窓辺にて あるいは 純粋鼻水批判
この朝、私はまたも同じ窓辺に立ち、外界の曖昧なる曇天を眺めていた。そこには、確かに風景と呼べる連続体が広がっていたが、それは視覚的感性において与えられる“対象”というよりも、むしろ心象としての“概念未満の影”であった。
即ち、私はそこに「もの」そのものを見ていたのではなく、自己意識が外界に向けて放たれた際の、純粋悟性による“仮象”の構築であったのである。
されば、ここに言う「退屈」もまた、経験的与件ではなく、内的構成において初めて可能となる。
私は椅子に腰かけ、長らく読みかけたままの本を開いた。それは何の書物であったか、もはや覚えていない。しかし明らかに、「読むべきもの」として私に課せられていた。
だが、それを開いた瞬間、私はくしゃみをしたのである。突如として襲い来た感覚的刺激(鼻腔内の刺激)は、理性の形式的統一を打ち破り、私を一時的な「自然の奴隷」たらしめた。
「びやくしょん」と私は発声し、これが音響的カテゴリーにおいていかなる意味を持つか、理性的解明を一時断念した。
鼻水が出た。
これは生理的現象であり、同時に、自然的必然性に従う機械論的連鎖の一環である。私はただちにテーブルの上にあったティッシュ、商品名をスコッティという、すなわち人間の経済活動が生み出した文化的副産物を用い、それを拭った。
この一連の行動は、自由意思に基づいたように見えて、実のところ因果的制約のもとに発動された機械的応答であった。されば、自由と見えるものもまた、理解の範疇における見せかけであるという、カント的苦悩を再び私は思い出した。
そのティッシュを私はゴミ箱に投げた――が、外れた。
ここで、「意図」と「結果」の乖離が顕著となる。実践理性に基づき正しく目的を定立しても、自然界においては常に偶然という反理性の要素が介在するのだ。
「チェッ」と私は言った。これは道徳的評価の対象とはなりえない、いわば感情的反射である。
そして歩き出したその時、ピンポーン、とドアホンが鳴った。
この音が、私の自由を奪うものであるか否か。つまり私は、それに応答すべき義務があるのか、それとも無視する自由があるのか。
私は考えた。応答すべきか否か、道徳法則は何と命じるか?
だが、思考の余地なく、観葉植物――名称不確定なガジュマルもしくはカジュマル、あるいはカジュマロ(いずれにせよ実在性は不確か)が倒れた。
自然の作用と人為の不整合、それは退屈のなかに差し込まれた難解さであった。
私は言う。「くそっ」。
これは美的判断ではなく、単なる怒りの吐露である。
再びドアホンが鳴る。
私は言う。「入ってきて。今それどころじゃない」
ここにおいて、「他者との関係における道徳的配慮」と「自己保存への衝動」とがせめぎ合う。
そして再度のくしゃみ――「びやくしょん」。
鼻水が流れる。私は滑る。木の下敷きになる。
「ぎゃあああ!」と叫ぶ。
これはもはや「自由な理性」などという概念の存在を疑わせるに足る体験であった。
だが、次の瞬間――またも、ピンポーンと鳴った。
すべては、退屈で、難解で、だが確かに「ある」。
それだけが、私にとっての現実だった。