第二章 流転を泳ぐ夜①
「ねえ、そんなにジュノがいいの?」
無駄のないジュノの美しい所作を見つめるフレイへの、ヤキモチを焼くステラの確認に内心とても驚く。
ステラにとってジュノに関する問題に悩むフレイの表情ほど、分かりやすいものはない。
特にこういう時のステラの勘は特別冴えるだけにフレイも思わず焦り慌てる。
「そんなことないよ。ステラも特別で大事な存在だよ、とってもね」
「だってぇフレイ、ジュノばっかり見てるもん。大体あんな風に怒られてもまだジュノが良いって言うの? だったら、だったら私なんて、私の存在なんてどうだって良いっていうの?」
「ぜ、全部見聞きしていたんだね……」
どうやらステラの猛抗議を受けたのか、ジュノの説教が中途半端に頓挫した原因はこのためと納得できた。
常に塩対応で隙のないジュノとは異なり、ド直球でド純粋で、素直な気持ちの表れに戸惑うフレイの反応を見れば見るほど、ステラの独占力は煽られる。
あからさまな好意を冷静に対処されては、ステラの情緒不安定さを顕著に引き出させるのだから。
「フレイ、私、外に出たい。外の空気ぐらい自由に吸いたいよ」
今にも泣き出しそうなステラを見て、感情の天秤が圧倒的尺度でどちらに傾いたかなど、想像しなくとも答えは一つ。
ステラの不遇さも相俟って、フレイに迷いはなかった。
「大丈夫だよ。外に行こうよ、だからそんなに悲しまないで。さあ、早く行こう」
二つ返事で了承してすぐに行動に移す中、普段この二人から背を向けて一人集中するジュノを掻い潜ることは驚くほど容易で、何の問題もなくこの場から抜け出すことに成功する。
***
幻想的なシャボン玉を作るように細胞を分散の後、吸着・結合を二回ほど繰り返すと、改めて地に足を着けた場所は閑静な住宅街。
深夜ということもあり、人通りの心配は少ない。
「わあッ! 風が吹いている!」
久しぶりの外の空気に興奮冷めやらぬステラは、些細なことでも大きな喜びで全身が震えている。まさに世間を知らない無垢な少女そのもので、好奇心と無邪気さでより際立つ。
「ステラ、少し静かに。もっと明るくて賑やかな場所へ移動しようか」
「……、うん!」
子供の姿のフレイから思わぬ忠告を受けて、面白いほど表情豊かに感情を展開させるステラ。
しかし膨れっ面もほんの一瞬。
フレイが背中を差し出す行為で機嫌は極端に良くなる。
仲良く身体を寄せて、次第に高くなる屋根を足音残さず超えて行けば、眩いばかりの造形美が二人を快く招待した。
輝くネオン街は一望すると宝石のように煌びやかにも見えるが、細部を見ればその場しのぎの粗末な出来に感動は削がれる。
ただ金と嘘が充満する世としては、底なしの欲と不安定な心情が染み込んだ、荒んだ心を表すバロメーターのようにも見える。
「ねぇフレイ! キラキラしててすごくきれいだね!」
「そうか、それは良かったよ」
深い事情を正確に読み取れない無垢なステラは、姿を悟られないほどの高さのビルの屋上でこの世界の綺麗な部分だけを切り取って、人間の往来を目で追うのが唯一の楽しみなのだ。
結果的に面倒な事、難しい事を抜きに単純に楽しむステラが居るのだから、むやみに否定したところでお互い気分を害するだけと感情が行き着く。
なによりステラの一番星のように輝かせる艶やかな瞳と、邪を感じさせない純粋な心こそ今一番大事にすべき宝石と教えてくれる。
「私、下に降りたい! ……ダメ?」
「そうだね、それは君がもう少し成長したら考えてもいいかな?」
ある程度返答を予測しての発言からか、流石のステラもこれ以上駄々をこねない。
ただフレイが与えてくれた未来に想像を掻き立てて、幸せにあふれて高鳴る鼓動が人間界への探求心とよく似ていて、より下界に釘付けになる。
現在ステラは安全柵のフェンスを越えていて、ビルの絶壁から顔半分、目だけを忙しなく動かしてこの観察を存分に楽しんでいる。
小動物を愛でるような優しい笑顔を注ぎつつ、フレイはステラと同じくフェンスを越えた金網に身体を預けて、すぐ傍で逐一ステラの安全に気を配ってはいるが、優しさに包まれた時間は思わぬ乱入者により不穏な空気を一気に押し上げて、一瞬で奪い取るものなのだろう。
「わあ、すごい風だぁ!」
「……す、ステラッ! ダメだッ、そこにいちゃ……ッ!」
下界から生暖かい不自然な強風がステラの柔らかな髪を一気に空に吹き上げる合図で、案じていた不安が現実になる瞬間をフレイは遅れて感じ取る。
無我夢中で地面にへばりついているステラを掬い上げると、フェンスに優しく押し付けながら、ステラを覆い隠すように自らの背中で壁を作ったと同時に、あのフレイを欺いた謎の不穏がその正体を現した。
「くッ……く、がッ、がァ……ッ!」
ステラの心だけ置き去りのまま、フレイの背中に三本、背骨の骨まで抉り取られるほどの威力で致命傷を負う。
ステラになるべく心配を掛けないよう、声を殺すフレイは早急な回復を強いられるが、なぜか肝心の自然治癒能力は一向に発揮する気配を見せない。
おかしなことはこれだけではない。
これ程の大怪我でありながら血飛沫どころか出血すら見受けられず、常に背中が抉れた凄惨な断面を見せたまま、波のように引いてはまた襲いかかる痛みに極力我慢することを強いられている。
フレイの身に起きた唐突な異変、この答えにある程度の推測は出来ても、今のフレイに解決に至るための時間が一切残されていない。
そんな危機とは対照的に、敵は今まさにフェンス越しにその全容を明らかにしてるのだから。
「ガガガッ、ガッ、ぐぎゃぁぁああぁあぁああぁぁあ!」
アイリーンと同色の体液を身体中に纏うが、物体が溶け出す酸の要素はないものの、両手の爪を異常に伸ばした中腰の興奮状態で、息を荒ぶるものを見たステラの脳は警鐘を鳴らす。
無傷のステラを優れた嗅覚で嗅ぎ分けて、状況を瞬時に察知すると毒々しい奇声を上げた謎の生命体。
これは人間として生を受けながら人間の輪に溶け込むことを自ら捨てた、グロテスクな異端児。
発端なるアイリーンに唆されて、脳と心の調和を失くし、自我を蝕んだこの原始的な生物は、〈樹液から生まれた人間の総称、神の子〉の直系であり、人として生きる生命線を悪なる人格が、卑劣な乗っ取りで心身を呑み込む事に成功した者の成れの果てだ。
特に主人格を操ることに秀でた男の汚染者を総じて、完全体とフレイたちは名称している。
そしてこの者は自我を芽吹いた本能による乗っ取りを完璧に成熟させており、典型的な完全体と思っていい。
そんな状況の中、損傷激しいフレイの現状を見て、完全体の臨戦態勢を前にして、困惑する頭を丁寧に現実へ戻しながらフレイが想像するより冷静な判断で行動を巡らすステラがいるのは、きっとフレイが身体を張って守ってくれたからなのだろう。
「ス……テラ、逃げ、る……ッ、んだッ!」
逃げ道はない。
それを知るはずのフレイが、自身を置いて身を隠す判断を必死に訴えかける。
事実フレイに回復の兆しは見受けられず、変わらず生々しい見た目そのままに、意識が飛ぶ瞬間を幾度も繰り返されることで、体力だけは根こそぎ奪われている今の現状。
「大丈夫だよ、フレイ! 少し待ってて、すぐ終わるからッ!」
フレイの実に危うい惨状を見て、敵への恐怖よりも怒りが込み上がったステラは、無謀にも打倒完全体を掲げて敵対する選択を決める。
どうやら勝算はあるようだ。
完全体が奇声を出して走り出す合図でフェンスを軽やかに駆け上り、空高く飛び上がる頃、敵の背中を取った瞬間、風が軽やかなステラの髪を巻き上げて、うなじに赤く刻印された〈03〉の数字が浮き出る。
同時にステラの虹彩も赤く染めた刹那、金色に光る両手で余るほどの何かを掴む。
滅多に見せないであろう独自の妖艶さも醸し出して、煌めく長い指によって柔く粘着質な液体が指に絡んで滴り落ちるものの正体は、今にも落としそうな量の脳と心臓。
どうやら金色に輝く異様に長い指と誤認させたものは、鋭さと細やかさを兼ね備えた爪のようだ。
指と錯覚させたのは、爪をさほど伸ばしていないことによる。
医療用のメスも比にならない重厚さと精巧さを誇り、月夜に勝る金色の光は緑の体液で汚れることも厭わず神々しい輝きそのままに、カーテンを開くように実に美しい所作で両手を広げると、絡み付く脳と心臓を無造作に地面へ落とす。
飛び散る緑が無垢なピンクを汚すが、感情豊かなステラもこの時ばかりは無表情で、冷酷な眼差しをこれ見よがしに披露する。
ステラはフレイたちとは能力の特性も過程すらも大いに異なる。
皮膚や肉を切開することなく金色の爪で脳や臓器を綺麗に抜き取ることも、繋げることも容易に行えることから汎用性に富んだ能力の持ち主で、臓器移植を最も得意とする、言わば手術の申し子。
その上ステラは細胞の隙間が見える眼球を所有しており、今回、完全体の細胞の隙間を縫って、臓器の細胞を丁寧に、肉眼では判別できないほど先端が少々曲線の爪で削ぎ出しては繋げているのだ。
「終った、……の?」
勝利の手ごたえよりも不穏を重ねた疑問符が口から洩れ出るのは、致命的な臓器を抜き取られたはずの敵が無害のまま仁王立ちの上、ステラの攻撃をあざ笑うように軽く首を傾けたからだ。
腹が立つほど余裕綽々な態度をひけらかすと、困惑したままのステラに反撃を始める。
「こぉ、の……ッ!」
リーチに長けた爪で難なくステラに襲い掛かるも、同様にステラの爪によって月に向かって弾け飛ぶ。
ただ長いだけの爪では指との接着面積が足りないために重心が定まらず、少しの衝撃と反動で大きく翻弄される。
爪の特性を知り尽くしたステラだからこその戦い方とも言える。
しかしこれは単に防御の基礎を披露しただけに過ぎない。
今のステラに出来ることは、時間稼ぎを行うこと。
元々ステラは戦闘向きの体質でもなければ、勝つための術と経験も足りていない。それを悟られないよう防御に徹するには限りがあるのだ。
しかし重要な臓器丸ごと失くしたとは思えない怒涛の攻撃を繰り出す完全体は、既にステラの特異性と弱点に至るまで、完璧に熟知したあとと考えてまず間違いないだろう。
酷く喉を震わせて、余裕をかました叫び声が何よりの証拠。
詰め寄る完全体に押されるだけのステラ。
両者の爪が衝突することで、過度な力比べを強要される現状から抜け出せず、小刻みに揺れる音と手先に響く振動は、完全体をより有意義にさせる。持続力がものを言う持久戦では明らかにステラが劣勢だ。
「このッ! ど、どうして立ち上がれるの?」
重要な臓器を失くした状態で、何の影響もないまま俊敏を保てるこの不自然さ。
そんな疑問と困惑で積もる心の靄を消すため、ステラは敵の本当の弱点を見据えることだけに焦点を移す。
空の肉体には多少自虐的であっても知性が見受けられる、そんな不可解さに着目したのだ。
敵の攻撃を回避しながら、ステラはこの不可解さを明らかにするための行動を起こす。
細腕で渾身の力を発揮させて、完全体の爪を空へ弾くと、姿勢を低く、小柄な身体で敵の股の間を掻い潜り、すり抜けるほんのわずかな時間、腹部に探りを入れたのだ。
真下から見る事で、腸や脂肪で隠されていた小さい不思議な塊を発見する。
その塊を取り除いた瞬間、完全体の動きは突然停止した。
そんな停止した敵を背にして、ステラが抜き出した奇妙なものは、片手で掴めるほどの粘着く緑の体液を纏い、ゆっくり呼吸する不思議な生命体。
想像の斜め下を行く、弱々しくこじんまりとした生き物に戸惑い気味のステラ。
ただ脈打つ鼓動と正常な体温が手にじんわりと伝わることで、緊張は溶けて、謎の安堵すらも与える。
「これ……、何? これがアレの肉体を操作していたんだよね?」
過度な戸惑いを起こして一人頭を悩ませる背後から、新たな魔の手が迫っている事態にステラはまだ気がついていない。
真後ろで完全停止したはずの臓器のない敵が動き出したのだ。
敵が完全勝利を確信したこの瞬間、ステラの背後で漏れ出る欲望を押さえつつ、頭部を標的に両爪を固定して、襲い掛かる準備をねっとりと整える様子は、ステラの肉体を極力傷つけず、我が物にする欲望しか頭にない、根性から腐った屑と知らせるもの。
今すぐにも飛び掛かりたい衝動に駆られながらも仕損じないよう確実性を優先し、ゆっくりステラに手を掛ける。




