第十七話 柳川小吾のヤルキ
ニンニクの臭いを緩和させる為、口臭用カプセルを体内に取り込んでしばらく経つ。
奈々香は両手で口と鼻を覆い、一・二回息を吐き出して臭いの有無を確認してみる。
「どう小吾? ニンニクの臭い消えた?」
「……正直わからん。鼻が大分麻痺してるみたいだからな。ちなみに僕はどうだ?」
「……私もわからない。え、ホントに大丈夫かな私達?」
「何だこの異様な光景は……」
うら若き女同士、お互いの息の臭いを確認しあうという妙な絵面を見てぽつりと漏らす大吾。
「んな心配し過ぎだって。明日までには消えちまうよそんなもん」
「兄さんは男だからそういうこと言えるんですよ。女の子は臭いだなんて言われたくないんですから」
「ばっかお前男だって臭いは気にするぞ? 臭かったら女の子に嫌われるからな」
「そういやこの間も加齢臭がどうのこうのって話をしたな」
「でも結局あれは臭いじゃなくて、兄さんが敬遠されてるだけだったよね?」
「どっちみち嫌われてるんじゃないか」
「うるしぇー!」
痛いところを突かれて喚く大吾。
先日の大吾(他二名)によるミスにて発生した不祥事案件が原因で、女性社員から敬遠どころか軽蔑の視線を向けられつつある大吾の心にはかなり効いたようだ。
「今に見てろよお前ら! いずれ訪れるモテ期が来たら、今までの汚名なんざ消し去るくらいのモテ男になって、必ずとびっきりカワイイ彼女ゲットしてやっからな!」
大吾は輝ける未来(未定)を信じて妹達に決意表明をする。
「寝言は寝て言え。大体、貴様のモテ期などとっくの昔に終わっているだろうが」
「そんな馬鹿な!? そんなの嘘だ! そんなモテモテになった記憶ありゃしねえぞ!?」
「そうだな……。あれは確か、二十年くらい前の出来事だったか」
「柳川家第一子がめでたく誕生した頃じゃねえか! お前はその頃影も形もねえよ! 何をさも俺の過去を知っている口ぶりで喋ってんだよ!?」
「だがモテ期が来ていたのは本当だ。自我が芽生えていない当面の間、貴様は一人の女を手籠めにしてやりたい放題やっていたと僕は聞いたぞ」
「それ訊いた相手絶対お袋だろ! お袋の育児体験談の話だろ! そしてその手籠めにされてた女は紛れもなくお袋のことだろ!」
「あの頃は夜も寝かせてくれなかったと嘆いていたな」
「やめろそれ以上この話題を広げんな! 知りたくもねえし思い出したくもねえ消し去りたい記憶だわ!」
嘆きたいのは自分だと言わんばかりに、大吾は自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き毟る。
「なんだ記憶を消したいのか? それなら貴様の汚名返上より容易いことだぞ?」
「何? それはまことか?」
「まことじゃ。奈々香、ドンブリを持て」
「え? わかった」
奈々香は焼肉丼を完食して空になったドンブリを小吾の指示通りに持つ。
「それを持ってそこに移動しろ」
「えっと、ここ?」
奈々香は小吾の指差す位置に移動する。
「そしてそれを大きく振りかぶってー」
「振りかぶってー」
「やらせねえよっ!?」
小吾の命令に忠実に従い、手にしたドンブリを大きく振りかぶった奈々香。そのちょうど真下にいた大吾は身の危険を察知し、素早くそのドンブリを奪い取る。
「ちっ」
「ちっ、じゃねえよ! 何俺の頭にドンブリでバーンしようとしてんだ!?」
「どうせ中身腐ってるんだから、幼少期と言わず全部の記憶消して、新しい柳川大吾として再スタートしちゃえよ」
「New大吾生誕どころか大吾そのものが終わっちまうわ! ほどほどにせえよマジで!」
「ほどほどか。奈々香、ドンブリを持ってさっきより軽く――」
「従うな耳を貸すなドンブリを振りかぶるな!」
小吾からの指示にまたもや従っている奈々香から二つ目のドンブリを取り上げる大吾。
「お前今のやり取り見てたくせに何疑いもせずに従ってんだよ!?」
「ご、ごめんなさい。ついうっかり」
「僕はがっかり」
「うっかりがっかりで済むレベルじゃねえわ!」
「ていうか小吾も変な命令出さないでよ!」
奈々香は眉を吊り上げて小吾に目を向ける。
「素直に従っといてなんだ」
「もし兄さんが止めてくれなかったら大変なことになるところだったんだから!」
「おおそうだそうだ! 言ってやれ奈々香!」
「具体的にどうなるところだったんだ?」
「せっかく新調したドンブリが割れるところだったじゃない!」
「そうそうその心配する対象が違う!」
合いの手を入れていた大吾は、奈々香の聞き捨てならない言動に急遽ツッコミを入れる。
「兄ちゃんの心配をしろよ兄ちゃんの! 割れるのは兄ちゃんの皮膚から頭蓋骨にかけてよ!?」
「いや、兄さんなら意外と大丈夫かな? って思いまして……」
「何でお前はそう変な方向に俺を信用してんだよ!? お前は俺を何だと思ってるんだ!?」
「兄さんです」
「そういうこと訊いてんじゃねえんだよ!」
「ちなみに僕は貴様を目障りだと思っている」
「お前に至っては訊いてもいねえし、さり気なく俺を襲おうとしてんじゃねえ!」
大吾はこっそりと忍び寄っていた小吾から三つ目のドンブリを強奪した。
「くそお!」
「マジで悔しがんな! ったく、三度目があるだろうと警戒しといて正解だったぜ」
「武器、他に武器はないのか!?」
「探すな探すな! もういいだろ!」
「仕方ない。今日のところはこれで勘弁してやろう」
「よかったやっと終わりか」
「今日のところはこの黒瓶で勘弁してやろう」
「武器妥協の話だったの!?」
小吾の手には鈍く黒光りする焼肉のタレが入った瓶、『漢の極み大蒜』が握られていた。
「いや待て待て待て! 陶磁のドンブリより殺傷能力高えじゃねえか!?」
後退りしながら危険性を訴える大吾。だが小吾は瓶の首を固く握り締めてじりじりと大吾に迫っていく。
大吾の正面には逆さまになった渋いおじさんの絵柄が「臭くてスンマセン」と謝っている。
「安心しろ。せめて苦しむよう連撃で仕留めてやる」
「いっそ清々しい程残虐な撲殺方法だな!?」
「痛いのは最初からだ」
「わかっとるわそんなもん!」
「死装束は既に用意してあるぞ」
「まさかこんなに早く着るタイミングがやってくるとは!?」
「やめて小吾! それだけはダメ!」
奈々香は小吾の暴挙を止めようと後ろから抱き着いた。
「止めてくれるな奈々香! 今日の僕は殺る気満々なんだ!」
「満々にしたらダメなやつだそれ!?」
「ダメよ小吾。もう一度考え直して!」
「奈々香、貴様は怒りを覚えないのか!? 僕らはこいつにニンニクを盛られたんだぞ!?」
「俺が毒盛ったみたいに言うな!」
「確かにそれは許せない」
「構わずガツガツ食ってたのはお前らなのに!?」
「でもだからって、そんなもので兄さんを殴るなんて絶対にダメ!」
「な、奈々香……」
多少納得のいかない部分はあるが、自分を守ろうとしてくれている奈々香の優しさに大吾は心を打たれる。
「何でダメなんだ!?」
「だって瓶が割れたら家中ニンニク臭くなっちゃうじゃない!」
「だから俺の心配をしろよ俺のよぉ!」
兄の身ではなく、家庭内の異臭問題を回避しようとしていた奈々香。大吾の頑丈さはガラス瓶の衝撃すら上回ると疑っていないようだ。
「じゃやめるか」
「いやあっさりやめるんかーい!?」
理由を訊いた小吾は先程までの殺る気を完全に失くしたのか、固く握り締めていた黒瓶をテーブルの上に置き戻した。
「これ以上ニンニク被害を被るのは御免だからな。命拾いしたな?」
「命拾いしたけど何なんこの茶番!? 俺の生死ニンニク臭に左右されまくりなんだけど!?」
「貴様の存在などニンニク以下だからな」
「くそぅニンニクなんて大嫌いだ! 美味いけど大嫌いだ! さっきから余計に臭いがしてるけど大嫌いだ!」
「ずっとドンブリ抱えたままだからだろ?」
「これか!」
奈々香と小吾から取り上げた食後のドンブリ(三枚重ね)は、赤ん坊を抱いているかのように大吾の腕の中で温かく包まれていた。
「まあなんて美味しそうで忌々しい臭いだこと! こんなもの俺がきれいさっぱり洗い流してあげるわ!」
言いながら、大吾はドンブリをキッチンのシンクへと運び込む。
「だーくそ。重ねて持つんじゃなかった」
などど呟きながら、大吾はキッチンペーパーで取り除ける油汚れを拭き取っていく。
「後で臭わないようしっかり洗えよ?」
「わーってるって」
洗剤を泡立てておいたぬるま湯入りの洗い桶にドンブリを漬けながら大吾は言う。
「ほんの僅かでも臭ったら命はないものと思え」
「難易度高過ぎねえそのミッション!? まあやるけどさ!」
などど雑談しながら、大吾は飲み終えて空になったコップをスポンジで手早く磨いていく。臭いが残っているであろう飲み口部はより念入りだ。
「………………」
奈々香は皿洗いをしている大吾の動きを見定めるようにじーっと眺めている。
「何だよ? 何か間違ってたか?」
「いえ、油汚れも先に拭き取ってますし、手際も悪くないです。今のところ特に言うことはありませんね」
「おう割と高評価」
「ではここで手を滑らせてみましょうか?」
「何でだよ!? さっき割るなとか言ってなかったかお前!?」
「それはドンブリの話です。さあどうぞ」
「どうぞじゃねえ! コップの命はどうなってもいいって言うのか!?」
「それはもう古いんで別にいいです」
「お古だからってぞんざいに扱うなよ! もっと物は大切にしなさい!」
「代わりなんていくらでもある百円ショップの物なので構いません。さあどうぞ」
「助けてください! 助けてください!」
百円均一出身コップの意思を代弁するように、大吾は奈々香に全力でコップの助けを乞う。
果たして、コップの運命や如何に。