午後の紅茶とはなしの続き
翌日もまた、晴れていた。前夜に降った小ぬか雨の湿りが、石畳のすき間に残っていた。旧友の川合慎三が、別府忠夫の書斎を訪ねてきたのは、そんな春の午後だった。
「まったく、変わらんなあ、おまえの部屋は」
「そりゃあ、変わるほどの動機がないからな。せいぜい、ティッシュの位置が左右に動くくらいだ」
二人は机をはさんで向き合い、懐かしいような間を共有した。慎三は、昔、雑誌の編集をやっていた男で、忠夫の随筆をいくつも世に出したひとであった。今はもう職も離れ、悠々自適のはずだが、どこか背中の丸まりに、名状しがたい影を落としていた。
「なあ、忠夫」
「なんだい」
「こないだ君の書いた『難解なる余白について』──あれはつまり、自分のことを書いていたんじゃないか?」
「……あれは鼻水について書いたものだよ」
二人は、くすりと笑った。
「でもなあ」慎三が言った。「この歳になると、いろんなことが、急に難解になってくる。昔は分かっていたはずのことが、さっぱり分からん。人の話のテンポも速くなって、言葉がこぼれ落ちていく」
「それは退屈かね?」
「いや……ちがう。退屈じゃなくて、不安なんだよ」
忠夫はしばらく煙草に火をつけるのをやめ、そっと湯呑に手を伸ばした。
「難解とはな、昔は知的な言葉だった。でも今は、情のない言葉になった。語る方も聞く方も、情がすっかり抜け落ちてしまった」
「まるで鼻の通らぬ、風邪の文学だな」
「うむ。通らぬのは、鼻だけではなく、意味でもある」
ふたりはそこで、しばらく黙って珈琲をすする。梅の枝が風に揺れている。かすかな音を立てて、どこか遠くで犬が吠えた。
「ところで忠夫。君はまだ書くつもりか?」
「うん、たぶん……まだ、書くんだろうな」
「なぜ?」
「難解なものを、退屈になるまで眺めていたい。それが文学というものじゃないかと、最近は思うんだ」
慎三は少し驚いたように目を細め、それから懐から皺だらけのハンカチを取り出して、鼻をかんだ。
「それは君らしいなあ。文学の根にあるのが鼻水だなんて、普通は言わん」
「でも、鼻水の出ない文学は、あまりに整っていて、信用できないだろう?」
慎三は笑い、また珈琲を飲んだ。
陽はまだ高かったが、影は少しずつ長くなっていた。時間が経っていくことそのものが、ふたりの会話のなかに、静かに沈んでいた。