第十六話 火種の名
夜明け前の空は、まだ色を決めかねていた。
群青と鉛色が溶け合う境目で、彼女は立ち止まる。靴底に伝わる冷えが、現実に引き戻す合図だった。
——もう、戻れない。
コートの内ポケットで、紙が擦れる音がした。
折り畳まれた古い名簿。焦げ跡のある角。そこに書かれた一つの名前を、彼女は指でなぞる。
「……やっと、見つけた」
それは加害者の名前ではない。
もっと卑怯で、もっと現実的な火種の名——事件を成立させ、揉み消し、被害者を沈黙させた“要”の人物だった。
彼女の脳裏に、過去が差し込む。
——薄暗い取調室。
——書類の束。
——「君のためだ」という、優しい声。
優しさはいつも、刃を隠している。
彼女は深く息を吸い、吐いた。
復讐は感情でやるものじゃない。順序でやるものだ。
誰を、いつ、どの形で表に引きずり出すか。
スマートフォンが震えた。
短いメッセージ。
《準備は整った。逃げ道は三つ。選べ》
彼女は迷わなかった。
画面に指を走らせ、一つだけ返す。
《正面から行く》
向かう先は、静かなビルだった。
昼間は無害な顔をしているその場所が、夜になると本性を現す。
鍵はもう手に入っている。
言葉も、証拠も、恐怖も。
エレベーターは使わない。
階段を一段ずつ上るたび、心臓の音が規則正しくなる。
——不思議と、怖くはなかった。
扉の前で立ち止まり、彼女は最後にもう一度、名簿を見る。
「これは、あなた一人の罪じゃない」
ノブに手をかける。
「でも——最初に燃えるのは、あなた」
扉が静かに開いた瞬間、
夜明けの色が、ほんの少しだけ変わった。




