姉の婚約者が好きだった
「ねえ、イザベラ。そのドレス、先月の夜会で私が着たものよね? 古くて少し汚れているけれど、あなたにはぴったりだわ」
社交界の花形として「聖女」とあがめられる姉・ヴィクトリアは、鏡の前で微笑んだ。
その隣で、婚約者の公爵令息アレクセイが、私の様子を見て鼻で笑う。
「ヴィクトリア、君は本当に優しいな。こんな分不相応な娘にまで、自分の服を譲るなんて」
「いいえ、アレクセイ。妹がかわいそうなのよ。自分でドレスも買えないなんて、見ていて心苦しいわ」
姉は溜息をつき、わざとらしくハンカチで目元を拭う。人前では妹思いの聖女。
けれど、二人きりになると彼女の瞳から慈愛は消え、冷酷な本性が顔を出す。
「……お姉様。ありがとうございます」
「どういたしまして。あ、そうそうイザベラ。今日はアレクセイ様との婚約記念日なの。私たちの愛がどれだけ深いか、近くで見て学びなさいな。あなたのようなどぶねずみには、一生理解できないでしょうけれど」
姉は私の返事も待たず、アレクセイの腕に寄り添った。彼もまた、私を「汚物」でも見るような目で一瞥し、姉の肩を抱き寄せる。
「君の妹は、視界に入るだけで気分が悪くなるな。ヴィクトリア、早く行こう」
彼らはわざとらしく私の前で顔を寄せ合い、親密さを誇示してみせる。
姉は私の方をちらりと見て、勝ち誇ったような笑みを唇の端に浮かべた。自分たちがどれほど幸福で、私がどれほど惨めかを見せつけるのが、姉の趣味なのだ。
「あなたが惨めなのは、自分の身の程を知らないからよ。一生、私の影で泥をすすって生きるのがお似合いだわ」
ヴィクトリアは、夜会の華やかな光の中で氷のように冷たく微笑んだ。
その隣で、アレクセイがヴィクトリアの腰に手を回し、私を蔑んだ目で見下ろしている。
彼はこの王都で誰もが羨む、完璧な「姉の所有物」だった。
「……お姉様。私はただ、彼の隣にいる貴方が、羨ましかっただけですわ」
私は震える声でそう言い、アレクセイを上目遣いに見た。彼は私を値踏みするように見つめ、鼻で笑う。
その蔑みさえも、私にとっては「姉の婚約者」という聖域の一部に思えた。
私は彼を愛していた。狂おしいほどに。
でも、その愛の本当の理由を、まだ誰も知らない。
結婚式を目前に控えたある夜。
私はわざとアレクセイを庭に誘い出した。
彼は私の背後に回り、首筋に手をかけた。執着が混じった手つきで、彼は私の首をぎゅっと絞め上げる。
「見つけたよ、イザベラ。……正直、ヴィクトリアには辟易していたんだ」
彼の冷めた声が耳元で響く。
「完璧で、慈悲深くて、まるで造花のような彼女に。……彼女との婚約はただの家同士の契約だ。僕は、君のような『姉を憎む歪んだ瞳』を持つ女性の方が、ずっと人間らしくて好きだよ」
彼の荒い息が耳元にかかる。
「ヴィクトリアの地位を奪い、家を壊す。その過程で君を僕の妻にする。君が姉を奈落へ突き落とす瞬間……その歪んだ喜びを、隣で見ていたいんだ」
私は身じろぎもせず、彼の手に自分の手を重ねた。指先は冷え切っている。
彼が私の頬を引き寄せ、唇を押し当ててくる。
私はそれを、毒を飲むような気持ちで受け入れた。
「本当? 私を選んでくれるの?」
「ヴィクトリアの地位を奪い、家を壊す。その過程で君を僕の妻にする。最高だろう?」
彼は私の肩に顔を埋め、独占欲を見せる。
私はその背中で密かに笑った。彼が姉の誇りを壊す姿を想像する。
彼が「姉の婚約者」という冠を被っている限り、彼は私にとって唯一無二の偶像だったから。
――その時、茂みの奥で息を呑む音がした。
振り返ると、そこには顔を真っ青にしたヴィクトリアが立ち尽くしていた。彼女は私たちの密会を、最初から最後まで見ていたのだ。
ヴィクトリアは震える手で私を指さし、完璧な「聖女」の仮面が、怒りでぐしゃぐしゃに歪んでいく。
「あんたたち……何を……してるの……」
アレクセイは驚くどころか、冷ややかにヴィクトリアを見つめ返した。
「ヴィクトリア、ちょうどいい。君に隠すつもりもなかったんだ」
姉はヒステリックな悲鳴を上げ、私を叩こうと手を振り上げた。私はその手を空中でガシッと掴み、耳元で囁く。
「姉さん、落ち着いて。私を叩けば、あなたが隠している『お父様の宝石を売ったこと』、みんなにバラすわよ」
姉の手が止まる。彼女の瞳に、怒りよりも深い恐怖が宿った。
「……卑怯な!」
「お姉様、忘れたの? 昔、お父様が大切にしていたサファイアのブローチ。……あれを貴方がこっそり持ち出して、質に入れた時のことを」
私は姉の耳元で、冷ややかに囁く。
姉が凍りつく。私は懐から、あの『証拠の質札』をちらりと見せつけた。
「あるわよ、姉さん」
私は懐から、あの『質札』を取り出した。
姉が執拗に着飾る高価なドレス。その裏地の隠しポケットに縫い込まれていたそれを、私は数日前に見つけ出していたのだ。姉が最も自信を持って纏うそのドレスの裏に、彼女が持ち出した家宝の罪が隠されているという皮肉。
私がそれを高く掲げると、姉の瞳に絶望が宿った。
そこには、家宝のブローチを質に入れた証拠である
『質札』が、姉自身の署名入りで記されている。
「これを見ても、まだ『妹の捏造だ』と言うのかしら? ……お父様は、きっと泣いているわね。……さあ、姉さん。このまま大人しくして、私にひれ伏すの? それとも……皆に全部話して、一緒に地獄へ落ちる?」」
姉が震えながら私を睨みつける。その目は、恐怖に支配されながらも、プライドという名の呪縛に駆り立てられていた。
彼女は私を突き放すと、逃げるように会場へと戻っていく。
(……ええ、それでいいわ。その高慢さが、あなたを破滅へ導くのだから)
私はゆっくりと、姉の後を追った。
ーーー◇◇◇ーーー
会場の扉を開けると、先ほど庭で愛を誓い合ったアレクセイが、私の隣で堂々と歩を進めていた。
会場には、姉を囲む貴族たちの輪ができている。姉は相変わらず「聖女」の微笑みを浮かべ、皆を骨抜きにしていた。
私とアレクセイの姿を認めると、姉は一瞬だけ表情を凍らせたが、すぐに大げさな悲劇のヒロインの仮面を被り直した。
「皆様、聞いてください!」
姉の声が会場に響く。
「妹が……あろうことか、私の婚約者を誘惑したのです!」
周囲から、私に向けられる軽蔑の視線。
だが、私は笑みを浮かべたまま歩み寄る。
隣のアレクセイが、私の手を取り、皆に見せつけるように握りしめた。
「誘惑などではない。……僕は、イザベラを愛している」
会場が静まり返る。姉の顔から色が消えた。
「アレクセイ様、何を……? あんな妹の言葉を信じるなんて!」
「信じているのは、君の言葉じゃない」
アレクセイは冷徹に言い放った。
「庭でイザベラから聞いたよ。君が父上の家宝を売り払い、その罪を妹になすりつけようとしたこと。全てね」
「……っ、そんなの嘘よ! 証拠なんてあるはずがない!」
姉の絶叫に、私は懐から一枚の紙を取り出した。
「あるわよ、姉さん」
私がそれを高く掲げると、姉の瞳に絶望が宿った。
そこには、家宝のブローチを質に入れた証拠である『質札』が、姉自身の署名入りで記されていた。
「これを見ても、まだ『妹の捏造だ』と言うのかしら? ……お父様は、きっと泣いているわね」
どよめきが広がる。
貴族たちは姉から一斉に距離を取り、冷ややかな視線を浴びせた。
アレクセイは姉の肩に置かれた自分の手を、まるで汚物に触れたかのように振り払う。
「君のような卑劣な女には、もう一秒だって付き合っていられない。婚約は破棄だ」
姉は床にへたり込み、助けを求めるように周囲を見回すが、誰一人として彼女に近づく者はいない。
私はゆっくりと姉を見下ろし、冷ややかに微笑んだ。
「さあ、姉さん。最高の舞台はどうだったかしら?」
「ヴィクトリア、君の『聖女』の仮面に飽きたんだ。私が選ぶのはイザベラだ」
「な……何を……!?」
アレクセイは私の手を取り、跪いてその甲にキスをした。
姉は言葉を失い、顔が真っ白になる。
完璧だった彼女の表情は崩れ、今にも泣き出しそうな、無様に歪んだ顔に変わった。
姉の絶望を背に、アレクセイは私の前に片膝をついた。周囲の貴族たちが息を呑み、固唾を飲んでその光景を見守っている。
彼はまるで聖なるものに触れるかのように、私の手を取り、丁寧に、しかし熱を込めて己の額を押し当てた。
「イザベラ。僕の未来も、僕の血統も、その全てを君に捧げる」
顔を上げた彼の瞳には、もう過去の迷いは一切なかった。そこにあるのは、私という存在だけを熱っぽく焼き付ける、純粋すぎる渇望だけだ。
「君という真実を知り、僕は初めて心から安らげたんだ。……僕の隣に、いてくれるか?」
彼は微笑む。その笑みは、自分がこれから手にする未来が幸福で満たされていると微塵も疑わない、あまりに無防備で幸せそうな色をしていた。
私はその顎を、かつて彼が私にしたように優しく撫で上げた。
そして、次の瞬間――。
私は彼の手を、汚いものを見るような目で払いのけた。
「去る? 誰が貴方なんかと?」
会場が静まり返る。私は懐から、彼の横領の証拠と、姉の汚い秘密を書き記した紙を投げ捨てた。
「イザベラ……? どういうことだ?」
「勘違いしないで。貴方は姉さんを不幸にするための、最高の駒だっただけよ」
私は膝をつく彼の頭を、足先でゆっくり踏みつけた。彼の顔が地面の泥と屈辱で汚れる。
「私が愛していたのは、『姉の婚約者』という肩書きだけ。姉さんの所有物だから、奪う価値があったのよ」
姉は床に崩れ落ち、ヒステリックに泣き叫んでいる。あんなに完璧だった姉が、今はただの、すべてを失った敗北者だ。
私はその光景を、ワインを楽しむような余裕で見下ろした。
「肩書きを失った貴方は、ただの無能な男ね。……正直に言っていい? 今の貴方の顔を見ていたら、吐き気がするわ」
私はドレスの裾を翻し、悲鳴が響くホールを後にした。
背後から姉が名前を叫んで泣き喚く声が聞こえるけれど、振り返る必要なんてない。
「ああ、なんて馬鹿な人たち」
冠を失った彼らは、もはや私にとって無価値だ。
「好きだったわ。……ええ、そうよ。彼が『姉のもの』だった間だけはね」
そして私は会場をあとにした。
夜風が心地いい。
私の恋は、彼が誰のものかではなくなった瞬間に、死んだ。
そして私は、ようやく自分の人生を自分の手に取り戻したのだ。
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