっ、と呆れ果て溜息をつく小吾。
「酒も飲まない煙草も吸わない、食生活も問題なし。だったら貴様から加齢臭がするのはおかしいだろ?」
「あれ? 俺の記憶を辿ると、一話目に加齢臭がすると言ったのは小吾ちゃんだったと思うが」
「一話目って何だ? まあそれはともかく、あれは嘘だ」
「ぬぁにいっ! テメエ俺を騙しやがったのか!」
「あれくらい冗談で流せ」
「えっとつまり、会社のOLさん達が離れていったのは、別の理由ってこと?」
「そういうことだ。おい大吾、貴様その女共に何かしたんじゃないか?」
「って言われてもなあ」
頭を掻きながら頭の中を模索する大吾。
「うーん、ダメだ。マジで思い当たる節がねえ」
「ふん、ならば質問を変えるぞ」
何かを悟っているかのような口ぶりで小吾は言う。
「その女共に話しかけた理由は何だ?」
「ん? そりゃ恋活に決まってんだろ」
大吾は臆面なくその答えを返した。
「俺も異性を好む男の端くれ。今年晴れて成人の仲間入りをする身としちゃあ、そろそろ彼女の一人や二人三人余人ゲットして、大人の階段登んなきゃいけねえからな。かかっ、アタックもいつもより一層気合が入るってもんよ」
自身の恋活話を自慢げに話す大吾。
「やっぱりか……はぐ」
そう呟くように言った小吾は、眉間にしわを寄せた状態で白米を一口食べる。
「で、それがどうしたってんだよ?」
「どうしたって、それは――」
ただ単に貴様がウザがられているだけだ。
と、言おうとしたのだが。
「………………」
途中で言うのをやめた小吾は、自分のポークステーキにナイフを入れ始める。
「おい何だよ小吾、急に黙り込んで、ん?」
ふと、部屋の中に異様な空気が漂っていることに感づく大吾。
空気の発生源。大吾の恋活という単語を聞いた辺りから下を向き、寡黙になっていた奈々香の姿がそこにあった。
「……兄さん、まだそんなことしているんですか?」
閉じていた口が開かれた。
微笑ましい表情に癒しを実感できる優しい声色。
だが、放たれているオーラはそれとは正反対の代物。
禍々しい殺気だ。
「お、おい奈々香、いや奈々香さん、一体、どうなされた?」
底知れない恐怖を肌で感じる大吾。ドロッとした汗を垂らしながら大吾は説明を求める。
「前にも言いましたよねえ? 女の人に過度なナンパをするのはやめてくださいって」
ゆらりと立ち上がり、徐々に大吾へと近づいていく奈々香。そしてその手には、脂分でキラリと光るフォークが若干力強く握られていた。
「か、過度なナンパ? 俺はそんなつもり全然な――」
大吾が言い訳をしている最中。
かっ! と。
顔からわずか数ミリ離れたところを目に捉えきれないほどのスピードで横切ったフォークは、さながら研ぎ澄まされた投げナイフの如く、借りアパートの壁に突き刺さった。
「ひいっ!?」
普段は家事全般を率なくこなす母性溢れる中学二年の少女奈々香。しかし怒りのリミッターが解除されると、心の奥底に眠る狂気性が目を覚まし、暗殺者にも似た戦闘能力を発揮する。
「言いましたよねえ?」
ナイフ(食事用)を新たに装備した奈々香はのらりくらりと大吾に接近していく。
大吾は救援を求めるべく小吾にアイコンタクトを試みるが、当の本人はまるで何事も起きていないかのように、放送中のバラエティ番組を見ながら食事に勤しんでいた。
助けが来ない以上、もはや頼れるのは自分のみ。
「ま、待て奈々香! わかった、この件に関しては全面的に俺が悪かった。で、でも、俺の気持ちも少しばかり理解してもらえねえかなあ?」
大吾は後退りしながら同情を誘おうと試みる。
「幼馴染に同級生、先輩後輩道行く女性。フラれフラれて流した涙は数知れず。友人は次々とリア充化していく一方なのに、俺だけ気付けば二十代まで数か月……。そんな惨めなのはもう嫌だ! 彼女いない歴イコール年齢を更新するのはもう嫌だったんだ! だから頼む、見逃してくれ!」
(妹にそんな聞きたくもない色恋話を聞かせるな)
と、心の中でツッコむ小吾。
「うふふ。いやですよ兄さん。別に私は兄さんに恋をしてほしくない訳じゃないんですよ? むしろ、兄さんにそういう女性ができるのは大いに結構です」
「えっ!?」
恋活賛成という予想外の言葉が返ってくる。
作戦は成功したのか。大吾の顔に期待の笑みが浮かぶ。
「ただ、兄さんがそうやって誰かに迷惑かける度に、へんな噂や苦情の対応を、何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年もやり続けてきた私の気持ちを、いい加減理解してもらいたいなーって、そんなことをちょっぴり、ほーんのちょっぴり思ってみただけで……」
作戦失敗。大吾の顔は絶望に塗り替えられる。
器用を通り越した指使いでナイフ(食事用)をファンの如く高速回転させていた奈々香は、積年の恨みをここで一気に晴らすつもりか、ナイフ(食事用)を大吾の脳天にロックオンさせた状態で動きを止める。
「な、ななななななか様! どどどどっどうかこのこのの行き遅れれれめにっ、ごっ、御慈悲をっ!」
六歳も歳の離れた妹相手に、恐怖で体全体を震わせながら命乞いをする涙目な兄の姿がそこにあった。
だが、一度殺ると決めた暗殺者奈々香に、一片の慈悲などある筈もなく。
大吾は定められたバッドエンドへ進んでいった。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
「うるさいな。はぐ」