第十八話 柳川奈々香のやる気
「ぐぬぬぬぬ」
身動きを封じられた奈々香は両拳を握り締めて悔しがっている。
何故か大吾に百円ショップで購入した安物コップを割らせようと画策していた奈々香。
ついには力尽くでコップを割らせようとしてきたが、見かねた小吾が奈々香を羽交い締めにして台所から引き離した。
その間に大吾は命を狙われたコップ達を素早くかつ手を抜くことなく洗い終え、水切り籠の中で自然乾燥させている。ちなみにドンブリは未だ洗い桶の中だ。
「おい奈々香、まさか洗い終わったこいつらすら叩き割る気じゃねえだろうな?」
大吾はしかめっ面を向けている奈々香に問う。
「いえ、洗い終わってしまったのならもう意味がありません。悔しいですが引き下がりましょう」
「やった、やったぞ。これでコップの危機は去ったのだ」
コップの安全が保障されたことに安堵する大吾。それにより、小吾も奈々香にかけていた羽交い締めを解き、奈々香を自由にさせる。
「では改めまして」
「ん?」
奈々香はゆっくりと大吾に近づいていき。
「兄さんの裏切り者!」
「いやんっ!?」
大吾に容赦ない平手打ちをお見舞いする。
「ぶったね!? 前々回に続けて二度もぶった!」
「前々回って何だ?」
「親父にはぶたれたことないのに!」
「母さんにはぶたれまくりだったからな」
「ぶたれるっつうかグーパンチだからあれ! いくら女の腕力だからってグーパンチは痛えよ! 今のビンタのが大分マシだわ!」
「だそうだ奈々香。もう一発いけ」
「兄さんの裏切り者!」
「なしてっ!?」
小吾の指示に素直に従う奈々香は大吾の頬を再度平手打ちする。
「マシってだけで痛くねえ訳じゃねえよ! 見ろお前、同じとこばっかぶつせいで、ほっぺ真っ赤っかになっちまったじゃねえか!」
「知りませんよそんなこと! 兄さんが私の期待に応えてくれないからいけないんじゃないですか!」
「何で嘘ついてまで家事のできねえダメ人間さをアピールしなくちゃならねえんだよ!? 今日は元々俺がそれなりでも家事ができるってことを証明するのが目的だっただろうが!」
「だからじゃないですか! 兄さんが家事できるって証明されたら、私勉強頑張らなきゃいけないじゃないですか!」
「それが理由か!」
ようやく奈々香の妙な行動に納得のいく大吾。
「てか作戦がザル過ぎんだろ!? 強引にコップ割らせたところで俺が――やっちまった!? やっぱ家事できねえや俺! なーんて思う訳ねぇだろうが!」
「そこは察してくださいよ! 察してさり気なくダメ人間になってくださいよ!」
「さり気なくダメ人間になれって何!?」
理解の及ばない主張が叫ばれる中、小吾は奈々香の腕をツンツンと突く。
「で、結局奈々香目線で見て、大吾の家事レベルは合格に値するのか?」
「う……」
小吾は一般的な家事を一通り終えた大吾の評価を奈々香に尋ねる。その質問を聞いた途端、苦い表情を奈々香は浮かべた。
「おうそうだ。正当な合否判定を要求するぞ」
答えを知りたい大吾も奈々香を指差しながらそう訴える。
「それは、えっと」
是か非かを言うだけだが、奈々香は視線を下に向けて口ごもってしまう。不意にちらりと目を向けると、そこには目くじらを立てた小吾の顔があった。
その顔からは「さっさと答えろ」という意思が伝わってくる。
「……その、所々気になる部分はあるし、これから本格的にやっていくなら覚えてもらうことはまだまだ沢山あるし、個人的っていうかまあ私基準だけど、家事の腕前としては百点満点は全然あげられないなーって感じだけど――」
「御託並べてないで早く言え」
「ぎょうきゃくっ! ぎょうかくだからそんな睨まないでよっ!」
小吾の睨みにびくついて噛んでしまいながらも、奈々香は大吾に合格を言い渡した。
「しゃー受かったー! まごうことなく合格じゃー! 赤点じゃねー!」
大吾は自身の合格に拳を上げて喜んだ。
「当て付けですか!? そのセリフ私への当て付けですか!?」
「おうその通りだ。我が身可愛さで罪もねえコップちゃんの命散らそうとしてんだからそんくらい言うわ。見ろお前、恐怖のあまりコップちゃんが泣いてるじゃねーか」
大吾は命の危機にさらされたコップを指差す。丁度コップから一滴の水滴がたらりと下に零れ落ちた。
「何馬鹿なことを言ってるんですか! どう見ても水道水でしょうあれ!」
「貴様の馬鹿さ加減もとうとうそこまできたか。全く嘆かわしい」
「例えで言ってんだからスルーしてくれや! まあとにかく、奈々香が勉強頑張ってる間は俺が家事全般を受け持つぜ? 洗濯とか洗濯とか洗濯とか、全部お兄ちゃんにまっかせなさい!」
大吾は拳で胸をトンと叩いて言う。
「あ、僕ら女子組の洗濯だ・け・は、面倒くさいがこの僕がやる。貴様はそれ以外を奴隷の如くやるんだな」
「ちっくしょう小吾ぉおおお! 唯一の楽しみをよくもぉおおお!」
楽しみを奪われて恨みがましい目を小吾に向ける大吾。向けられた小吾は何の恐ろしみも感じないようで、ただ真顔でスマホゲームをプレイしている。
「ていうか、小吾も洗濯できたんだ……」
「当たり前だ。一般レベル程度なら余裕でこなせるに決まっているだろ」
「いや、寧ろ小吾は兄さんより家事できないんじゃないかと思ってて」
「僕はできないんじゃなくてしないだけだ」
「そんな偉そうに言うことじゃないでしょ……」
「それに、僕がこいつ以下だと? あり得ないな。そんな屈辱的なことがあってたまるか」
「おうおう聞き捨てならねぇな小吾ちゃんよぉ。そんなこと言うなら次はお前の番だ。俺以上にこなせる姿をフリフリエプロン身に着けて見せて貰おうじゃないのよ」
どこからともなく取り出したフリル付きピンクエプロンをゆらゆらと揺らしながら大吾は言う。
「何でそんなものがあるんだ。死装束に対する仕返しか?」
「いや、いつか小吾ちゃんに着させようと思って準備してた服の一つなんだけど」
「誰がそんなもの着るか。奈々香に譲る」
「え? ん~、可愛いけど、どう見てもこれ私には小さいから着れないよ」
「そりゃこれは小吾の体格に合わせたサイズだからな。奈々香が着たんじゃピチピチに――」
急に押し黙り、フリルエプロンと奈々香の体を交互に見る大吾。
「な、何ですか兄さん?」
「……今ですら体のラインがよく分かるエプロン姿の奈々香。それが更に……ピチピチに? 俺としたことが、盲点だったぜ」
顎に手を当ててやたら真剣な顔で考えていた大吾は、ニヤリと口元を緩めると、ゆっくり奈々香の方へ視線を向けた。
「ちょっと!? 何ですかその意味深な笑みは!?」
「とりあえず奈々香、これ一回着てみ?」
「明らかに何か企んでそうなの分かってて着る訳ないじゃないですか!」
「大丈夫だって。ただの実験だと思ってさ?」
「どんな実験ですか!? 何の為の実験ですか!? 絶対いやらしいやつでしょうそれ!」
奈々香が一歩下がると、大吾も一歩詰める。
「まあまあよいではないか。別に減るもんじゃないし」
「私の尊厳が大幅に減りますよ!」
更に奈々香が一歩下がると、大吾も一歩詰める。
「そうだな、じゃあもう一度プランBを実行に移すか」
「ぷ、プランB? 何でしたっけそれ?」
「お前が一旦引き籠った時にやったお詫びの印ってやつだよ」
「ああ、あれですか」
「まあ今度はお詫びじゃなくて報酬ってとこだけどな。奈々香、これを着てくれるんなら、お前の欲しい物を一つ買ってやるぜ」
「兄さん、私を甘く見すぎですよ。たかが欲しい物一つで私が尊厳を犠牲にするとでも――」
「オーブンレンジ」
「っ!?」
大吾の掲示した品を聞いた奈々香は言葉を詰まらせる。
現在、柳川家には知人から譲り受けた古い電子レンジ、温めと解凍ができるものしかない。
それ故に、奈々香の料理レパートリーでも実現不可能なものがいくつかあったのだ。
「奈々香欲しがってたよなぁ、オーブンレンジ。あれがあれば料理の幅が更に広がるよなぁ?」
「そ、それは、確かに……」
「グラタンもできればラザニアも、ピザもできる。炊飯器を利用しないローストビーフだってできるぜ?」
「グラタン、ピザ……、ちゃんとしたローストビーフ」
「そして何より――ケーキが焼ける」
「す、スポンジケーキっ!」
奈々香は料理だけではなく、お菓子も相当なクオリティで作ることができる。
とは言えフライパンを利用したクッキーや炊飯器で作るケーキなど、家に元々ある調理器具を代用品にして作っていたので、どうしてもオーブンで焼くものと差ができてしまうのだ。
「焼きたいよなぁ? 作りたいよなぁ? 食いたいよなぁ? さぁ、どうする奈々香?」
「くっ、ううう……」
フリルエプロンを横に振りながら距離を詰めていく大吾。
奈々香もオーブンレンジの誘惑には抗い難いようで、足を止めて苦悩を続けている。場合によっては本当にピチピチのエプロン姿を披露することもあるかもしれない。
そんな二人のやり取りを横目に、小吾はスマホから視線を上げた。
「もういい。貸せ」
「え?」
「は?」
大吾と奈々香が同時に小吾を見る。
「僕がきる」
「な、何ぃ!?」
「小吾っ!?」
大吾から無言でエプロンをひったくると、小吾は何の躊躇いもなくそれをきる。
真っ二つに。
「いやぁあああああっ!? 小吾テメェ何しやがる!? せっかくのフリフリエプロンがぁ!?」
「どうせ誰も着ないだろ。だったらこんなもの雑巾にしてしまった方が役に立つ」
いつの間にか用意してた布切りバサミをチョキチョキ動かしながら小吾は言う。
「酷いわっ! これ一万七千円はしたのよっ!」
「思った以上に高い!?」
「そんな金どこから出した?」
「俺のポケットマネーからに決まってるじゃない! 欲望の為ならどんな金額だろうが惜しまないわ!」
「欲望に全振りしすぎだろその金の使い道は」
小吾は呆れを隠そうともせず、切り裂いたエプロンの片割れをひらひらと振る。
対する大吾は、魂が抜けたような顔でその布切れを見つめていた。
「……あの、兄さん」
「あ?」
「オーブンレンジなんですけど、もし、本当に買ってくれるなら」
「おう」
「その、変な格好とかじゃなくて……勉強、頑張ってもいいです」
「「………………」」
静寂が部屋の中を支配している中、大吾と小吾は無言でじーっと奈々香を見ている。
「な、何ですかその顔」
「いや、仮にそれでやる気が出るならいいんだけどさぁ、奈々香お前」
「自分の不甲斐なさのせいで赤点取って帰ってきてるくせに、随分と図々しい申し出をしてくるんだな」
「うっ!?」
小吾の容赦ない一撃が奈々香の胸に突き刺さる。
「勉強して欲しいなら貢げとか、どこぞの姫気取りか?」
「私そんな風に言ってないでしょ!?」
「表現はともかく、同じことではあるだろ」
「だ、だって! どうしてもオーブンレンジ、欲しいんだもん!」
「それで万単位の物をねだれるなら僕だって欲しいわ」
「ちなみに小吾、お前なら何ねだる気だよ?」
「最新型のゲーミングPC」
「お前も大概図々しいな!? ……はぁ~」
大吾は呆れたように額を押さえ、大きく溜め息を吐いた。
「ああもう、分かった分かった。勉強頑張るってんなら買ってやるよ、オーブンレンジ」
「ほ、本当ですかっ!?」
「ああ、折角なら高性能のやつをな」
「高性能っ!?」
一瞬で奈々香の顔が輝く。
「ただし条件付きな」
「条件?」
「次の中間テストで赤点一つも取らないことだ」
「うげぇっ!?」
輝いた笑顔が一瞬で崩壊した。
「いやいやいや! それ難易度高くないですか!?」
「全然高くねえよ。三十点未満取らなきゃいい話だろうが」
「それが難しいから言ってるんです!」
「難しいならより頑張れよ。それに、元々赤点一つでも取ったら勉強漬けにするって言っただろうが。ご褒美付けてやるんだから、やる気出して頑張ってくれや」
「う、うぅ……」
奈々香は小さく唸りながら頭を抱える。
しかし奈々香は家庭料理人として、高性能オーブンレンジを手に入れるまたとないチャンスを逃したくはなかった。
その物欲が奈々香の中に眠る勉学へのやる気に火を灯した。
「わ、分かりました。やります! 次の中間テスト、絶対乗り越えてオーブンレンジ買って貰います!」
奈々香は拳を握り締めてハッキリと宣言する。
「よぉし、よく言ったぜ奈々香! それでこそ俺の愛する妹だ! ハグしてやるぜ!」
「やる気が削れるのでやめてください」
「何でよ!?」
大吾が両腕を広げて勢いよく迫ると、奈々香は嫌そうな顔をしながらそのまま小吾の背後へ避難した。
そんな兄と姉を眺めながら、盾代わりにされた小吾は大吾に話しかける。
「ちなみになんだが」
「どうした小吾?」
「昨今は値上げ祭りも影響してるから、高性能なオーブンレンジだと十万は軽く超えるぞ」
小吾がさらりと言う。
「………………」
大吾は数秒間固まり、ゆっくりと奈々香の方を見る。
「奈々香」
「はい」
「実は最近家電屋さんで良さげなトースターを見つけてな」
「嫌です」




