2 気になる同期 ②
一瞬、何を言われたのかわからなかったのか、女性はきょとんとした顔をしたが、顔を真っ赤にして反論する。
「一応、前は見てました!」
「見えていたらぶつからないでしょう」
龍騎は相手にしていられないと言わんばかりにため息を吐いた。
「き、気づいたらぶつかっていたんです」
若い女性はどうしても龍騎と関わり合いになりたいようだが、彼はまったくそんな気はなさそうだ。
(まったく相手にされてない。ちょっといい気味だわ)
ながらスマホはいけないとわかっているはずの上に、人にぶつかっても悪いと思っていない態度に小鳥は怒り心頭だった。老婆に怪我はなかったようだが、女性には罰が当たってほしいと思った。
始業時間にはまだ余裕はあるが、営業職の龍騎とは違い、小鳥は制服に着替えなければならない。足早に歩いていると、背後から声がかかった。
「おはよう」
「……おはようございます」
小鳥に挨拶をしてきたのは龍騎だった。入社して日は経っていない。新入社員研修が一緒だったとはいえ、自分のことなど覚えていないだろうと思っていた小鳥は驚きつつも挨拶を返した。
先ほどの女性は龍騎が小鳥に声をかけたので、恨めしそうに小鳥を睨んでから先を歩いていく。その様子を見た龍騎が謝る。
「なんか巻き込んでごめん」
「あ……、いえ。大変でしたね」
「声をかけられることには慣れてるっちゃ慣れてるんだが、どんなに経験しても良い気分にはならねぇな」
うんざりした表情の龍騎を見て、小鳥は同情の眼差しを向ける。
(もてている人は大変なんだなあ。見知らぬ人から声をかけられ続けたら嫌になる気持ちは分かるし、それが続くとなると疲れるよね)
心の中で納得したあと、小鳥は話題を変える。
「あの人、自分がおばあさんにぶつかったのに自分は悪くないって態度でしたよね」
「そうなんだよな。……って、何で敬語なんだ?」
「だって、神津さんのほうが年上じゃないですか」
「会社では同期だろ。社内では俺よりも年下でも先輩はいるんだから気にすんな」
小鳥の会社は商業高校や家庭の都合で大学に行くことのできない人も積極的に雇っているため、四大卒の龍騎には年下の先輩がいるようだった。
小鳥にも年は一つ下だが、一年先に入った先輩がいるので納得はできた。歴史は短いが勢いのある会社でもあるので、現在は社員数が増えていっているが、働いている人間は比較的、若い人が多い。
「……そうなんですけど、神津さんには敬語を使いたくなるんですよね」
「何だよそれ」
(顔が整いすぎているから、芸術品と話している気分になっちゃうんだよなあ)
小鳥よりも頭一つ分以上背の高い龍騎を見つめた瞬間、端正な横顔に眩しさを感じて目を逸らす。
「敬語では駄目ですか」
「別に悪いわけではないけど、同期なのにおかしくないか?」
「おかしくありませんよ」
「そうか?」
不思議そうにしている龍騎に苦笑したところで、小鳥の脳裏をよぎったのは彼に熱を上げている上司の顔だった。
(こうやって話をしている所を先輩たちに見られたら、何を言われるかわからない!)
小鳥は焦った顔を作って叫ぶ。
「大変! 会社に行かなくちゃいけないんでした! では、失礼します!」
「俺も行くとこは同じだよ」
ツッコミが入った気がしたが、聞こえないふりをして猛ダッシュする。
(イケメンは危険! 免疫のない私は少し優しくされただけで恋に落ちる自信がある!)
心の中で叫んでいると、龍騎が追いかけてきた。
「だから俺も一緒の会社だって言ってんだろ」
「なんで追いかけて来るんですか! 一緒に出社するのはまずいです!」
「嘘じゃないんだから、たまたま会ったって言えばいいだろ。それに千夏さんに聞きたいことがあるんだよ」
「それだけでは済まされない事情があるんです! あと、聞きたいことは同期の岡野さんに聞いてください! うわっ!?」
この時の小鳥は前を見ることに必死で、足下をまったく見ていなかった。だから小鬼たちがいつの間にか積んでいた石の山に引っかかり、派手に転んでしまったのだった。
******
「どうして、千夏さんが龍騎くんと一緒に出社したの? 納得いかないんだけど」
始業してすぐ、小ボスと陰で呼ばれている先輩からトイレに呼び出された小鳥は、自分と小鬼を呪いたくなった。
あの後、派手に転んだ小鳥は、龍騎に介抱されながら出勤することになったのだ。バッグは飛んでいくわ、片方の靴が脱げるわ、膝は擦りむくわで酷い状態だった小鳥を、龍騎は置いていくことができなかったのだ。
『ピーッ』と小鬼たちは歓喜の舞を披露していたので、龍騎がいなければ見えていないふりを忘れて、小鬼を引っ掴んで道路に投げていただろう。
「ちょっと千夏さん。聞いているの?」
(上津さんなら知ってますが、龍騎くんって誰ですか、って言うべき? いや、そんなことを言ったら火に油を注ぎそうね)
「上津さんとたまたま出会った後に派手に転んでしまいまして、さすがに放っておくわけにはいかなかったみたいです」
「ふうん。それってわざと?」
「いいえ」
(膝にかなり大きな絆創膏をしているのに、心配どころか男性の気を引くためだと疑うなんてひど過ぎない?)
会社の制服は膝が見える丈なので、ストッキング越しに大きな絆創膏が見える。小ボスも怪我のことには確実に気づいている。そのことが分かっている小鳥はため息を吐きたくなったが、何とかこらえた。
小ボスは総務部にいる御局の娘で、四十代半ばだ。独身の女性が二十代の青年に夢中になることが悪いとは言わないが、仕事中にトイレに呼び出してまで確認する話ではない。どうやり過ごそうかと考えていると、二つある個室トイレの一つの扉が少しだけ動いた。
小鳥が驚いて目を向けると、4、5歳くらいの黒髪おかっぱの女の子がひょっこりと顔を覗かせていた。一瞬、座敷わらしかと思ったが、すぐにトイレの神様の一柱だと気がついた。
小鳥の家には代々、守り神として家の中に古い物が置かれている。その中の一つに日本人形があり、トイレに置かれている。人の姿として出会ったのは初めてだったが、小鳥には目の前にいる少女が家にある日本人形だとわかった。
人をたぶらかすと言われている付喪神とは違い、彼女の場合は小鳥の中では守護の神様で、幼い頃から花子さんと呼んでいる。
小鳥と目が合った花子さんはにこりと笑ったかと思うと、小ボスに鋭い目を向けた。
「……何だか気持ち悪い」
その瞬間、小ボスの顔色が急に悪くなったかと思うと、小ボスは花子さんがいないほうの個室に駆け込んでいく。
「だ……、大丈夫ですか?」
「う……っ、放って……おいて」
小鳥が声を掛けると、小ボスは返事をしたが、かなり辛そうだ。
(人を呼び出しておいて、放っておいてと言われても困るなあ)
「では、部長には体調不良だと伝えてきますね。よほどのことでしたら、個室内にある呼び出しブサーを押してください」
小ボスの気分が悪くなった原因が分かる小鳥は、心配する様子を見せつつもこの場を離れることにした。笑顔の花子さんには手を振ってトイレから出ると、急ぎ足で経理のフロアに向かう。その時、先の廊下を龍騎がスーツ姿の男性と歩いていることに気がついた。
(改めてお礼を言わないといけないよね)
イケメンに声を掛けるには勇気がいるため、大きく深呼吸していると、龍騎の肩の上で何かが動いているのがわかった。目を細めて見てみると肩の上だけでなく頭にも小鬼が乗っていて、彼の髪の毛を掴んだり、ふわふわとトランポリンで遊んでいるかのようにはしゃいでいる。
小鬼は優しい人には懐くのだと母や祖母から聞いていた小鳥は、それを見て龍騎が悪い人ではないと確信した。かといって、話しかける勇気はそう簡単には湧き上がらない。
(今は先輩と話をしているもの。タイミングを待とう! あ、その前に部長に連絡しなくちゃ)
その時、目の前を歩く龍騎が頬をつついてきた小鬼を払った。小鬼はふわふわと飛んで、龍騎の肩の上に戻ると、なぜかペコペコと頭を下げるように体を何度も動かした。
(あの小鬼が謝ってる!)
衝撃を受けていると龍騎が振り返り、小鳥の姿を確認して足を止めた。
「膝、大丈夫か?」
「だだだだ、大丈夫っす!」
龍騎から声をかけられただけでなく、複数の小鬼がじっと小鳥を見ていたこともあり、小鳥は声を上ずらせて答えた。
そんな小鳥を見て龍騎は不思議そうな顔になり、龍騎の隣に立っていた先輩は声を上げて笑い出した。