第十八話 白磁の割れ目
彼女は、もう彼を見なかった。
それが最初の一手だった。
連絡を絶ち、姿を消し、存在を盤面から消去する。
人は、脅威よりも「理解できない空白」に弱い。
男は苛立ち始めていた。
あの日の会議以来、理由の分からない確認が増える。
内部監査。過去案件の再精査。
形式的で、丁寧で、逃げ場のない質問ばかり。
——誰が動かしている?
答えは、出ない。
彼女は一切、直接触れない。
代わりに、正しい場所に、正しい資料を置くだけだった。
コピーではない。
原本。
修正前の数字。
手書きの注記。
彼自身の筆跡。
それらは匿名で、
しかし不自然ではない経路を辿って、
然るべき机の上に届く。
「偶然」
「内部整理」
「念のため」
美しい言葉ほど、人を安心させる。
男は自分で自分を守ろうとした。
部下を呼び、過去の説明を試みる。
だが、説明は声にした瞬間に固定される。
言葉は証拠になる。
彼は、話しすぎた。
——六件。
——例外処理。
——上からの指示。
誰も彼を責めていないのに、
彼は自分で輪郭を描いてしまった。
数日後、静かな呼び出しが入る。
「確認だけです」
その言葉が、何度も繰り返される。
確認。確認。確認。
彼はようやく気づく。
これは追及ではない。
整理だ。
不要なものを、元に戻す作業。
彼女は遠くのカフェで、白いカップに口をつけていた。
ニュースサイトを開く。
名前はまだ出ていない。
——いい。
崩れる直前が、一番美しい。
夜、短い通知が届く。
《盤面、完了。
彼は明日、全てを話す》
彼女は返信しなかった。
もう、手は打ち終えている。
翌日、男は「自発的に」説明を行った。
保身のため。
名誉のため。
家族のため。
誰のせいにもせず、
しかし全てが彼の責任として、
静かに、整然と、記録された。
彼女はその報告を読んで、
ページを閉じる。
復讐の達成感は、ない。
あるのは、誤差が修正された感覚だけ。
割れた白磁は、
元には戻らない。
けれど——
割れ目は、初めからそこにあった。
彼女は席を立ち、コートを羽織る。
(次は、もう少し奥だ)
美しいものほど、
壊れるときは音を立てない。




