第九話 止められない者
勝利は、麻薬だった。
リシアの名を掲げた部隊は、強かった。
いや、強すぎた。
「進め! 敵は怯んでいる!」
「慈悲は不要だ!
彼女の死を忘れるな!」
怒号と歓声が、区別なく飛び交う。
アルトは、高台からそれを見下ろしていた。
全体は把握できている。
地図も、配置も、敵の退路も。
――だが、人の心だけは、見えなかった。
「前線、制圧完了!
残敵、村へ逃走!」
伝令が叫ぶ。
「追撃は――」
アルトは、息を吸った。
「……追撃は、限定的にしろ。
村には、民間人が――」
言い終わる前に、別の声が割り込む。
「了解! 殲滅を開始する!」
「違う、待て!」
伝令は、もう走り出していた。
嫌な予感が、現実になる速度は、いつも速い。
村は、燃えた。
家屋は壊され、逃げ惑う影が刈り取られる。
敵兵と民間人の区別は、完全に失われていた。
「やめろ!
命令だ、止まれ!!」
アルトの声は、怒号にかき消された。
「彼女のためだ!」
「今さら躊躇するな!」
誰かが、そう叫ぶ。
――彼女のため。
その言葉が、胸を抉る。
アルトは、馬を駆って前線へ向かった。
だが、間に合わない。
炎の中で、兵士が一人、幼い少女を引きずり出す。
泣き叫ぶ声。
刃が、振り上げられる。
「やめろ!!!」
アルトは、叫びながら剣を振るい、
自軍の兵士を斬った。
血が飛び散る。
一瞬、時が止まった。
「……隊長?」
兵士たちの視線が、一斉にアルトに集まる。
「これ以上は、戦争じゃない」
声は、震えていた。
「ただの……殺戮だ」
沈黙。
次の瞬間――
誰かが、唾を吐いた。
「今さら何を言う」
「俺たちは、あなたの命令に従ってきた」
「谷の時も、そうだっただろ?」
胸の奥が、冷える。
「……違う」
「違わない」
兵士の一人が、血のついた剣を指す。
「あなたが線を越えた。
だから、俺たちも越えた」
アルトは、何も言えなかった。
その場で止められたのは、
ほんの一部だけだった。
村は、半分が焼け落ち、
多くの命が、数字に変わった。
夜。
アルトは、独りで地図を見つめていた。
指が、無意識に震えている。
「……俺は、指揮官失格だ」
「いいや」
背後から、声。
ヴァルドだった。
「お前は、指揮官だ。
だからこそ、皆が従った」
アルトは、振り向かなかった。
「……今日のことは、報告される」
「されるだろうな」
ヴァルドは、静かに続ける。
「だが、全てではない」
アルトの目が、僅かに動く。
「お前が、自軍の兵を斬ったこと。
そして、命令を無視され、止められなかったこと」
「……何が言いたい」
「それは、“英雄”には都合が悪い」
ヴァルドは、鍵を弄びながら言う。
「王都が知れば、
お前は責任を取らされる。
リシアの名も、汚れる」
アルトの拳が、握り締められる。
「条件がある」
「……取引か」
「そうだ」
ヴァルドは、目を細めた。
「俺を、正式な“協力者”として扱え。
捕虜ではなく、助言者としてな」
「敵将を、信用しろと?」
「信用しなくていい」
ヴァルドは、冷たく笑う。
「だが、俺は知っている。
この戦争の“終わらせ方”を」
沈黙が、長く続いた。
アルトは、ゆっくりと息を吐く。
「……俺は、もう十分に汚れた」
視線を上げる。
「これ以上、何を差し出せばいい」
ヴァルドは、低く囁いた。
「お前自身だ。
判断も、名も、未来も」
その瞬間、アルトは悟った。
自分は今、
敵に首輪を付けられたのだと。
だが同時に――
その首輪を、自分で選んだのだと。
戦場のどこかで、
また炎が上がる。
アルトは、もう目を逸らさなかった。
逸らす資格は、
とうに失っていた。




