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第四章 輪廻を泳ぐ夜③

 黒塗りのジュノは瞬くライトで照らされた人間でごった返す下界に目線を落とし、フェンスの上でつま先だけに重心を置いて、実に器用な立ち姿で優雅に下界を鑑賞している。


「あら、ずいぶんと余裕があるのね」


 ジュノには見えている。

 遠い高層ビルの屋上を凝視するために、首が痛くなるほど見上げる一人の人間の姿が。

 あまりに夢中になりすぎて、他人にぶつかれた瞬間、寄生対象を次々変えて多々迷惑を掛けながら渡り歩く姿は、アイリーンの自分本位な性格が透けて見えるようだ。


「いいのよ、そんなことしなくとも。私は貴方から逃げたりしないわ」


 どう考えても聞こえているとは思えない台詞を呟きながら、軽くトンッとつま先を蹴り上げて、先ほどと同様に強い強風のように加速させて、下界へ一気に降りる。

 ジュノの先の目標人物は、無理に人の流れをせき止めて、その存在を周囲に認識させる一般人の青年だ。

 ラブコールのように熱烈な凝視(ぎょうし)で見つめる青年から一旦目線を外して、真下に降りた衝撃で大きな土煙と風を巻き起こす。

 人間たちの注視を謎の土煙に移行させ、人の隙間を縫うと姿勢を低くしたジュノは問題の青年の懐に入り、瞬時に左手をかざして顔面をピンポイントで掴む。

 高い跳躍力で人混みを抜けると、フレイと共に降りた最初の高層ビルに駆け上がっていく。


 どうやら最も懸念した多くの人間から好機の的となる事態だけは避けられたようだ。

 しかし高層ビルを駆け上がる途中、緊急事態が起こる。

 青年に憑依したアイリーンが、顔面を掴んだジュノの手を舌で舐めたのだ。

 アイリーンの体液は肉体など余裕で溶かすものだ。


 ジュノはフレイとは身体の構造が異なり、多少の応急処置は出来ても、そう易々と治癒能力を発揮することは出来ない。

 容易く内部に到達できないよう髪を盾のように使う工夫はできるが、生成を繰り返す漆黒より、アイリーンの分泌する全てを溶かす酸の方があまりに早く、このたった数秒でジュノの体内へ菌を侵入させることも夢ではない状況にまで陥る。


「貴方の成すこと全て愚行よ。これ以上私を舐めないで、ほしいわっ……、ねッ!」


 例えフレイのように万能でなくとも、ジュノにはジュノの戦い方がある。

 アイリーンを掴むジュノの左手のひらから、月夜で華麗に反射したものが顔面から後頭部を串刺しにする。それは剣にしては細く薄く、無駄をなくした独特な反りがまさに刀そのもの。


〈ドドッ、ガッッッ!〉


 顔面に貫通させたことで、回復に徹するための時間がジュノの窮地を救う中、屋上に辿り着けば即座に容赦なくコンクリートに刀を刺して、一旦、アイリーンから距離を取った。


「くッ、がぁッ? クソがッ、クソがッッ、この卑怯者がッッ!」


「あら、それは貴方の口からは聞きたくなかった台詞よ。卑劣な手で私たちを追い詰めた貴方は、今後どうやって償ってくれるのかしら? まあまず無理よね、そんなこと」


 黒塗りの姿でも容易に想像出来る。恐ろしいまでの笑顔で語り掛けるジュノの表情が。


「償うぅ? それはこっちの台詞だぁああぁぁあぁ、よくも私の顔面にぃぃいッ!」


「そうかしら。傲慢で強欲で、身勝手な貴方に最も相応しい姿形だと思うのだけれど」


 少し毒舌を絡めながらも、正論と真実をゆっくり述べるジュノの左手には新たな刀が光る。

 くし刺しの刀は緑の体液の影響を受けながらも、小さな煙を焚いて物質を失くしていく。


「貴方の失態なんてどうでもいいことよ。それより集合体(クラスター)を止めなさい、これは命令よ」

「くッ、クククッ……」


 ジュノの威厳ある発言と行動に何らかのおかしさを感じてか、アイリーンは顔面にできた風穴に手を添えながら、余裕ある笑いでこの危ういはずの状況をかき乱す。


「貴方のことよ、ハッタリではないわね。何か状況打開の道筋でもあって?」


「ふん、ジュノ、お前が期待しているのはこういうことぉ、だぁあ、よなぁぁあ……ッ?」


 風穴に添えた手で緑の体液を鷲掴み、ジュノへ目掛けて投げ飛ばしたアイリーン。

 この行為にある程度予測を立てていたジュノではあるが、心身の構造上、一瞬怯んでしまう。

 緑の体液にどれ程の危険性を持つか、よく理解しているからこそ自然な反応と言える。

 避けた体液の行方を追って、目を離した一瞬、アイリーンは残酷にも青年の肉体から即座に抜けた。


 緑の体液に纏われて、酸で身体が骨ごと急速に溶けていく過程を、憑依された青年は理由も分からないまま生きるために荒い呼吸を一度行った後、意識を失くして無駄なく塵となり、地面につく間もなく物質を失くす。

 この一連の拷問を見たジュノの赤い虹彩が歪む。


「相変わらず卑劣な手を使うものね……ッ!」


 それはまさしく着せ替え人形のようなもので、人間をただの玩具、もしくは安い奴隷のような扱いから、罪悪感なく憑依し肉体を変えるアイリーンには明らかに良心が欠落している。

 尋常でない欲望こそが原動力の全てなようで、素早く輪廻を超えて新たな肉体を手にしたアイリーンは、建物の下から静かにジュノの背後を取り、不衛生な爪を迷いなく振り上げる。


「……くッッ! スペアを用意していたのね。全く、血も涙もない漢……ッ、」


 気配を察知して刀で防御することに間に合ったものの、ジュノは自分自身に対する怒りを隠せそうにない。

 アイリーンの異常な残虐性と、悪知恵なら異常なほどとんでもなく頭が回る性格を、正確に予測しなかった浅はかさを悔いているのだ。


「クククッ、お前の肉体も魅力的ではあるが、私に栄華をくれた存在が一番恋しいのだよ」


 至近距離でジュノの左眼を抉ろうと試みるアイリーンを阻止するために、一旦距離を取るジュノ。

 今現在、ジュノの左眼には今も幸せそうに快眠しているステラがいるのだから。


「それは貴方の実績ではないわ。死体を踏み台に昇る栄華になんの意味があるというのッ」


「あるともッ! 人間は皆、私に利用して欲しいと騒ぎ奉るのだッ!」


 緑の身体に映える黒茶の瞳が大きく見開くことで、この言葉が本音であることが分かる。


「……そう、その想いが貴方を強くしているのね」


「そうだッ! お前も私にひれ伏せッ! 私に利用されたいと懇願(こんがん)すればいいのだぁ!」


 あまりに横暴な言葉の数々に流石のジュノも言葉を失う。

 本能からこの男が世に存在してはいけない人物と、最大級の警告を出して今、永遠に排除する方法を勝手に模索するほどに。

 それほどまでにアイリーンという男は、全生体にとって有害な存在にまで成長を遂げたということ。


 そんな自惚れを披露する間も腕力で押され続けるジュノ。

 遂にはアイリーンに首を掴まれ、目と鼻の先にまで距離を縮められた。

 力勝負ではジュノがあまりに分が悪い。


 ただ喉から手が出るほどにステラを欲する心がアイリーンの全てであるからか、他の感覚はおざなりで、息が荒いままジュノの左眼に集中しすぎるあまり、他が全て隙だらけだ。

 ジュノにはアイリーン本体に隠された集合体(クラスター)の〈核〉を探すことを求められている。

 今回の場合、核とは具現化された魂のことを指す。既に遠隔操作で集合体(クラスター)の操作をしていることをジュノは突き止めている。


 恐らく崇拝するアイリーンの無茶を甲斐甲斐しく受け入れ、健全な魂にメスを入れたのだ。

 順を追って変化した正統とは異なり、それは急速に寿命を縮める行為というだけでなく、この魂は二度と大地を踏めない、永久の地獄を味わうこととなる。

 アイリーンはそのリスクを一切知らせないだけでなく、何かしら強要もしたことだろう。


「フフフッ、ステラの前にお前を先に憑依するも悪くないッ!」


「そうッ、……う、上手くッ、いく、かしらッ、ねッ?」


 現段階、ジュノの発言は負け犬の遠吠えにしか聞こえない。

 アイリーンの力で押されるジュノがいるのだ。

 少々気の早い勝利宣言も、この優位な光景に揺れ動く誘惑にしても、より強い欲望が現実味を帯びて行く過程を体感するあまり、アイリーンの妄想は止まりそうにない。


 ジュノの頭部を握り押さえて、この時のために準備していた適度に湾曲した爪で左眼をくり抜こうとする。

 もうすぐ訪れる至福を心待ちに、止まらない欲望をジュノにぶつけた。

 首を締め付けられ、左眼も抜き取られる寸前と、まさに絶体絶命。

 しかしジュノは何かしらの策略があるのか、最後の力を振り絞り、アイリーンの首元へ弱々しくも人差し指を伸ばした。


「そんな窮余の一策で何ができる? 大人しく私の一部になれッ! なるのだッ!」


 勝利を手にする確信から、アイリーンはジュノとステラ、両方を手に入れる喜びに浸る。

 勝利を確信したも同然のアイリーンの首元へ、未だ懸命に手を伸ばすジュノの行動に不快感を示すものの、あのジュノの肉体を手に入る瞬間がたった数十秒ほどで叶うのだ。

 今更ジュノが何をしようと、アイリーンにとってはただの悪足掻きにしか見えない。


「ジュノ、お前ぇ……、もう何もかもが手遅れだろぉ? 大人しく私に奪われろッッ!」


 今まで感じたことの無い多幸感に酔い痴れるアイリーンではあるが、少しの不安が頭を(かす)めた。

 懸命にアイリーンの首元に伸ばすジュノの手の行方に、不穏が拭えないのだ。

 ジュノを得るまであとほんの数秒といったところで、ジュノは一歩届かない指先から突如爪を伸ばして尖らせ、プツリとアイリーンの皮膚を突き破って侵入を開始させる行動に出た。


「こッ、このぉお、クソがぁぁああぁぁぁああぁッ!」


 意地でも拒む行為に加え、確実に自身を亡き者にしようとする行動に、アイリーンの怒りは最高潮に達し、速攻、ジュノを潰しに掛かる。

 堪えられない激怒によって後先考えないまま両手でジュノの首を絞めたのだ。

 加減もせず、ただただ怒りに任せて、強い力で。


〈ドォンッ! ……ドォンッ!〉


 低い銃声が間隔を空けて二発、夜空に響く。

 それは黒塗りのジュノの赤い灯火に、衝撃的な瞬間と変化を焼き付けた。

 耐えきれない痛みから早々ジュノを自由の身に、尋常でないほどの震えを起こして藻掻き苦しみ出す。

 まるで劇物を仕込まれたように泡を口から噴いて、痙攣まで起こす事態にまで発展。

 すぐさま脳の中枢を貫通させてアイリーンは肉体から逃げした。


 この過程の中で突然強制返還された魂も、残酷にも全身が煮えたぎる感覚を身体の隅々で体感しながら、感情が行き着く前に脳が燃え尽き、続いて身体も燃え尽き、人の形を失くして、この広い夜空を駆け上がることすら不可能となった。


「あ、貴方……、」


 言葉こそ冷静沈着を装っても、ジュノの明らかな殺気は隠しきれず、窮地を救ったはずの相手を睨むまま視界に入れて、互いの視線を合わせる。


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