1 気になる同期 ①
時は春の気配がようやく整った4月中旬。
黒のジャケットに白のシャツ。黒のフレアスカートにベージュのストッキングに黒のパンプスという出で立ちで、千夏小鳥はオフィス街の歩道を早足で歩いていた。
新社会人ということもあり、ナチュラルメイクに背中の半ばあたりまである長い黒髪を後ろで一つにまとめた小鳥は、一等地に自社ビルをかまえている商社に経理事務員として就職することになった。
入社して十日以上経ち、大学時代に戻りたいと思いながらも、現在は会社に向かっているところだ。
小鳥の気持ちとは裏腹に、今日は雲一つない青空が広がっていて、気温も心地良い。
会社近くの横断歩道まできたところで、信号が赤に変わった。始業時間に近いためか、小鳥の周りには多くの信号待ちの人であふれる。
端のほうに避けて信号が変わるのを待っていると、大福のような大きさの体に大きな一つの目。頭らしき部分には小さなソフトクリームのコーンを二本ひっくり返して付けたような角らしきものが生えている物体が小鳥の目に入った。
その謎の物体を、角が生えているという理由で小鳥は『小鬼』と呼んでいた。
小鳥には幼い頃から普通の人には見えないものが見えていた。その不思議な力は彼女の母親からの遺伝だった。小鳥の母は奇妙な生き物のことを『妖怪』や『あやかし』と呼んでいた。それらが見えることを他人の前では絶対に言ってはいけないと口止めした。
最初はどうして内緒にしなければいけないのかわからなかった小鳥だが、物心がつくにつれて、小鳥はあやかしが見えている自分が普通ではないのだと気づいた。
友人に『気持ち悪い』と言われてからは、妖怪たちが見えていることを両親以外の前では話さなくなった。
小鬼は目と角しかない胴体に線で描かれたような二本の足と手がある。手には腕と同じ細さの指が左右に五本ずつあり、彼らは日常生活の至るところに現れるが、普通の人には見えない。今も小鬼が足元をちょろちょろしていても、小鳥以外に気がついている人はいない。
小鬼は見た目よりも力持ちのため、植え込みの中にあった自分の体と同じ大きさの石を抱えあげると、小鳥の横に立っている若い女性の足元に石を積み上げ始めた。
不思議なことに小鬼が意識して触れると、触れたものが普通の人からは見えなくなってしまう。そのため、小鬼が石を積み上げていても普通の人には見えないが、触れることはできてしまうため、見えない障害物になるのだ。小鬼が興味をなくす、もしくは数時間が経てば見えるようにはなる。
(小鬼たちはこの人をつまずかせたいんだわ)
スマートフォンの画面に夢中になっている女性に「あなたの足元で小鬼がいたずらをしていますよ」なんて言えるわけがない。見知らぬ人から話しかけられるだけでも不審なのに、話しかけた内容がそれでは、朝からおかしな人がいると思われるだけだ。
(歩きスマホをしていたことが気に入らないのね)
オフィスカジュアルの服を綺麗に着こなしている、小鳥よりも少しだけ年上に見える女性は、信号待ちで足を止める前からスマートフォンを見ながら歩いていた。
小鬼はそれが気に食わないようだ。
口がないのにどこから発しているのか『ピーッ』と鳥が鳴くような甲高い声を上げて、小鬼たちは仕掛けを完成させたことを喜び始めた。
パチパチと手をたたく小鬼もいれば、くるくると踊っている小鬼もいる。
(どうしよう)
このままにしておけば女性は積み上げられた石に引っかかり、つまずくか派手に転んでしまう可能性がある。放っておくわけにはいかないと分かっているけれど、声を掛ける勇気はない。どうすれば良いのか考えた小鳥は、ある行動に出ることにした。
小鳥は信号が変わる前に女性の前に立ち、進行方向を塞いだ。
それと同時に石をさりげなく蹴って、道の端に追いやっていく。はたから見れば、ただ小鳥が空を切って足を動かしているという奇妙な光景だ。
背中を向けているので、女性の様子はわからないが、仕掛けを崩された小鬼たちが落胆している姿が見えた。
(ごめんね。この人がやってはいけないことをしているのはわかるけど、見た以上は黙っていられないのよ)
一匹の小鬼は小鳥を見上げて抗議するように「ピィ」と鳴いた。小鬼は自分たちが小鳥に見えていることはわかっていない。でも、抗議せずにはいられなかったようだ。
大福に線の手足をつけたような見た目で、ほとんど重さがない小鬼の一匹がふわふわと飛んで、小鳥の頬をキックした。
小鳥にはくすぐったい感触しかなく、知らないフリをして頬をかきながら払うと、小鬼はふっ飛ばされて地面に落ちた。
そうしている内に信号は変わり、小鳥の後ろにいた女性は小鳥を追い越し、スマートフォンに目を向けたまま歩き出した。その姿を見て小鬼たちは「ピーッ!」と抗議の声を上げている。
(本当にごめんね。どうしてもやりたいなら、私の見ていないところでお願い! というか、いつまでこの人、スマホ見続けるの!?)
怒ったりがっかりしている小鬼たちを一瞥し、未だにスマートフォンを見ている女性に憤慨しながら、小鳥も歩みを進める。
怒りのせいで大股で歩きながら、女性を追い越して横断歩道を渡り切ろうとした時、どさりという音が聞こえて、小鳥は足を止めて振り返った。
朝の散歩中だったのか、杖を持った小柄な老婆が横断歩道の真ん中あたりで倒れていた。
「あ、ごめんなさぁい」
どうやら先ほどの女性が老婆にぶつかったらしい。女性は老婆のほうを一切見ずに、気持ちのこもっていない声で謝りはしたが、スマートフォンの画面を見続けたまま足を止める様子はない。
「ぶつかっておいて何なのよ」
思わず心の声が口に出て、小鳥は老婆を助け起こすために戻ろうとした。
「大丈夫っすか?」
その時、老婆の体を軽々と持ち上げた人物がいた。小鳥も老婆にぶつかった女性も足を止めて、その男性に目を向ける。
(うわ、イケメン! ……って、同期の神津さんじゃない?)
老婆を気遣う様子を見せている男性は、小鳥と同期入社の神津龍騎という男性だった。小鳥は短大卒だが神津は四大卒で小鳥よりも二つ年上だ。
黒髪のマッシュヘアーに長身痩躯のモデル体型。透き通るような肌に切れ長の目が印象的で整った顔立ちということもあり、社内の女性陣からイケメンだと騒がれている。
実際、小鳥も龍騎に俳優ですと嘘をつかれても納得できるくらいに素敵だとは思っていた。
(高校生の時から男性と話すことなんてなかったからなあ)
女子校に通い続けていた小鳥には、龍騎のようなイケメン男子に話しかけるだけでもハードルが高い。
紺色のスーツに同じ色のネクタイをした龍騎は、横断歩道を渡る人の注目を集めていた。
(どうせ私のことなんて認識していないよね。声をかけるのはやめて、おばあさんは神津さんにお任せしよう)
小鳥はくるりと踵を返して横断歩道を渡り切る。そこでさりげなく龍騎たちのほうを見ると、彼が老婆をおんぶして渡っているところが視界に入った。
(おばあさん、大丈夫かな)
龍騎に話しかける勇気はないが、老婆の様子が気になってゆっくり歩いていると龍騎たちの話が聞こえてくる。
「助けてくれてありがとうねぇ」
「いいえ。それよりも怪我はないですか」
「歩いて帰れるから気にしないでいいよ。それよりも本当にありがとう。年を取るとすぐに転んじゃってねぇ」
「前を見ずにぶつかってきた奴が悪いんです。怪我してるなら我慢せずに病院に行ってください」
「ふふ。そうするねぇ。お兄さんは出勤するところでしょう? 遅れたら大変だし、もう行ってちょうだい」
「わかりました。お大事に」
龍騎は老婆にそう答えると、小鳥と同じ方向に向かって歩き出した。そんな彼に先ほどスマートフォンをいじっていた女性が声をかける。
「あの、ありがとうございました」
彼女の龍騎を見つめる目は熱っぽく、明らかに好意があることが感じ取れた。そんな彼女を一瞥して龍騎は小さく息を吐いて答える。
「あなたに礼を言われるようなことはしてないっすけど」
「でも、お婆さんを助けてましたよね。素敵です。お優しいんですね」
「あなたがちゃんと前を向いて歩いていれば、そんなことをしなくて済んだんですけどね」
龍騎は女性には一切目を向けずに冷たい声で言った。