第三章 災いの元凶②
人間界は日差しが眩しい午前十時。
この大都会から少し離れたところに深緑溢れる小さな山がある。
すぐそばには大きな霊園があるために、厳密に言えば山というより丘に近い。
普段から主にタヌキやイタチなどの害獣の侵入を防ぐために草花の手入れは勿論、毎日のように管理を徹底していることから風通りもよく、小鳥のさえずりも澄んで盛んに聞こえる。
そんな隅々まで人の手の行き届いた丘の小さな死角で、フレイは一人何かに怯えるように葛藤していた。
心地良い木漏れ日に隠れて人工の楽園の中に縮こまり、ただ心臓を強く掴んで、何かしらの苦しみに耐えかねたフレイは、自ら暗闇を創り出すと全身を覆うだけでなく周囲の植物まで巻き込んで、フレイの姿が目視で判断出来ない闇を創り出した頃、けたたましい不穏な音を鳴らす過程によって、醜悪に変わったフレイの姿は容易に想像出来る現象。
それは紅塗りとは別物の恐ろしさで、心乱す不穏と不気味さを伝えるには十分なもの。
「こんな所にいたのね、フレイ。もう何も怖く無いわ、本当に大丈夫、大丈夫なのよ」
さらりと下に流れる黒髪を耳に掛けながら、少し息を乱したジュノがフレイを見つけると、毅然とした態度はそのままに、少し悩みながらもフレイに安全を知らせる言葉をかける。
現在、フレイには言葉を発することができず、ジュノの認識すらままならず、溢れんばかりの敵意を向けたままだ。
ジェームスを介して自らフレイを捜したジュノだが、すでに手遅れと言わんばかりのこの状況。
フレイが生み出した闇は、悪意のないジュノさえ呑み込む威力まで見せる。
フレイに関する事の発端は、監視とジェームスの詳細な報告で正確に確認済みだ。
ジュノという普段から絶大な信頼を置いている存在を前にしても、フレイの警戒は収まるどころか収拾もつかず、解決の糸口が見当たらないほど深刻な状態に陥っている。
初動があまりに遅すぎたのだ。
なにより追い打ちをかけるのは、ジュノのフレイに対する態度だろう。
ある程度の覚悟したものの、フレイの何かに怯えるジュノの心は早々に見透かされ、より一層敵意をむき出しに、獰猛な野生の猛獣のような見境のない表情を見るに、自身の不甲斐なさを心底悔やんだ。
「……私は味方よ。それだけは、本当なのよ」
腫れ物に触れるような震えた声で呼びかけること自体良くないと理解しながら、ジュノの心と身体は極限の緊張と恐怖が襲い掛かることで、平常心を保つための努力が逆にフレイの本能を刺激して、ただただ反感を買うだけのこの悪循環。
「フ――……、フ――……」
この過程からジュノを敵として認知したのか、興奮する動物の荒い息遣いで一度閉じたフレイの瞳が再び開く時、それは起こる。
碧眼の綺麗な眼は燃えるような警告的な紅に変化を見せて、木々や草花で覆われたこの小さな空間から始まり、フレイの身体が闇に溶け込む合図は大空間に及ぶ侵食を開始した。
これは世界の、全空間の崩壊を予告する壮大なもの。
おぞましい闇が広がりを見せて、ジュノすら呑み込み、双眸が均整を失くすことでフレイが今、どれほど恐ろしい姿形か、深く考え込まなくともジュノの瞳に大量の情報が入り込む。
現段階、フレイの眼は延々と燃え尽くす炎も同然で、心からの悲しみと絶望の具現化まで開始させて、小手始めにこの霊園から地獄へ落とす第一難関をいとも容易く突破させた。
〈ゴキィ……、ゴキィ……〉
この丘全体が異空間に包まれて何も見えない暗黒の中で、豪快に骨と骨を擦り合わせたような残酷な音が鳴り響き、今現在、フレイがどう豹変したかなど想像に難しくない。
ジュノの脳裏に蘇る、いつかの恐怖。
未だ遠い記憶の片隅に残る、忘れることなど不可能な戦慄と地獄。今のジュノが何を言おうとフレイには届かず、寧ろそれは逆効果。
自身の至らなさを改めて感じ取るが、後悔してもすでに手遅れ。
満足に息もできない時間は酷く鈍感で、死への導きはまるで一生の出来事のように恐怖の感情は孤立する。
全てを受け入れる覚悟でジュノはゆっくりと瞳を閉じようとしたその時、救世主が現れる。
ジュノの左眼の奥から強い力で信号を出して、瞳から出ることを要求してくるのだ。
「フレイッ! 大丈夫、大丈夫だよッ!」
僅かに金を含む煙が素早く集約されると、暗闇の中でフレイと思わしき巨大な存在にステラが巻き付いた。小さな身体でフレイの苦しみと悲しみを、その大きな心で抱いたのだ。
抱き寄せられないほど巨大化するフレイに対して、懸命に引っ付き、笑顔咲くまま離れようとしない。
恐らくフレイの全貌が見えているだろうステラは、桁違いのサイズにも物怖じしない、ただフレイが大好きなだけの素直なステラ。
そんなステラに抱き寄せられて、フレイを取り巻くおぞましい音と影、そして闇を体内に吸い込み、格段に縮小させて最後には消える。
周囲を柔く照らす空間も正常を取り戻して、遂に普段のフレイの姿を徐々に浮かばせた。
ジュノは息を飲む事も忘れて、金縛りにあったかのように始終その光景を眺めている。
「ねぇ、どうしたの、フレイ? なにか……、なにか辛いこと、あったんでしょ?」
何が原因か詳しいことは判らなくとも、未だ怯えるフレイを目に映す度に不安が募るステラ。
「なんでもないよ。心配掛けたね、ありがとう。……ジュノもごめん」
今のフレイにできる、精一杯の言葉だ。
これ以上ステラに、ジュノにも心配を掛けたくなかったのだろう。
あの凄惨な状態から間が経たぬ中でも、笑顔を絶やさず二人を見る。
「いいえ、十分意味のある解放だったわ。私からもステラにお礼を言うべきね、ありがとう」
「え、えへへぇ……」
嬉し恥ずかし照れるステラを見て、フレイの深刻な情緒不安定の一部始終を見たジュノは再確信する。
純粋無垢なステラの存在は、フレイにとってかけがえのない宝そのものであると。
普段のフレイの実力の頼もしさ、それ故に群を抜く恐ろしさ、そして誰よりも優しい心に隠された危うさ。
有り余るほどの破壊力に次いで、尋常じゃない自然治癒力のスピード。
本来の目的実行には適任だろうが、優しすぎる性格が仇となり、大きく裏目に出た今回の出来事。
【仏の顔も三度】とはよく言うが、長年、フレイに対する人として生きる以前の杜撰な扱いに、怒りと恐怖の蓄積を経て爆発させた結果が、この歪な精神を持つフレイを生み出した。
【祝福】より、より未知数で恐ろしいのが【解放】。
解放とは能力の制限を超えることの総称だ。祝福のように能力の調整も操作も不可能なもので、脳が持つ限界まで力を発揮できる利点を持ってるが、そう容易く扱える代物ではない。
特にフレイが解放を発動させる時、それは動物は勿論、魚や植物さえも味わう恐怖。
これは敵味方一切関係なく、再び魂が転生するその時まで、フレイという存在によって莫大な魂が地獄と言う名の亜空間へ引きずり込まれ、骨の髄まで恐怖を植え付けられる。
この規格外の爆弾、解放の誕生によって起こる問題は山積みだ。
全生体に戦慄の記憶が共有された事で敵は勿論、味方さえ撹乱させる現実は想像に難しくない。
記憶の共有化は誰もが不幸の主人公に、誰もが片翼の天使にだってなれるのだから。
人間が持つ捩じれた羨望は、幸も不幸も巻き込んで、膨らむストレス発散の狡猾な遣り口は息を吸うように行われた巧妙な印象操作であり、他人を悪に仕立て、自身の人物像を内外で特別良く見せる快楽は何物にも代えがたいもの。
しかし腹黒い思考を奥底に沈め続ける事もできない陳腐な者たちが、嫉妬や憎悪で溺れる感情を悔い改める事などできるわけがない。
なによりも傍若無人に振る舞う多くが連鎖した結果、本来ジュノたちに向かったはずの嫉妬をより身近で、同族同士で広く分散させた結果、大惨事を招いたのが最大の要因なのだ。
この圧倒的不利であまりに理不尽な条件下、泥水を吸いながらジュノたちが如何にして生類の頂点へ君臨出来たかなど、ただの愚問でしかない。




