呉視点三国志:孫堅の章④
189年:中平六年
長沙の地に、一人の男が降り立ちました。その男の名は孫堅。かつての軍功が認められ、ついに正式な太守の位を得たのです。「私がこの長沙を守り抜く!」その決意は、彼の瞳に宿る炎のように熱く燃えていました。
孫堅は、地方官として類まれなる軍事の才能を発揮します。盗賊が跳梁跋扈する地を瞬く間に平定し、各地で起こる反乱を鎮圧していきました。
「敵はどこだ!私の剣の錆になりたいものはかかってこい!」
命令を待つまでもなく、孫堅の軍は常に先頭を駆け、その自主的な行動力で次々と結果を出していったのです。急速な昇進は、まさに時代の求める英雄の姿でした。民の心をつかむ術にも長け、彼は戦うだけでなく、治めることにも手腕を発揮する、稀有な統治者だったのです。
しかし、その頃、後漢王朝は未曽有の激動期を迎えていました。長きにわたる政治の腐敗と、それによる社会の不安は限界に達し、ついに巨大なうねりとなって表面化します。その中心に現れたのが、西方の軍閥、董卓でした。
事の発端は、西暦189年の春。敬愛された霊帝が崩御したことでした。幼い献帝が後を継ぎますが、その幼さゆえに、政治の実権は外戚や宦官の手に移ろいやすくなります。
この混乱に乗じて、洛陽の都に足を踏み入れたのが、涼州の地で力を蓄えていた董卓でした。
「俺の力こそが正義!」彼は、強大な武力をもって朝廷を掌握し、幼い献帝を飾り物の如く扱いました。反対する者は容赦なく粛清し、宮廷を意のままに操り、その権勢を誇示したのです。
董卓の傍若無人な振る舞いは、都の官僚たち、そして各地に割拠する諸侯たちの怒りを買いました。中でも、名門の出であり、当時、渤海太守を務めていた袁紹は、董卓の暴虐を見過ごすわけにはいきませんでした。
「この暴虐を許すわけにはいかぬ!」
袁紹は立ち上がり、各地の諸侯に檄文を飛ばし、董卓打倒のための連合軍結成を呼びかけたのです。
この呼びかけに応じたのは、後の三国時代に名を馳せる英傑たちでした。曹操、孫堅、そして劉備。彼らは、それぞれの私兵や領地の兵を率いて集結し、反董卓連合軍がここに産声を上げたのです。
江南の地で勢力を築いていた孫堅も、この知らせを聞き逃すはずがありません。
「ついに、この孫堅の力が必要とされる時が来たか!」
彼は、自らの領地から精鋭の兵を率い、董卓を討つべく、北への進軍を開始しました。その眼差しは、燃えるような闘志に満ちていました。
189年:中平六年
霊帝が崩御し、洛陽の都で董卓がその絶対的な権力を振るい始めた頃、孫堅は、任地である長沙の太守として、遠い都の動乱を静かに見つめていました。
各地の諸侯たちが、董卓の目に余る暴虐に憤慨の声を上げる中、孫堅の胸にもまた、抑えきれない義憤の念が湧き上がっていました。そしてついに、彼は兵を率いて洛陽を目指すという、一大決心を固めたのです。
「皆、聞いてくれ!」
孫堅は、集まった部下たちに向かって、熱い情熱を込めた声で語り始めました。
「かつて、私は区星らの反乱を鎮め、この長沙の地に平和をもたらした。
賊を討ち、民を守ることこそ、我々武人の魂である!今、目を向けるべきは洛陽の都。
そこにいるのは、暴虐の限りを尽くす董卓という男だ。
この男を討ち、朝廷の乱れを正し、天下に再び平和を取り戻すことこそ、我々に課せられた使命ではないのか!」
副将の程普は、腕を組み、ため息混じりに言いました。
「ふむ、諫めても無駄でしょうな。文台様をお支えできるのは、結局のところ我々だけなのですから。全く、仕方なくお供するとしましょう。」
その隣で、黄蓋が豪快に笑い飛ばしました。
「またまたご冗談を。徳謀殿は、内心、洛陽行きを誰よりも楽しみにしているのですぞ!ツンデレミーハーですな。。ガハハハ!」
孫堅の幼馴染である祖茂は、真剣な眼差しで頷きました。
「文台様がお進みになるならば、この祖茂もどこまでもご一緒いたします。ところで、北の地の食事は美味いのでしょうかね?」
かくして、孫堅は長沙の地を後に、洛陽へと向かう決意を固めたのです。彼が兵を率いて長沙を出発するその日、多くの人々がその勇ましい姿を一目見ようと集まりました。彼らの瞳には、希望と期待の光が宿っていました。孫堅の背には、故郷の人々の想いを背負い、天下を揺るがす戦いへと挑む者の、揺るぎない決意が漲っていたのです。
189年:中平六年
暁の空に、軍鼓の音が静かに響き渡っておりました。
出陣の朝、孫堅将軍は、凛然とした佇まいで屋敷の庭に立ちました。
そこには、十五歳となった長男――孫策の姿がありました。
少年の面差しには、既に戦士としての覚悟が滲み始めております。
孫堅は、その前に立ち止まり、深く静かな眼差しで息子を見つめました。
「策よ」
その声音には、父としての慈愛と、将としての厳しさが織り交ざっておりました。
「お前もはや、一人前の若者となった。父が洛陽へ赴く間、この家を守り、母上を支えてやってくれ。
日々の学問を怠らず、武芸の鍛錬も決して疎かにするな。
いつの日か、父の志を受け継ぎ、天下に雄飛する立派な男となることを、父は心から期待している。
決して軽はずみな行動は取るな。必ず、父の帰りを待っていてくれ」
孫策は、父の言葉一つひとつを胸に刻み込むように聞いておりました。
その若き顔には、真剣な光が宿り、彼はゆっくりと頷きました。
「父上、ご安心ください。私は必ず、この家を守り抜きます。母上をお慕いし、学問と武芸に励み、父上のご期待に応えられるよう努めます。
無事のご帰還を、心よりお待ちしております」
孫堅は、その頼もしい言葉に満足げな笑みを浮かべました。
「うむ……頼んだぞ、策」
その肩に手を置き、強く頷くと、孫堅は踵を返しました。
ちょうどその時、一人の若者が玄関口に現れました。
頬に薄く髭を湛え、礼儀正しく膝をついたのは――孫賁、孫堅の兄・孫羌の嫡男にして、将軍の甥にあたる若者でございました。
「伯父上。どうかこの孫賁にも、従軍のお許しをいただけませぬか。
乱世にあって、ただ屋敷に留まっていては、孫武以来の武門の名折れと存じます。
伯父上の軍に加わり、命を賭してお仕えしたく存じます」
その声には、年若きながらも凛とした決意が込められておりました。
孫堅は彼をしばし見つめ、そして微笑みました。
「賁よ、お前も立派になったな。……よかろう」
「はっ!」
「策が家を守るならば、お前は戦場で我が背を守れ。兄弟のように育ったお前の力、頼りにしているぞ」
孫賁は拳を握り締め、深く頭を下げました。
「必ずや、叔父上のお傍にて、一矢も通さぬ覚悟にございます!」
孫策は一歩前に出て、堂々とした孫賁の姿を見つめました。
「父上のこと、どうか……よろしく頼みます」
孫賁は笑みを浮かべ、力強く頷きました。
「お前も立派に家を支えよ。皆が戻る場所を、しっかりと守ってくれ」
そして、孫堅・孫賁の二人は並び立ち、静かに出陣の準備へと向かいました。
孫策は、堂々と進む二人の背中を、いつまでも見送っておりました。
その胸には、父への深き敬意と、いずれ訪れる未来への覚悟が、確かに芽生えていたのでございます。
その日、孫家の男たちは、それぞれの戦場へと歩みを進めたのです。
一人は戦場へ、一人は家を、そして一人は未来を――守るために。
190年:初平元年
本拠地の長沙を離れるにあたり、孫堅は集まった民衆に向かい、高らかに董卓討伐の決意を語りました。
「皆の者、安心して故郷を守っていてくれ!必ずや、あの悪逆非道な董卓を打ち滅ぼし、再び天下に平和を取り戻すと約束しよう!」
彼の義侠心と、力強い言葉は、故郷の人々の胸に深く響き、大きな感動を与えたことでしょう。彼らは、孫堅の勇姿に希望を託し、その武運長久を祈ったのです。
一方、腹心の部下である程普は、冷静な視点で今後の戦略を練っていました。
「文台様、洛陽で董卓と戦うにあたっては、誰と手を組むかを慎重に決めなければなりませんぞ。我々は、残念ながら金も人も潤沢とは言えません。ここは一旦、有力な誰かの配下となることも視野に入れるべきでしょうな。」
程普は、さらに言葉を続けました。
「しかし、最終的には我々が独立し、天下に覇を唱えるのですから、かりそめの主人は…そうですね、[金持ち]で、少々[あほう]、そして[操りやすい人物]が良いでしょうな。」
孫堅は、程普の言葉に深く頷きました。そして、反董卓連合の中心人物の一人である袁術との連携を決断します。孫堅の軍勢は、袁術の配下という形で、連合軍に参加することになったのです。当時の孫堅軍団は、単独ではまだ、強大な董卓軍に対抗できるほどの力を持っていませんでした。
袁術のもとに参じた孫堅は、面会するなり、董卓の悪行を激しく非難し、共に正義のために立ち上がり、天下を救うことを熱く誓いました。
「袁術殿、天下の民は、董卓の暴虐に苦しんでおります!我々が力を合わせ、必ずやこの悪を打ち滅ぼしましょう!」
袁術もまた、孫堅の勇猛果敢な態度と、その率いる精強な軍勢を頼もしく思っていました。
「孫堅殿、貴殿の武勇は天下に轟いております。共に力を合わせ、董卓を討ち、漢室の安寧を取り戻しましょうぞ!」
彼は、孫堅の軍勢を、反董卓連合軍にとって重要な戦力として大いに期待したのです。
その後、袁術の推挙により、孫堅は豫州刺史という官位を兼任することになります。しかし、これはあくまで袁術個人の判断による任命であり、正式な朝廷からの承認を得たものではありませんでした。後に、反董卓連合の盟主である袁紹が、周昂という別の人物を豫州刺史に任命したため、孫堅は後に、この周昂と豫州の支配権を巡って争うことになるのです。孫堅の、天下への道は、まだ始まったばかりでした。