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ありがとうのあとで

作者: 高野



誕生日の朝。

 薄く差し込む朝日がレースのカーテンを通り抜け、キッチンに漂うバターの匂いをほのかに照らしていた。

 トースターが「カチッ」と跳ね、母はすぐにパンを取り上げてバターを塗る。

 皿に乗せた目玉焼きは白身のふちがわずかに揺れ、黄身が丸く脈打つ。



「十四歳か。早いもんだな」

 新聞を閉じた父が少しだけ声を弾ませる。

「おめでとう」

 母がトーストを少年の皿に置きながら微笑んだ。

「ありがとう」

 少年は短く返し、家族の視線を受け止める。



 そのとき、兄が椅子を引くかすかな音を立てて立ち上がった。

 片手には白い紙袋。包装もリボンもなく、店名もプリントされていない。

 兄は黙って少年の前に差し出す。袋は思ったより軽く、底で硬いものが当たる感触だけが伝わる。



「珍しいな、買い物か?」

 父が意外そうに眉を上げる。

「ちゃんと選んできたの?」

 母が覗き込みながら尋ねた。

 兄は「まあね」とだけ返し、席に戻る。視線は袋でも少年でもなく、コップの水面に落ちていた。



 少年は袋の持ち手を握り直す。

「ありがとう」

 軽く息を整え、膝の上に袋を置いて口を広げた。

 中から現れたのは、白と黒の六角パネルが陽を弾くサッカーボール。

 新品特有のゴムの匂いがふわりと立ち、指先に弾力が跳ね返る。



「すごい……!」

 少年の声が自然と一段高くなる。

 手のひらで転がしながら感触を確かめ、ボールを胸の前で抱え込んだ。

 ロゴの輝きを食卓の光にかざすと、白いパネルが小さく反射し、壁の時計の針を照らす。



「いいボールじゃないか、高かっただろ。」

 父は嬉しそうに兄にそう言い、コーヒーをひと口すする。

「気に入った?」

 母が目を細める。

「うん、ありがとう。本当に嬉しい」

 少年はボールをそっと撫で、指で弾いて軽い音を鳴らした。



 兄はパンをかじり、視線を上げないまま「そりゃよかった」とだけ言う。

 テーブルの上で皿がかすかに触れ合い、黄身の表面に揺らぎが走った。

 窓から差し込む光がボールのパネルをもう一度照らし、白い面を際立たせる。



 少年はそれをじっと見つめた。

 不思議と重さを感じないほど、掌に収まっている。

 やがてそっと膝の上に戻すと、トーストを持ち直した。

 食卓には再びカトラリーの音とパンの香ばしい匂いが広がる。


 陽射しが少し角度を変えるたび、ボールの白が静かに輝きを増していた。




 朝食を食べ終え、部屋を後にする。

 階段を上がるたび、紙袋の中で球体がかすかに跳ねた。

 そのたびに身体のあちこちにぶつかるような振動が走り、骨の奥まで響いたような感覚を覚える。

 一段ごとにかすかに息を吐き、手すりを強く握りしめるような感覚が、指先に残った。


 ようやく自室の前にたどり着く。

 ドアノブに指をかけるまでに、肩から汗がじんわりと滲んでいた。

 自室のドアを閉める。家全体のざわめきが遠のき、静かな部屋に空気が沈んだ。



 少年は袋を床へ落とし、サッカーボールを取り出した。

 掌に吸い付くようなゴムの匂い。

 指でパネルの縫い目をなぞると、そこに残るわずかな膨らみが脈打つ心臓のようだった。



 親指をぐっと立てて表面に押し込む。

 爪が白くなるまで力をかけても、ボールはたわまず、ただ弾力を返してくる。

 胸の奥で熱を帯びた何かが膨らみ、のどの裏側を焦がした。

 少年は深く息を吸い込み、肩で呼吸を整えると――





 腕を振り抜いた。

 声は上げなかったが、筋肉が悲鳴をあげるほど速く、鋭く。

 ボールはまっすぐにゴミ箱の側面を叩く。

 鈍い音が金属を震わせ、紙屑が跳ね散った。

 転がりかけた球体が、無理やり空気を吸いこむように底へ沈む。

 それでも跳ね返ろうとするわずかな反動を、少年は身をかがめて指先で押さえ込んだ。

 柔らかなパネルの上に一瞬だけ爪跡が残り、すぐに弾力に呑み込まれる。


 少年は拳を握り、その熱が落ち着くのを待った。

 喉の奥に残る鉄の味を、ゆっくりと唾で流し込む。

 リモコンを取り、机の上の小さなテレビを点ける。

 芝を裂く音、観客の歓声――

 その瞬間、部屋の空気が切り替わったような錯覚が走った。

 画面には、ピッチを駆けるユニフォームの群れ。

 ボールが鋭くパスされ、選手が勢いよく芝を削る。

 そのすべてが、ただ眩しく、現実から切り離された光景だった。


 音量をゼロにする。

 代わりに、靴裏の摩擦を思い出す。

 ボールの回転、風を切るスピード、選手の太腿を走る筋の影――

 そのすべてを、身体ではなく記憶で感じていた。


 ひとりの選手がボールを受け、鋭く切り返す。

 カメラがその足元を追い、白いスパイクが宙に浮く。

 跳ねる土、跳ねるボール。

 その瞬間、少年は無意識に指先を動かした。

 脳がまだ、自分の足でその感覚を再現しようとしていた。


 だけど、画面の中ではすべてが軽やかで、痛みも、苦しみもなかった。

 誰もそれを失ったとは思わない世界。

 耳障りなほど輝かしい世界。

 少年は数秒、その映像を睨むように見つめ――

 やがてリモコンを置いて、静かに電源を切った。



部屋は、ふたたび静寂に沈む。

少年は床に置かれた金属フレームに手を伸ばし、冷たいパイプをゆっくりと握る。

ぎこちなく腰を寄せたそのとき、不意に足元へと視線が落ちた。





折りたたまれたズボンの裾が、ぺたりと床に張りついている。

その先の膝から下には何も無い。


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