壁の囁き
彼が目を覚ますと、壁が微かに話していた。
最初は風の音かと思ったが、耳を澄ますにつれ、それは確かに言葉だった。言葉というよりは“音のかたまり”で、意味よりも音程が先に脳に刺さってくる。ささやき声、呻き声、笑い声、すすり泣きが折り重なり、まるで壁の中で人々が暮らしているかのようだった。
彼はベッドから降りて、壁に耳を当てた。壁は冷たいが、振動している。何かが這っているような気配すらある。聞こえてきたのは、どこかで聞き覚えのある声だった。
「靴下を裏返したまま履くと、時間が逆さに流れる。」
「退屈な午後には、魂が指先から抜ける音がする。」
「カーテンの裏に、まだ誰かいる。」
彼は慌てて壁から離れたが、声は部屋のあらゆる面から聞こえてくるようになった。天井から、床から、椅子の背もたれから。どれも彼の記憶の中にあった言葉だ。かつて彼が誰かに言った、あるいは誰かから聞いたどうでもいい言葉たち──それが今、彼を取り囲んでいる。
「お前は退屈を愛しすぎた」と、鏡の中の彼が言った。
彼は振り返った。部屋の隅の鏡が、知らぬ間に曇っている。その表面には、無数の指の跡がついていた。中から、誰かが触れようとしていたかのように。だが部屋には彼しかいない。
ふと、壁の一角に小さなひびがあることに気づいた。音はそこから特に強く漏れているようだった。彼は工具箱から古びたノミと金槌を取り出すと、そのひびを慎重に広げはじめた。
すると、音がぴたりと止んだ。室内に沈黙が訪れた。
そして──壁の中から彼自身の顔が現れた。
血色も表情もない彼の顔が、まるで壁紙の模様のようにそこに浮かんでいる。だがその口がゆっくりと動いた。
「やめておけ。ここから先は、無音すら退屈に飲まれる。」
彼は道具を落とした。音が鳴らない。床も、壁も、空気さえ、音を拒絶していた。
それからというもの、彼は壁に耳を当てることをやめた。
だが夜になると、枕の下からまたあの囁きが聞こえてくる。
「退屈は、音に成りすまして、あなたの中にも住んでいるよ」