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第九章 それぞれの宿命①

 テレビ局は突然の息の長い雨、激しい落雷に対応を困らせている。

 降水確率は皆無の上に絶好のお出掛け日和と太鼓判を押しただけに、このゲリラ雷雨は天気予報士を大きく困惑させた出来事で、厳しい現実に直面している。


 フレイが破壊した高層ビルの外壁は、雷害による被害と何らかの事件の両方からメスを入れられるものの、大雨の影響は大きいらしく、満足に調査も進まず、なにより豪雨の行方に一般人の関心が傾いている。不安を重ねた感情は、行き場を失くして少しずつ心に蓄積されていく。


***


「ジュノッ! 待ってジュノッ、僕をっ、僕を置いて行かないでっ!」


 暗黒の闇に満ちた場で、ジュノが進み向かう白光だけが距離を測れる唯一の光。

 振り返ったジュノ。

 タイトな黒衣のドレスが良く似合っていて、髪がサラリと踊る。

 大人の装いで、儚さを纏いながらも冷淡で恨み睨むような表情は端正が故に、冷ややかな目は冷酷さをさらに増す材料でしかなく、フレイの心を深く突き刺した。


「……ッ、ジュノッ!」


 一瞬怯むフレイだが、最後のチャンスに手を伸ばさずにはいられない想いが心を強く押す。

 そんな必死なフレイの脳内に、突然ステラの泣き声が盛んに響いた。

 それはまだ手足すら満足に動かせない、超低出生体重児の不安と寂しさに満ちた、か細くも懸命な泣き声。

 ジュノを追えばより大きく響き、助けを求めることしか出来ない健気な泣き声は、心の細部にまで浸透させるようで、力強く訴え続けるこの懸命さがフレイをより苦しめる。


 今、ジュノに辿り着かなければ、きっと二度と戻ってこない。

 そう断言できるからこそ、今のフレイにステラの泣き声は不謹慎とは言え、不愉快。

 しかし本来恨むべきはジュノ。

 ジュノは裏切ったのだ。フレイとステラを顧みることもなく捨てた。

 この受け入れがたい現実に加えて、頭に響くステラの泣き声が波のような変化によって強弱を作り、未熟で拙いながらも一種の悲しいメロディーを奏でている。

 それがジュノとの今生の分かれと示しているようで、不安がフレイの心を侵食していく。

 だが育児の忙しさからジュノを忘れさせてくれたのはステラ。生きる喜びを分かち合うことを教えてくれたのもステラ。明るい未来を描き、前を向いて歩けたのもステラのおかげ。


「君は帰ってこない。もう、二度と僕の前には現れない……」


 その絶望的な考えが確信に変わるほどの膨大な時間が過ぎた頃、ジュノは突然帰ってきた。

 何食わぬ顔で、何の反省もなく、平然と帰ってきたのだ。


***


 一つの悪夢が心を突いて、フレイはジュノと言う名の惨劇から目を覚ました。

 冷え切った身体は柔らかな質感なものでフレイを包んでいる。

 手先の感覚が少し戻っていることに気付くが、全身の気怠さが消えておらず、身体を満足に動かす事ができない。

 ただ手のひらにフレイではない温もりが脳に直接伝わることから、大きな希望を持って手先を動かすと、それは合図のように強く握り返してくれた。

 フレイにはこのぬくもりに覚えがある。 

 ずっとフレイを慕って、常に必要としてくれた大切な存在のものだ。


「……ステラ?」


 重い頭を少し上げると、おぼろげな視界から見える泣き疲れた表情のステラ。


「マサヤ来て! フレイが起きた!」

「マサヤ? ど、どうしてステラがマサヤを?」


 意識が朦朧とする中、自身が置かれたこの不可解な状況を理解しようと無理をする。

 フレイが占領しているのは、シングルベッドと一人掛けのソファが一つあるだけの小さな一室で、マサヤが宿泊しているホテルのようだ。

 この大雨の中、涙が枯れるほど泣き尽くしてただ呆然としているステラと、死んだように倒れているフレイを、この異常気象の異変にいち早く気が付いたマサヤが見つけて救出したのだ。


「フレイ、大まかな経緯はおチビちゃんから聞いている。とにかく今は休め、分かったか?」

「僕は、今……」

「大丈夫だ、チビのフレイに戻っている」

「ジュ、ジュノは?」


 マサヤにジュノの居場所などわかるはずもなく、思わず言葉に詰まるその仕草がフレイに厳しい現実を突きつける。

 全てが夢であってほしい淡い想いに期待を込めても、現実は脳が怒鳴るように盛んに心を叩くことで、思わず吐いた自身の言葉で更なる悪夢へ強制的に閉じ込める。


「フレイ、ジュノは、ジュノはね、……ジュノはッ!」


 極力不安を与えず、最良の判断で懸命に答えようとするステラの姿に、自身の発言で思い悩ませたことを悟ったフレイは、そっと笑みを浮かべるとそれ以上何も言わず再び目を閉じた。

 悲しみに暮れ、頬を伝う涙が止まる気配はないものの、絶えず笑顔を作るステラ。

 溢れ出る大粒の涙とは裏腹に、強く握られた手はゆっくり離れた。

 

***


「……――ジュノ、聞こえるか?」


 久々の深い眠りの中にいたジュノの意識は、突然クレスの呼びかけで現実に戻される。


「ジュノ、驚かずに聞いてくれ。詳しいことは後で話す、だから今はとにかく風呂に……」


 クレスの言葉の意味を深く理解できない朦朧とした意識の中、次第に焦点が定まっていく目に飛び込んだ情報がジュノを大いに驚かせる。

 それもそのはず、大人のままでもすっぽり身体が収まるキングサイズのベッドの中で、湿った身体は服ごと豪華なバスローブに包まれているのだから。

 だがそれを上回る衝撃は部屋数の多さと広さ。綺麗で清潔、その上開放的で高級感ある雰囲気から察して、この部屋はスイートルームのようにしか見えない。


「貴方……、どうして?」


「ああ、見ての通りの大雨だ。俺たちみたいな客も結構いて、そう怪しまれることなくチェックイン出来た。流石にそのずぶ濡れじゃ迷惑と思ってな、バスローブは羽織ってもらった」


「そ、それじゃないわッ! ……そうじゃなくて」


 このあまりに想定外な状況に、ジュノの頭が追い付かない故、次の言葉が出てこない。


「……俺はアンタを認めた。認めた相手を敬わない奴がどこにいる? まあ、その話は後々ゆっくり話すさ。それより早く風呂に入った方がいい。そのままじゃ流石に風邪を引く」


 次々と起こる予想を上回る驚きの連続から、未だ混乱気味のジュノを言葉と行動で急かして風呂に誘導するクレス。

 強制的に追いやられるままのジュノもまた初々しい。クレスの思惑通り、無事脱衣所に閉じ込められたジュノに、観念する以外の方法はないようだ。



 シャワールームで深い吐息を一つ。

 足を交差させて頭を低く限界まで縮こまって、極力柔いシャワーに当たる。

 今現在の姿と雰囲気は、普段凛とした正座が美しく堂々としているジュノとは似ても似つかず、まるで小さく貧弱な子供のようで、普段のカリスマ性も威厳も感じさせない。

 当人もそれを重々理解してか、心底嫌でたまらない様子。

 目の前の雲った鏡を指でゆっくり拭いて、隙間から見えた瞳はあまりに情けない顔をまざまざと映している。

 余程避けて来た感情なのだろう、苦手意識が表情から如実に表現されている。

 それが悔しいのか、鏡に映る弱々しい瞳を今度は憎々しく睨んだ。

 本来、未知の難題に失敗しても早々に立て直し、鮮やかな計画でモノにしてしまう策士。

 どんな陰謀も冷静沈着に挑み、解決に至るジュノにとって、解決不可能な感情を見せつけられる事態はプライドに反する。


「……ステラ、…………、フレイ」


 愚かな自身を見つめれば、脳裏に浮かぶ幸せそうに笑う二人の名をポツリと呟く。


「覚悟はしていたでしょう、何があっても後悔はしないと……」


 頭の中では常に気丈なままのイメージが出来ても、心は常に血の涙を流している状態。

 いくらジュノでも、正常なこの感情をコントロールすることは不可能だ。

 それでも自身の限界をそう易々と認めたくはないもの。

 気高い感情を強さに変えて、更なる成長を心に誓えば、溢れ出る涙を遠い彼方へ連れ出そうとする。

 それが並大抵の覚悟と精神では到底達成できない事実を、今のジュノが知る手立てはどこにもない。


「…………」

 着替えを持って、脱衣所のドアをノックしようとするクレスの動きは突然停止する。

 柔らかなシャワーの音に紛れて、微かにすすり泣く声が聞こえたのは気のせいではないらしい。

 ドアを叩こうとした手はゆっくりと下がり、何とも言えない表情をすると自然と身体もシャワールームから離れていく。

 外は土砂降り、大雨はまだ止みそうにない。


***


 ステラは真剣な顔でフレイの帰還を辛抱強く待ち望み、心の底から無事を祈る。

 これ以上負担になりたくない、ステラの揺るぎない決心が読み取れる一面だ。

 フレイが切に望むのはジュノ。

 その気持ちを押し殺して、ステラの負担を避けた常に優しいフレイ。


 いつ何時でも自身を第一に考えて行動してくれたからこそ、恩返しがしたいのだ。

 ステラはジュノにはなれない。

 しかしフレイを支える存在の一人にはなれるはずなのだから。

 意識回復を懇願するステラは、マサヤの手を極力借りず、フレイの目覚めを夜通し願い続ける。

 あの地獄のような出来事から優に丸一日が過ぎた。

 確固たる決意が天に届いたのか、長く降り続けた雨は徐々に弱まり、静けさを増してついには止んだ。残る薄曇りの空は手でかき分けるように消えて、現れたのは綺麗な月と星。

 必死に看病するステラへ希望を与えるように、大きな愛と優しさで包み、穏やかに不安を取り除くための知恵を与え、強い心を継続させる方法を緩やかに導いてくれる。


「……少し、休んだらどうだ?」


 昼夜問わず奮闘するステラを見て、心配のあまり思わず口走るマサヤ。


「おチビちゃんが元気でないと、フレイもきっと悲しむぞ。お互いが大切なら尚更……」


「私、おチビちゃんじゃない。ステラだよ、おじさん」


 憎まれ口を叩く事で、ステラの人見知りな性格を不器用なまま表現してしまう。

 しかし流石のマサヤもこの〈おじさん〉呼ばわりは我慢ならない。


「俺はマサヤだ、まだおじさんじゃない。大体、さっきまでマサヤと呼んでただろうが」


 ステラのマサヤに対する扱いは思いの外辛辣で、静かな怒りに沸くマサヤであるが、フレイを想うステラの横顔は真剣そのもの。

 すでに怒ることも、口出しすることも無駄な感情と思えるほど、今のステラにはフレイしか見えていない現実を丁寧に教えてくれている。


 大雨の中、放心状態のステラを見つけた時はフレイの惨状も相俟って、絶望から心にポッカリ穴が開いているような、そんな覇気の無さをひしひし感じた。

 この短期間で完全回復できたとは到底思えない今だからこそ、計り知れない精神的ダメ―ジを受けていながら、毅然とした態度でフレイを看病するステラにどう休憩させるのが最善か、心の底から思い悩む。

 

 一人掛けのソファーに座り作戦を練るが、疲労からかマサヤ自身が深い眠りに誘われる。

 時間は穏やかに進み、眩しい朝を迎える。

 少しだけ開いた小窓から聞こえる優しい雀の囀りと、朝日がダイレクトに顔に差し込むことで、寝苦しさから唸るように目覚め、ゆっくり睡眠前の記憶を呼び覚ますと慌てて意識を取り戻し、その後の二人を視界に入れるマサヤ。

 フレイは相変わらず死んだように眠っている。問題のステラはフレイから片時も離れず、辛抱強く見守っている。それはステラの成長が確かなものだと証明したようなもの。

 あとはフレイの目覚めを待つばかり。

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