第五話 血の選択
血の匂いは、もう日常になりつつあった。
石畳に染み込んだ赤は、夜明けの冷気にさらされて黒ずみ、誰の命だったのかも分からない。ただ一つ確かなのは――その中にアルトの選択が混じっているという事実だった。
「……俺が、止めていれば」
呟きは、誰にも届かない。
砦の一角、仮設の治療所では負傷兵のうめき声が途切れることなく続いている。リシアは黙って包帯を替え、縫合をし、祈るように手を動かしていた。
彼女の手は震えていない。だが、目だけが――どこか遠くを見ている。
「リシア」
名を呼ぶと、彼女は一瞬だけ顔を上げた。
「……今は、話せない」
拒絶ではない。ただ、余裕がない声だった。
アルトはそれ以上何も言えず、壁にもたれかかった。
――昨日の夜。
敵の補給部隊を叩くか否か。
少数精鋭で奇襲すれば勝てる。そう判断したのは、アルトだった。
結果は勝利。
だが、補給部隊の中には武器を持たない徴発民が混じっていた。
敵国の村から半ば強制的に連れてこられた者たち。
彼らは逃げ惑い、叫び、そして……斬られた。
「戦争だから仕方ない」
そう言った部下の声が、耳にこびりついて離れない。
その時だった。
「英雄様は、満足か?」
低く、冷えた声。
振り向くと、拘束された敵将――若い男が立っていた。
名前はヴァルド。アルトと同じ年頃に見える。
「お前の作戦で、多くの兵が死んだ」
「それは、お前たちが侵略したからだ」
アルトは即座に言い返した。
だがヴァルドは、嘲るように笑った。
「侵略? 違うな。俺たちは、生きる土地を奪われた側だ」
その言葉に、胸が詰まる。
「お前の国が、先に境界を越えた。鉱脈のために、村を焼いた。
俺は復讐のために剣を取った。それだけだ」
「……嘘だ」
「なら聞け。あの補給部隊にいた民は、俺の村の人間だ」
アルトの喉が鳴った。
「武器も持たず、戦う意思もない。
だが、お前は“敵”として切り捨てた」
沈黙。
反論は、見つからなかった。
「正義ってのは便利だな。
掲げていれば、どれだけ血を流しても眠れる」
ヴァルドは目を伏せた。
「……だが、俺は眠れない」
その夜、アルトは一睡もできなかった。
そして翌朝――
治療所の外で、リシアがアルトを呼び止めた。
「アルト。お願いがある」
「……何だ」
「次の作戦。あなたは、前に出ないで」
その言葉は、刃のように鋭かった。
「私たち……あなたを信じてる。でも」
リシアは唇を噛みしめ、続ける。
「今のあなたは、自分の正しさしか見ていない」
アルトは、何も言えなかった。
正義を選んだつもりだった。
守ったつもりだった。
だが、結果として残ったのは――
血と、憎しみと、仲間の不信。
英雄など、どこにもいない。
あるのはただ、
選び続けなければならない地獄だけだった。




