序章 もう1人の王
夜の帳が落ちる頃、村は業火に包まれていた。
燃え上がる家々の軋む音と共に村人の断末魔が空に響き、村はわずかの抵抗も虚しく、刹那にして炎の海へと沈んでいく。
やがてもうもうと立ち込める煙が、村の輪郭をぼやけさせた。
奴隷として捕らえられた村人たちの怒号、すすり泣き、呪詛の混じった恨み節が夜風に溶けて木霊する。
ありとあらゆる魔が跳梁するバーバライ帝国の侵略は、ドゥンケルロート大陸において、まさに悪夢のごときものだった。
その地獄絵図の中でただ1人、村の男が闇を裂いて立ち上がる。
筋骨隆々とした体格、拳には諦めぬ者の意志が宿っていた。
「宵闇に差す月影とて、日の光には退く他なし……逝けッ、愚王よ!」
闇夜に向かって叫んだ男が挑むは、馬上の影の冷笑を浮かべた男。
殺戮に特化されていないピッチフォークは、月明かりに金属製の歯が照らされて妖しく光っていた。
勢いよく迫った男があと数m先まで接近するも、その勇気も空しく次の瞬間には彼の額に弓矢が突き立ち、命は息を吹きかけられた蝋燭の火のように消えた。
矢を射たのは、双角の蒼馬バイコーンにまたがる、逆立つ紫髪を揺らす狂人。
苦悶の表情を模した禍々しき鎧。
夜空に星を散らしたかの如し外套。
そして半月の形を模した大弓を優雅に構えたその男こそ、バーバライ帝国の帝王―――邪王ナハト―――だった。
戴冠の儀を前に父王を殺したことで知られる彼は、敵対勢力や不正を働いた者を容赦なく殺害する冷徹な人間としても有名だ。
狂王、魔王、覇王、夜の化身……異名はその殆どが畏怖と嫌悪の象徴であり、大陸の狂気が人の姿をとったものとまで呼ばれていた。
恐怖と憎悪を一身に背負う、人間性の欠落した災厄。
生まれながらか、あるいは運命の捻れか。
世界には時折、こうしたバグのような存在が生まれ落ちるのだ。
ナハトが唇を開き
「抵抗しない若人や女は労働奴隷として、活きのいい兵は闘技場の見世物として、どちらも我らの資産となろう……我が子を慈しむよう、丁重に運べ。残った反乱分子は殺すも、犯すも、お前たちの好きにせよ」
その言葉にバーバライの軍勢は歓喜の咆哮を上げ、勝利の宴が始まった。
抵抗した村人が命乞いをするも兵は躊躇なく男の首を跳ね、女1人には兵士数人が円になって取り囲む。
絶叫しながら助けを求めた少女に刃を突きつけられると、もうその命はバーバライ帝国の所有物になったのだと理解し、彼女は震えながら地獄の宴が終わるのを待った。
数時間の蹂躙の末、やがて捕虜は巨竜が曳く巨大な鋼鉄の檻に閉じ込められ、鎖で繋がれたまま帰路についた。
だが悪夢の夜はまだ明けてはいなかった。
帰還の道すがら、軍勢が休息を取る頃、兵の一人が報告を上げた。
「奴隷が暴れて逃げ出しました!」
その兵士に従ってナハトが直に確かめると、確かに奴隷たちは1人残らず姿を消していた。
檻に繋がれた竜は微動だにせず、縄も鎖も切れた様子はなく、工具で檻を分解した痕跡もない。
神隠しの如く、まるで“最初からいなかったかのように”消えたのだ。
訝しげに眉をひそめるナハトは、その違和感を振り払うように淡々と呟いた。
「……最近はフクロウ狩りもしておらん。そのせいで弓の腕がなまってしまったのではと、気が気でないからな。よかろう―――見せしめにヤツらには生きた的になってもらおうではないか」
兵の1人が地面の窪みを指し示し
「足跡はこちらに続いています。おそらくこの方角に逃げたかと」
「ふむ、ついてこい」
ナハトは数名の兵を引き連れ、足跡を辿った。
闇の中をひたすらに進み、歩数が増えるにつれ、野営地から遠ざかる。
そして青年の胸の中で膨らんでいた疑念が、徐々に明確な悪意を感じ取った。
(……念のため確認しておくか)
あくまで冷静にランタンの灯で足元に向けると、闇に溶けた真実が次第に顕になった。
そこには異様な足跡―――爪先がなく、どう見ても靴で踏みしめられた痕跡―――だ。
裸足の奴隷が残すはずのないそれを見たナハトは、何も言わずに腰の短剣に手を添えた。
油断は命取り、しかし慌てれば敵の思う壺だ。
だが既に兵士もナハトの動きを察し
「狂王、覚悟ッ!」
「貴様の戦争狂いで、どれだけの民が息絶えたと思っている!」
振り返りざまに剣を構える兵士たちが積年の宿怨を漏らしながら、殺意を剥き出しに距離を詰める。
―――しかし次の瞬間、ナハトの刃が兵士の首筋を貫いた。
それがさも当然だというような、表情1つ変えぬ迷いなき殺戮。
その一瞬の一太刀に絶望した兵士が唖然とし、目を、口を開き、沈黙した隙にナハトは2人目、3人目と瞬く暇も与えず殺害した。
流血を浴びてもなお薄く笑う邪王は、もはや地獄を住処とする悪魔そのものだ。
恐怖に震えた兵士の喉から血が噴き出し、地に落ちる光景に怯えた生き残りに、切っ先を突きつけて問う。
「誰の差し金だ? 答えれば牢に入れるだけで赦してやろう。だが答えねば容赦なく殺す」
極限状態で選択を強いるナハト。
だが彼は口を割らず、王を睨みつけたままだ。
「――無駄か。よかろう、信念と共に死ね」
そう呟くと短剣が止めを刺した。
顔に返り血を浴びても、ナハトは瞬き一つせず、踵を返して野営地へ戻っていくのだった。
戻ったナハトに兵士が心配そうに駆け寄るが、彼は部下の手を鋭く払い、無言でその場を去った。
言葉は不要、信じられぬ者に語る意味はない。
謀略の気配が拭えぬ以上、一刻も早く帰らねばならない場所があった。
帝都バーバライ、そこにいる彼の大事なものを守るために。
帝都バーバライへと到着すると王の帰還に応じ、通路の両脇には臣民が跪いて出迎えた。
怪物、幽鬼、獣人、悪魔、そして人間までもが膝を折って頭を垂れる様は、彼の統治と支配が帝国全土に轟く証左だ。
だが中には戸惑いの色を浮かべた者たちがおり、その者たちにナハトが声を放つ。
「陰で不平を垂れる者は、余の逆臣。だが正面から不満を述べる者は、忠臣の見込みがある」
「ナ、ナハト様……どうか慈悲を」
騎乗した王者が見下ろすと、その威圧感に平民は体を震わせた。
「我が統治に文句があるのなら、偽りなき言葉にしてみよ。返答次第では褒美をとらす」
恐れ慄いた豚鼻のオークに助け舟を出すように、霊体の半透明の怪物が恐る恐る顔を上げて答えた。
「……滅相もございません。ただ先ほど城へ向かわれるナハト王のお姿を拝見しまして……」
ナハトは一瞬、言葉を飲み込む。
だが彼を逆上させかねない嘘をつく理由もなく、即座に問いかける。
「王たる我を騙る不届き者がいるとは、許されざる所業。その偽物の居場所はいずこか、余に教えてはもらえまいか?」
「……確か、城へ向かわれたかと」
「承知した、礼を言う」
「身に余る光栄にございます」
一礼する臣下の中を抜け、ナハトは愛馬にまたがり、配下を引き連れて城へと駆け出した。
度重なる陰謀の気配に形容しがたい胸騒ぎを覚えながら。




