別府忠夫
バルコニーから街を眺めていると、時間というものが輪郭を失っていくのが分かる。柔らかな茜色が、やがて群青の帳へと沈み、その境目が曖昧になった頃、別府忠夫は肩を抱いた。
冷たい夜風がシャツの襟元から肌へと滑り込み、思わず身を縮める。
「びやくしょん」
不意にこぼれたくしゃみは、あまりに唐突で、まるで街の静けさにいたずらを仕掛けたかのようだった。鼻の奥に熱っぽい感触が残り、忠夫は部屋のテーブルに置かれていたティッシュを手に取った。箱には「スコッティ」と書かれている。その名前にふと、どこか異国の柔らかい風景を思い浮かべながら、鼻を拭く。丸めたティッシュを投げるが、ゴミ箱からは外れて床に転がった。
「チェッ」
舌打ちは自分に向けたものだ。彼はゆっくりと床を歩く。と、玄関のチャイムが鳴った。
「ピンポーン」
忠夫はティッシュを拾い、ゴミ箱に落とし直す。そのとき、バルコニーの方から風が強く吹きつけて、窓際のガジュマルがぐらりと揺れ、倒れてきた。光を求めるように斜めに伸びたその幹を、彼は慌てて支えながら、もう一度チャイムが鳴るのを耳にした。
「ちょっと待っててくださいね」
誰に向かってそう言ったのか、自分でも曖昧なまま、忠夫は片手で窓を閉める。風が遮られ、部屋は少しだけ密やかになる。しかしその拍子に足がゴミ箱に当たり、さっきまで収まっていたはずの紙くずたちが、床に散らばった。
「くそっ……」
呟きはもはや怒りではない。虚しさが滲んでいた。しゃがみこんでゴミを拾おうとすると、立てかけておいたはずのガジュマルが再び揺らぎ、重力に従うように倒れかかってきた。
「いやああ」
声が、口から漏れる。それは感嘆でも驚愕でもなく、ただ、生きているという証のようだった。彼は片手でガジュマルを支えながら、再び響くチャイムに耳をそばだてる。
「ドアは鍵かかってないから。入ってきて。今、それどころじゃないから」
遠くで自分の声が誰かに向かって放たれている。その「誰か」は、もしかすると、この夜そのものかもしれない。
そしてまた、鼻がむず痒くなる。
「びやくしょん」
今回のくしゃみは、まるで魂を揺るがすように大きかった。鼻水が溢れ出し、彼の顔を濡らす。忠夫は、木を支えたまま、何とかテーブルに手を伸ばす。ティッシュを取ろうと足を伸ばしすぎ、体のバランスが崩れる。床は冷たく滑りやすく、次の瞬間、彼は倒れ、鼻から下を濡らしたまま、ガジュマルの幹の下敷きになった。
「ぎゃあああ」
その叫びは、もはや意味を持たない。天井を見上げながら、忠夫は再びチャイムが鳴るのを聞いた。
「ピンポーン」
夕闇はすっかり夜へと移り、街の灯りがひとつ、またひとつと点る頃。忠夫は床に横たわったまま、小さく呻くように声を上げた。
「うぎやあああ……」
それは、生活の断面であり、孤独の音であり、あるいは、ただのくしゃみに過ぎなかった。