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第六話 戻らない名前

 雨は、すべてを等しく濡らした。


 味方も、敵も、死体も、生者も。

 区別など最初から存在しないかのように。


 夜襲は成功した。

 少なくとも、戦術的には。


 アルトは指揮を執らなかった。

 リシアの願いを受け入れ、後方に下がったまま、伝令を通して命令を出した。


 ――安全な判断。

 ――間違いの起きにくい判断。


 そう、思っていた。


「第三班、前進完了! 敵の抵抗、予想より弱い!」


 伝令の声に、アルトは頷いた。


「深追いはするな。包囲を維持し――」


 言葉が、途切れた。


 遠くで、爆音がした。


 地面が震え、悲鳴が重なり、夜が裂ける。


「何が起きた!」


「わ、分かりません! 敵が――いや、内部から爆発が!」


 嫌な予感が、背骨を這い上がる。


 アルトは走った。


 雨に足を取られ、泥に膝を打ち、息が切れるのも構わず、現場へ向かう。


 そこにあったのは――

 崩れ落ちた見張り塔と、燃え残った死体の山だった。


「……そんな」


 瓦礫の下から、誰かの腕が覗いている。


 見覚えのある、小さな手。


 アルトはそれを掴み、必死に引きずり出した。


「やめて……やめてくれ……」


 雨に濡れた顔。

 血に染まった髪。


「……リ、シア……?」


 返事は、なかった。


 喉が、壊れたように音を立てる。


「誰か! 治療兵を呼べ! 早く!!」


 何人もの兵が集まり、瓦礫をどかし、応急処置を施す。

 だが、誰も目を合わせようとしなかった。


「……アルト」


 老いた治療兵が、静かに首を振る。


「胸部を貫通している。

 心臓は……即死だ」


 世界が、音を失った。


「嘘だ」


 アルトは、リシアを抱き締めた。


 冷たい。

 重い。

 もう、息をしていない。


「俺は……後ろにいた。

 安全な場所にいた……」


 声が、震える。


「なのに……どうして……」


「指揮が遅れた」


 その声は、背後から聞こえた。


 振り返ると、拘束を解かれたヴァルドが立っていた。

 混乱に乗じて逃げ出したらしい。


「敵の爆薬庫があると、俺は言った。

 だが、お前は慎重になりすぎた」


 ヴァルドは、リシアの亡骸を一瞥し、目を伏せる。


「前に出る者がいなかった。

 だから彼女が代わりに行った」


 アルトの胸に、刃が突き立てられる。


「……黙れ」


「英雄が前に立たない戦場で、誰が死ぬと思う?」


 ヴァルドの言葉は、残酷なほど正確だった。


 アルトは、剣を抜いた。


 一瞬で距離を詰め、ヴァルドの喉元に刃を突きつける。


「殺すか?」


 ヴァルドは、逃げなかった。


「殺せば楽になる。

 だが――彼女は戻らない」


 剣が、震える。


 雨が、二人の間を流れ落ちる。


 アルトは、剣を下ろした。


 その瞬間、何かが完全に壊れた。


 英雄としての自分。

 正しい判断を下せる指揮官という幻想。

 守れると信じていた、未来。


 すべてが、リシアの冷たい体と共に失われた。


 その夜、アルトは初めて理解した。


 ――選ばなかったことも、選択なのだと。

 ――そして、その代償は、必ず誰かが払うのだと。


 リシアの名前を呼んでも、

 もう、返事はない。


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