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第十七話 静かな盤上

その男は、自分が駒であることに気づいていなかった。


会議室は無駄に広く、机の中央には資料が几帳面に並べられている。

彼女は少し遅れて入室した。遅刻ではない。時間差だ。


「お待たせしました」


柔らかい声。

相手の警戒心を削るには、刃よりも有効だった。


男は笑顔で頷く。

——彼は、いつもこうやって人を安心させてきたのだろう。


彼女は席に着く前、机の端に置かれた資料の向きをわずかに回転させた。

男は無意識に、それを正しい角度に戻す。


(——几帳面。支配欲が強い)


盤面に一つ、印がつく。


「本題に入る前に、確認したいことが一つあります」


彼女は、関係のない話題を振った。

過去の制度改正。数字。形式的な手続き。

男は淀みなく答える。


嘘はない。

だが、それは彼女の狙いではなかった。


彼女は途中で、わざと一つだけ誤った数字を口にする。


「ええと、あの年は——七件、でしたよね?」


男の視線が、ほんの一瞬だけ泳ぐ。


「……いえ、六件です」


即答。

しかし彼は、訂正する必要のない部分まで補足した。


(——知っている。内部資料を)


二つ目の印。


彼女は頷き、話題を切り替える。

感情を見せない。

相手に「勝っている」と思わせ続ける。


「ところで」


彼女は、名簿のコピーを一枚だけ机に滑らせた。

伏せたまま。

中身は見せない。


「この名前、ご存知ですか?」


男は、見てもいない紙を見た。


(——反射で“確認”した)


三つ目。


「知らないですね」


その声は、完璧だった。


彼女は微笑み、紙を回収する。


「そうですか。なら問題ありません」


——この瞬間、彼は勝ったと思った。


会議が終わり、男は部屋を出る。

廊下の角で、彼女はスマートフォンを操作する。


《確認。録音は?》


すぐに返事が来る。


《全て取れた。

 “六件”と、“内部補足”も》


彼女は立ち止まり、窓の外を見る。

街は何事もなかったように動いている。


だが盤上では、

王の逃げ道が一つ、塞がれた。


(まだ終わらない)


彼女は次の一手を思い描く。


——次は、彼自身に

「自分の言葉で、過去を語らせる」


静かな戦いは、

音もなく、確実に、終局へ向かっていた。


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