第十四話 柳川奈々香の学力
「できましたよー」
「おっしゃ飯じゃー!」
テーブルの上には奈々香お手製の味がよく染み込んだ煮物や焼き魚、茹でたアスパラを軽く炒めた豚肉で巻いた豚肉巻きなどの料理が所狭しと並べられ、白米をよそった茶碗を大吾と小吾に渡した奈々香は自分の分を用意してそのまま席に腰を下ろす。
「もう俺腹ペコすぎてお腹と背中がくっつきそうだったぜ」
「おい奈々香、急いで大吾の料理を下げろ。あと少しで幸せな未来が訪れるぞ」
「俺を餓死させようとすんな!」
いつもと変わらない大吾と小吾の取り留めのない話を聞いている奈々香はクスクスと笑っている。
「よっしじゃあ喰うぞお前ら」
「もう食べている。もぐもぐ」
「あ!? 小吾お前フライングしたな!? ちゃんといただきますをしてから食べなさい! 日本人の常識よ!」
大吾が小さな子供へ躾をする親のように言う。しかし小吾はまるで聞こえていない様子で食事を進めていく。もう一度小吾に指摘をしようかと大吾が考えていると、大吾のスマホからピロンッ、という機械音が鳴る。コミュニケーションアプリ『ルウン』からのメッセージが届いたようだ。
「ん? こんな時に誰だべ?」
「あれ? 私もです」
ほぼ同じタイミングで奈々香のスマホにもルウンからのメッセージが届いた。
誰だろう? お互いにそんな思考を伝えるかのように二人は顔を見合わせる。とりあえず内容を確認しようとアプリを開く。
すると、『イタダキマス』というメッセージが小吾から送られてきていた。
人を貪っている生々しいゾンビのスタンプと共に。
「いやあああああっ!?」
「てめぇこれから楽しいお食事始めるタイミングでなんつーもん送ってきやがる!? 俺達の食欲を落とす気か!?」
「というか小吾、これくらい口で言ってよ!」
「クチ、イマ、フサガッテル。ムリ」
「塞がってないよ!?」
「あーもういい喰うぞ! 食欲落ちる前に喰うぞ奈々香!」
「は、はいっ!」
「この世の全ての亡骸に冥福を祈り、いただきます!」
「いただきまーーちょっと!?」
小吾に続き大吾からの不意討ちを受ける奈々香。
二人と違い食事前に不謹慎な攻撃を二度受けたことで食欲が落ちてしまったかと思いきや、奈々香は「もうっ」と不満の声を漏らしたところで普通に食事をし始める。
やはり兄妹である為か、ある程度の耐性は持ち合わせているようだ。
「かー、うめえ! やっぱり奈々香の作る飯は最高だな!」
出汁がよく染み渡る大根を頬張りながら奈々香を褒め称える大吾。
「あはは、ありがとうございます」
「もうあれだな。奈々香の飯さえあれば他は何もいらねえってくらいだぜ!」
「そ、そんなことないですって。褒め過ぎですよ兄さん」
とは言うものの、自分が作った料理を素直に誉めて貰えるのは嬉しいようで、奈々香の頬は赤く染まっている。
「いやいやそんなことねえって。だって一日三食きちんと奈々香飯を食わなきゃ禁断症状が出るレベルなんだぜ?」
「それなんか危ない薬っぽくないですか!?」
「まあ比喩は悪いが要はそれだけ美味だっつう話よ。毎日これを食べられる俺は――すげー幸せ者だな」
「も、もう兄さん……」
まるで女性を口説くような甘い声で奈々香を褒めちぎる大吾。奈々香は褒められ過ぎて恥ずかしくなったのか、大吾から視線を逸らしてもじもじとしている。
カップルがイチャイチャしている時に似た雰囲気が漂う中、それをぶち壊すのを狙ってか、食べていた豚肉巻きを飲み込んだ小吾が口を開く。
「まあ、これからはそうも言ってられないけどな」
「ふえ?」
突然何のことを言われたのか理解できなかった奈々香は間の抜けた表情をしている。
「あー、そうなんだよなー」
大吾には小吾が何の案件について言ったのか理解できたらしい。
「え? 何? 何なんですか? もぐもぐ」
一人理解が追いつかず置いてきぼりにされている奈々香は、煮物を口にしながら二人の顔をキョロキョロと見ている。
「んー……」と、唸りながら考え事をしている大吾。すると、決意を固めたような真面目な顔付きになり、米を半分ほど食べ終えた茶碗の上に箸を置いた。
「奈々香。次の中間テストで赤点一つでも取ったら、しばらく勉強に専念した生活をしてもらう」
「ふぐふぅっ!?」
突然言い放たれた言葉に驚いた奈々香は煮物の椎茸を喉に詰まらせる。素早く緑茶を口に流し込み、無事に窒息を逃れられた奈々香は、反動で「ごほっ! ごほっ!」と咳をしている。
「おい大丈夫か奈々香?」
「はあっ、はあっ、だ、大丈夫ですけど……、な、な、何で今そんな話が出てくるんですかっ!?」
「何でも何も、そりゃあんなお手軽小テストで赤点取って帰ってくるようなら、兄として妥当な考え方だろ?」
「あれこれその話の続きなんですか!?」
「なーに寝ぼけたこと言ってやがる? あれから数十分程度しか経ってねえじゃねえか?」
ここで前回までのあらすじ。
テストで赤点を取ってしまった奈々香を大吾と小吾が二人掛かりで弄り回し、機嫌を損ねた奈々香は部屋に閉じ籠ってしまった。そこで大吾と小吾は奈々香を部屋から引き摺り出そうと様々な作戦を実行に移し、ついに奈々香を部屋から出すことに成功した。
この物語はその後の出来事である。
「何か騙されたような気がします……」
「誰にだよ? まあそれは置いといて、奈々香は去年の成績も大分悪かったし……えーっと小吾、どんくらい悪かったっけか?」
「下下下の下」
「うわぉマジかよ下下下の下!? 最底辺をぶち抜く出来の悪さ!」
「そんな評価ないよね!?」
「少なくとも五教科に関しては似たようなものだろうが」
「………………」
「そこは否定しねえのかよ」
言葉を返せない奈々香に対し呆れた顔をする大吾。
昨年度、つまり中学一年時での奈々香の成績は、主教科と副教科で大幅な落差が見られていた。
副教科に含まれる四科目の内、美術、音楽、保健体育についてはほぼ平均以上の評価を修め、技術・家庭科については、特に家庭科の評価が郡を抜いて高く、一学期から三学期までの評価は全て『五』を修めていた。
対して、高校受験にも必須となる主教科の成績は。
「けどまさかこのご時世で殆ど『一』とはなあ……」
「いつの間に私の通信簿持ち出したんですか!?」
大吾から中学一年時の悪評が載る通信簿を取り上げる奈々香。
奈々香の通う公立中学校は他生徒の成績を考慮に入れないよくある絶対評価。小吾と違い、奈々香の授業態度は決して素行の悪いものではない。
にも関わらず、主教科に分類される五科目の評価欄には申し訳程度に『二』の評価が数カ所あるだけで、残りは全て最低評価の『一』が付けられている。
それほどまでに奈々香の学力は低いのだ。
余談ではあるが、一番苦手な英語に関しては、全て『一』という学校の歴史に名を刻むワースト記録を残していた。
「全く、こんな最底辺知能指数でよく僕の姉が勤まるものだな」
「つ、勤まるも何も、私がお姉ちゃんってことは変わらない事実な訳だし……」
「何だ? この件に関してまだ僕に反論する余裕があるのか? 言っておくが、僕はまだまだ貴様に言いたいことが山ほどあるんだがな?」
「お、お説教はもう勘弁してくだしゃいお願いしましゅ!」
小吾の鋭い眼光に恐れをなした奈々香はその場で土下座し、焦りで一部噛みながらも必死で許しを請う。
「お前、奈々香にどんな説教したんだよ?」
「気になるか? なんなら貴様相手に再現してやってもいいが?」
「ほほう妹からの説教か。そいつは魅力的だな」
「何そそられてるんですか!?」
「ダメだこいつに説教は意味を成さない」
「てかそもそもの話、何で小吾が説教してたんだよ? こういう場合電話でもいいから親父かお袋にしてもらうべきじゃねえの?」
「あの二人はダメだ。奈々香には激甘だからな」
「あーそっか」
現在父方の故郷で祖父母と共に農業を営んでいる三兄妹の両親。基本的には大吾と小吾、それぞれ親としてごく自然な愛情を注いでいるのだが、何故か奈々香に対してはその愛情が過剰過ぎる傾向がある。
それこそあれが欲しい、これが食べたいと本人が言わなくても、そういった雰囲気を醸し出した時点で父も母も迷わず行動に移るのだ。
最も、奈々香本人は愛されること事態に抵抗はないが、過度に甘やかされるのには些か心苦しいものがあるらしい。
「しかしだとしてもだ。それなら優先順位的に社会人であり、保護者代行であるこの兄がすべきことだろ」
「貴様にできるのか?」
「おいおい見くびるなよ小吾? 俺だってやろうと思えば心をオーガにして説教するぜ?」
「兄さん、オーガって何ですか?」
「あー悪い、奈々香にはピンとこないか。つまりは鬼よ。心を鬼にして怒っちゃうぞってことよ」
「兄さんが鬼ですか……。怒られるのは嫌ですけど、小吾よりは恐くなさそうですね」
「何でだよ」
「だって兄さんはあんまり鬼ってイメージに合わないですし」
「そう? まあ恐くねえんなら鬼じゃダメだな。心を違うもんにしねえと」
「じゃあオーガから一文字変えてオークにしてみたらどうだ?」
「それはやだよ!」
小吾からの提案を即座に否定する大吾。
「オークなんざ俺の紳士的イメージとかけ離れ過ぎてるじゃねえか!」
「どこがだ。むしろ貴様にはピッタリじゃないか」
「小吾、オークって何?」
「諸説あるが、一番わかりやすく言えば二足歩行する豚の化け物だ」
「また豚!?」
「最近の異世界ファンタジーだと醜悪で性的欲求が強い印象が主だな」
「それのどこが俺だ! そうだろ奈々香!?」
「え? あっ!? うーんと、そう、ですね?」
「奈々香ちゃんお前もか!?」
大吾と全く視線を合わせようとしない奈々香。その仕草はまさにオークは大吾にぴったりの怪物だと証明しているも同様であった。
「あーそうかそうですかい! もういいわかった! 兄ちゃん怒っちゃったからな! 奈々香、次赤点取ったらしばらくと言わず進級するまで勉強漬けにしてやるからな!」
「うえええええっ!?」
「漬けに漬け込んでシュールストレミングにしてやらあ!」
「おぅえええええっ!?」
「……伝わったのか。シュールストレミング」
怒りに任せて更に理不尽な条件に変更する大吾に奈々香は嘔吐染みた声を上げた。
ちなみにシュールストレミングとは、塩漬けにされたニシンの缶詰であり、『世界一臭い食品』と言われている。
「ちょっ、兄さんそれはあんまりです! そんなことしたら私死んじゃいますよ!」
「自分の臭いでか?」
「まるでカメムシのようだな」
「ふざけ話はどうでもいいんですよ! 私が言ってるのは勉強漬け! みっちり勉強漬けになんかされたら死ぬって言ってるんですよ!」
「たわけぃ! そんなんで死ぬほど人間は脆くねえんだよ! ちゃんと飯食って寝て性欲を満たしてりゃあ人は生きていけるわ!」
「そこに性欲はいるのか?」
「とにかくこれは決定事項だ。何だかんだお前の為でもあるんだし、勉強漬けになりたくなけりゃ死ぬ気でテストを乗り越えやがれ!」
「そ、そんなぁ……」
一個人にとってほぼ達成が不可能に近いミッションを言い渡され、今にも泣きだしそうな表情を大吾に向ける奈々香。
(やばい。可愛い)と内心ほくそ笑んでいる大吾。
そこですっと、小吾の片手が上がる。
「決定したのはいいが、一つ確認させてくれ」
「何だよ?」
「仮に奈々香が勉強漬けになったら、誰が家の家事をやるんだ?」