第八章 運命の洗礼①
まだ薄暗い早朝、とある神社の大木で束の間の休息を取るクレスがいた。
雀がクレスの身体に集まると、騒がしくも軽やかな音色を奏でる鳴き声は心地よいもの。
そんなクレスはおもむろに、動じる気配も見せないまま一人突然言葉を発する。
「そろそろ出てこいよ、お袋さんよ?」
「あら残念。もう気がついたの? 全く、面白くないわね」
真後ろの幹から姿を現したのは驚きのジュノ。
普段ジュノから滲み出るミステリアスな印象とは不釣り合いな、見た目相応な子供のままの満面の笑みは、ジュノ自身の置かれた立ち位置と不可解な行動が交じり合ったからか、今だけ妙にさまになっている。
「ハッ! まさかアンタが出て来るとはな。何用だ? 悪巧みでも企んでいるのか?」
失笑しながら冗談を交えたクレスだが、ジュノはその問いに驚くも、静かに表情を変える。
「優秀ね、よく理解できていること。実は――……」
絹のように美しい黒髪が優雅に流れて、不適な笑みと音色を呟くような口元を隠して、ジュノはクレスの耳元で驚くべき内容を呟く。
***
眩しい太陽を浴びる高層ビル。
天気予報は終日晴天を予測し、休日ともなれば繁華街は多くの人間でごった返す。
人混みは大きく二つの動線を作り、上手く人を避けながら各々が目的地に進む様子は、習慣づけられた高度なマナー。
そんな人間の行き来が面白い法則を見ているようで、相変わらずステラは飽きることなく眺めているが、時折、不貞腐れた表情で上空に目線を上げる。
「ジュノッ! ジュノ、どこだッ、返事をしてくれ!」
事の発端はジュノが忽然と消えたことによる。
発覚してから優に六時間は経つ。
時間が進む度、心配が募る真剣なフレイに、嫉妬丸出しのステラはかなり拗ねている様子。
ステラも人並にジュノの心配をしているが、ジュノの有能さはよく理解しているだけに特別大事と捉えていない。
なにより今のフレイを追ってもステラに良い事など何一つなく、下界を観察することで心落ち着くのであれば、余計な感情で気分を害すことを極力控えたいのが心情。
そんな考えで再び下界を見渡す瞬間、空を旋回するフレイに予想だにしない事態が直面する。
「じゅ――……ッッ!」
空中で身動きが取れないフレイを標的に、何かが猛突進する大きな気流の流れから、不吉な予感を漂わせる方向を見るや否や、隣接するビルの屋上へ豪快に吹き飛ばされたのだ。
「ふ、フレイッ!」
このあまりに唐突な珍事を視界に入れたステラは、擦れたコンクリートの土埃の中の、フレイの無事を確認しようと角度を変えては眼光を滾らせて確認を急ぐ。
徐々に落ち着く土埃から見えて来たものは、目を疑うような光景だった。
「じゅのぉおおぉ、君はッぁぁああぁっ、一体、何のッ……、つもりだぁあぁああっ!」
それは両腕を盾のように使い、突然の攻撃から速攻で守りに入る紅塗りのフレイ。
そしてこれはあからさまな殺気を纏った、左の腕力だけで押す、ジュノの刀による猛攻撃。
「この一瞬でよく紅塗りになれたわね。相変わらずその瞬発力には感服するばかりだわっ!」
両腕で防御に徹するフレイの腕は、刀が筋肉にめり込む度、止血と切れた筋肉の筋から回復を行う余力で押し返そうとする。
しかしそれさえ追い付かないジュノの奇襲にフレイは焦る。
「き、君はどうして、そんな姿にッ!」
どうやらこの焦りの原因は今現在、ジュノが黒塗りでない事情が多くを占めているようだ。
「あら、この姿、そんなに焦るほどおかしい姿かしら?」
現在ジュノは高雅で凛々しい表情を隠すこともせず、なびくストレートの黒髪に、スレンダーな身体の線が露骨な漆黒のドレスを身に纏う、妖艶な成人女性そのもの。
その上敵意むき出しの赤眼に、黒衣に映える陶磁器のような白い肌を強調させて、より艶やかに魅せている。
「まあ、今貴方が心配するところはそこじゃないでしょう?」
左手は力で押す勢いに任せたまま、残る右手でジュノは更なる奇襲を仕掛ける。
爪を長く鋭く尖らせて、根元が赤黒く変色していく爪をフレイの太股に躊躇なく突き刺したのだ。
赤黒い色素が根元から切っ先へ、色を失くす様は何かを注ぎ込む注射器のよう。
ジュノの無慈悲な行いと、それによる変化をまざまざと見せつけられたことで、フレイの一抹の不安は淀み、心に暗影が染渡るような奇妙な感覚にも至る。
脳が最大級の危機を察知して、身体は叩くような激しい警告を鳴らせて、迫る異常事態を五月蝿いほど知らせてくるのだ。
「なっ、何を……ッ!」
「気になるわよね。少し待ちなさい、きっと面白いことが起こるわ」
ジュノの残忍な行いに衝撃を覚えるのはこれが初めてではない。
その事実がフレイを精神的に追い詰め、今になってあの時、あの瞬間、マサヤの吐いた言葉がフレイの頭の中を駆け巡る。
『ハハッ、少年、あの女狐に相当ご乱心だな。まあ、近々本性を現すだろうさ』
精神が孤立したことで、不安という波がフレイの心の繊細な部分を一瞬で崩壊させる。
不安とは実に鬼畜なもので、続くマサヤの言葉がフレイにとどめを刺した。
『ふーん、まあ、その鉄壁の信頼が崩れた時、少年、お前はどんな景色を見て、どんな精神状態に陥り、どんな行動を起こすのか、大いに見ものだな』
「ち、違う、違うんだッ、ジュノは違うッ!」
マサヤに絆された言葉は、今になって大きく揺らぎ、フレイを翻弄させる。
必死に忘れようと暗く狭い場所に閉じ込めて、幸せで上書きまでして、遥か底へ埋もれて消えたとばかり思っていた感情は、努力の甲斐虚しく、心の支え共々簡単に崩壊してしまう。
この攻防でフレイはかつてない圧倒的劣勢に陥った。
ジュノの奇襲をきっかけに、その一挙一動が精神的ダメージを与え続けて、支障をきたしたことが原因だ。
しかしその考察だけが全てではないことを、経験のない最大級の警告を更新して、脳天を突き抜ける感覚を引き起こす。
呻き出す血管、何かに絞られる筋肉、まるで全身が硬直するかのような違和感がフレイの全て。
「ジュノ、君は、僕に、……何をっ、したんだッ!」
現状、ジュノの攻撃に押されるだけのフレイは、未だ完治しない太股に力を入れる度、蛇口のように湧き出る出血が不安を煽ることで、嫌な予感は増す一方。
自身の治癒能力より勝る効力の根源を、本能を貪るように掘り起こして過去の記憶から弾き出そうとするが、一切の予測も立てられない現状がある恐ろしい可能性を導いた。
完全無欠の効力が徐々に朽ちることで、精神を蝕む初めての感覚は、フレイの予想をより核心的なものに変えていく。
しかし過剰な危機感と信号を植え付ける事に成功したジュノの猛攻はこれに収まらず、更なる底辺へ無情にも押し落とす準備を着々と整えているのだ。
「やっと効いたのね。そのあり余る治癒能力には大いに、脱帽よ……っ!」
「き、君は一体何がした――、……っ!」
〈ドォォオンッ!〉
無情な空に細く、澄んだ銃声が一瞬。
ジュノが合図を送り、寸分違わず涼しい顔で弾丸を回避する、用意周到に準備されていた不意打ちによってフレイは顔面に強烈な一撃を食らう。
「あら、失敗……」
ジュノの言葉は未だ倒れる素振りも見せない、フレイの全容を明確に表現している。
フレイの顔面に留まる煙硝が消える頃、その答えをはっきりと筋を通す。
金属同士がせめぎ合うような摩擦音を響かせながら、上下の前歯だけで弾丸の勢いを塞ぎ止めているのだから。
弾丸の回転が停止した刹那、弾丸を口腔内に含んで食道まで押し込むと、無表情のジュノを尻目に、強い摩擦熱だけで着火させて炎を纏った弾丸を放出した。
射的は発砲した張本人。
ある程度の予想はしていたものの、その卓越した視力で目立つ弾丸を難なく回避したクレスの姿を確認したフレイは、想像した以上の絶望感でさらに心乱される。
「やっぱり君は、ク、クレスのっ……!」
この一連の展開に加え、クレスが関連する事実が重なり、謎の効力による身体を蝕む答えを導き出す。
そんなフレイの白光がますます歪む頃合いで、ジュノが悪魔の微笑みで囁いた。
「そうよ。これは《クレスの血液》。無限に増殖する特殊な抗体が相反するなら、恐らく能力の相殺を免れないはず。心身を蝕む未曽有の危機に、早急な制裁を下すのが貴方独自の生体でしょう? その並外れた潜在能力が如何ほどか、大いに吟味したいものね」
ジュノの行いは生態系を揺るがす悪の所業。
この世に共存する上で許されない行為。
「ジュノ、本当は、楽しくないッ、……だろう? なんで、こ、こんな……こと、するの?」
この仕打ちにフレイの心身は急激に弱まるも、顔を伏せながら疑問を投じる。
「馬鹿ね、今更そんな分かり切った話……。永遠に私の手の内で転がり続けるのが貴方の運命であり宿命なのよ」
軽快に毒を吐くジュノの表情は、まさしく軽蔑の眼差しそのもので、嫌悪に満ちた拒絶は二人の関係の破綻を予言させるに事足りる。
ジュノの言動はフレイの希望を根こそぎ削り取るもので、絶望から流れ出るのは涙ではなく、悲しい現実を映した生暖かい紅い血だけ。
「嘘は、止めよう。お、怒って……、ないよ。……ジュノ、目、泣いて、……みたい」
心身の崩壊を目前にして、フレイが出した答えは蜘蛛の糸より細い小さな希望。
掴めない想いにフレイは溺れる。
深く、深い深層へただ落ちて行くのだ。
「…………」
「……、ジュノ?」
掴むもののない奥底で見えた確かな光。
それはジュノの黙殺によって溢れ出た想い。
この答えこそフレイにとって大きな転機であり、希望を見出すには十分な材料で、膨らむ清い未来が湯水のように溢れて、深い絶望から無垢な希望へ一気に目覚めさせてくれる。
俯く白光は輝きが増し、迷える子羊だった心にも光が射す。
それはジュノに対する〈信頼〉という揺るぎない二文字が再び開花した瞬間だ。
フレイの頭は徐々に上がり、ジュノを見る明るい眼光はこの計画の失敗を意味している。
丸くなった背中を完全に正して、迫る刀を素手で握ると滴る血に関心も持たず、溢れる太股の血にも構う様子を見せない。
その滾る気迫だけでジュノは押された。
フレイの言葉は予想の範囲内、ジュノ自身の黙殺は大きな誤算。
やるなら徹底的に。
そう覚悟して挑んだジュノではあるが、今更後悔してもこの作戦は二度と通用しない。
それを証明するように、ジュノの刀をいとも容易く折り曲げるフレイがいるのだから。
このフレイ有利な状況に大きく反転したことで、ジュノは一旦距離を置く。
現在進行形で最も有効な作戦を模索するためだ。
だが思案出来る時間はそう多くない。
この短時間でフレイを蹴散らねば、血液の効力も確実に薄れるだろう。
フレイもまた血液による障害のピークを乗り越えつつあり、この僅かな時間でジュノの動きに予測を立てている。
互いの心の隙を射抜くための心身の攻防は、まだ序章にすぎない。




