呉視点三国志:孫堅の章②
173年:後漢 熹平2年
夕焼け空が茜に染まり、あたりは次第に黄昏の静寂に包まれていきました。風は穏やかで、竹林の葉がさらさらと揺れています。その中、孫堅はただ一人、墓前に膝をついていました。地に伏すように、深く頭を垂れています。
「兄上……」
その声は、風に乗って消えていくように、あまりにもか細いものでした。
目の前にある墓標には、彼が最も敬愛した人の名が刻まれていました――孫羌。
若くしてこの世を去った、同じ母を持つ兄でした。まだ三十にも届かぬ命でした。その早すぎる死を、孫堅は今なお受け入れることができずにいたのです。
香炉から立ち上る線香の煙が、まるで兄の魂が天へと昇るかのように、まっすぐ空へ消えていきます。
孫堅は拳を固く握りしめ、土を掴みました。その手は微かに震えていました。
「兄上は……誰よりも強く、誰よりもまっすぐな方でした」
孫羌は、父の仕事を継ぎ、家を守ろうと懸命でした。純朴だが責任感の強い人物だったのです。彼が居たからこそ、孫堅は後顧の憂いなく武官として腕を振るう事が出来ていたのだと思うと心が痛みます。
声が詰まり、涙がこみ上げてきます。しかし、彼は泣きませんでした。兄が見ているのなら、弱い姿は見せられぬと、歯を食いしばって堪えていました。
その時、背後に気配を感じました。
振り返ると、二人の幼い影が立っていました。
孫羌の遺した息子たち――孫賁と孫輔です。
まだあどけなさの残る二人は、不安そうに叔父を見つめていました。
「賁……輔……」
孫堅は静かに立ち上がり、そっと近づきました。
「そなたたち……父を失い、どれほど心細いことか。どれほど、悲しかったであろうな……」
賁は唇をぎゅっと噛みしめて黙っています。必死に涙を堪えているのが分かります。
一方の輔は、小さく肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔をしていました。
孫堅は膝をつき、二人の小さな肩に手を置きました。その掌には、静かながら確かな温もりがありました。
「よいか、安心するのだ」
その声は、強く、温かく、そして揺るぎない決意を帯びていました。
「お前たちは、もう決して一人ではない。父上の代わりに、この孫堅が全てを背負おう」
孫賁が、はっと顔を上げました。
「叔父上……」
「…」
孫輔はただ立ち尽くすのみです。孫堅は力強く頷きました。
「お前たちは、兄上の命そのものだ。ならば、それは我が命に等しい。お前たちを我が子として育てる。それが、我が誓いだ」
そして再び立ち上がると、墓前へ向き直りました。
その瞳には、強い炎のような意志が宿っていました。
「兄上――」
孫堅は、空を仰ぎ、声を天に向けて放ちました。
「賁も、輔も、我が手で必ず立派に育て上げてみせます。武の道、そして義の心――兄上が生涯をかけて守り抜いた志を、必ず彼らに継がせてみせましょう。どうか、天より見守っていてください……!」
その言葉が終わった時、黄昏の空に一陣の風が吹きました。線香の煙が揺れ、まるで誰かが頷いたかのように、ふわりと舞い上がりました。
174年:後漢 熹平3年
若葉の香りが漂う銭唐の町――。ここは山と水に囲まれた美しき土地であり、都から離れた静謐なこの地に、才色兼備と名高いひとりの娘が暮らしていました。
名は伝わっていません。しかし、後に「呉夫人」と呼ばれる女性であり、その気品と聡明さは遠く他国にまで聞こえていたといいます。
両親を早くに亡くし、弟の呉景と共に慎ましくも気高く生きてきた彼女のもとに、ある日、一つの縁談が舞い込んできました。
相手の名は――孫堅。
地方の若き役人であり、盗賊討伐で名を挙げつつあった俊英の男です。彼はまだ十九、年若くして戦に身を投じ、豪胆な武勇を世に知られつつありました。
しかし――。
「孫堅? あの者か……軽薄で、どこか抜け目のない男ではなかったか?」
呉夫人の叔父にあたる男が、険しい顔つきで言い放ちました。周囲の親族たちも、うなずきながら声を重ねます。
「聞けば、家柄も良くはないと。成り上がり者にすぎぬ。才気あるとはいえ、我が姪にふさわしいとは思えぬな」
その場にいた呉夫人は、黙ってその言葉を聞いていました。ふと、涼やかな目元に静かな光が灯ります。
「……では、お尋ねします」
彼女は、静かに、しかしはっきりと問いかけました。
「家柄が人を決めるのですか? 名門に生まれれば、品位も義も備わると、そうお思いなのですか?」
親族たちは一瞬、言葉を失いました。
「孫堅殿は、戦において命を賭け、人々を守ってきたと聞いております。貧しき生まれであっても、義に厚く、心の強い方だと……」
その目はまっすぐでした。揺るがぬ意志が、空気を変えていきます。
「どうして私ひとりのために、皆様が災いを恐れられるのですか。もし、結婚して不幸になったとしても――それは、私自身の運命でございます」
しんと、座敷の空気が凍りついたように静まり返りました。誰もが、その一言に呑まれていました。
やがて、長老格の親族がぽつりと呟きます。
「……まるで、かつての呉王のようじゃな」
孫堅の方では、その知らせを受けた時、拳を握りしめて天を仰いだといいます。
「呉夫人……そなたが、そこまでして我を選んでくれるとは……」
名門の反対を押し切ってまで手を取ってくれた女性の誇り高さと覚悟に、孫堅は心の底から胸を打たれました。そして、それと同時に――
「我は、決して軽薄ではないと証明してみせよう。この命をかけて、呉を、家を、そして彼女を守ると誓う」
その決意はやがて、彼を「江東の小覇王」と呼ばれる存在へと導いていくのです。
呉夫人の目に映ったのは、粗野な成り上がり者ではありませんでした。
誰よりも真っ直ぐに義を貫き、理不尽と戦い続ける、一人の誇り高き男の姿でした。
174年:後漢 熹平3年
夕陽が銭唐の町を金と紅に染め上げていました。その色彩の中、呉氏邸には人々が続々と集まり、祭のような賑わいに包まれていました。その日――才色兼備と称えられた呉家の娘が、ついに輿入れを果たすのです。
「ご覧なさい、あれが孫堅殿だ」
「まぁ……なんと立派なお姿……」
街の人々がざわめきます。
深紅の礼服を纏い、堂々とした姿で先頭に立つのは、若き英傑・孫堅。風に揺れる衣はまるで紅蓮の焔のようで、その眼差しはまっすぐに花嫁を迎え入れる未来を見据えていました。
続いて現れたのは、錦の衣をまとい、黒髪を美しく結い上げた花嫁・呉夫人。美しい輿に乗り、静かに進むその姿は、まさに銭唐の誇りでした。
屋敷の中庭では、すでに親族と友人たちが列を成して待ち構えていました。仲人が祝詞を唱え、神前にて二人が向かい合います。
「これより、孫堅殿と呉氏の娘、夫婦の契りを交わしまする――」
孫堅が杯を掲げ、ゆっくりと呉夫人の唇にそれを差し出します。呉夫人はそれを静かに受け、微笑みながら杯を返します。
「我らが運命、今日この日より一つとなりましょう」
孫堅の声に、呉夫人はしっかりと頷きました。
「何があろうとも、共に参りましょう」
篝火が夜空を照らし、宴が始まります。太鼓が鳴り、笛が舞い、華やかな歌声が響き渡りました。酒が注がれ、人々の笑顔が絶えません。
その夜は、まるで時すら酔いしれるかのように、美しく、永遠に記憶される夜となりました。
西暦175年:後漢 熹平4年
そして、結婚から一年後――。
「……おぎゃあ……!」
産声が屋敷に響きます。孫堅は喜びのあまり、外に飛び出して天を仰ぎました。
「我が子か……これが、策か……!」
その腕に抱かれていたのは、後に「小覇王」と呼ばれることになる長男・孫策です。
少し後の話になりますが、孫策に続いて孫権、孫翊、孫匡。そして末娘・孫尚香が生まれ、孫家はますますにぎやかになっていきました。
呉夫人は賢母として一家を支え、孫堅は役人として頭角を現し、家族に囲まれた穏やかな日々を過ごしていきます。
しかし――。それは、嵐の前の静けさにすぎませんでした。
時代は動乱の中にありました。漢王朝は乱れ、黄巾の乱が各地で勃発。人の心が荒れ、剣が正義を決める時代が幕を開けようとしていたのです。
「堅様……どうか、お気をつけて」
ある日、旅立ちの支度をする孫堅の背に、呉夫人がそっと手を添えました。
「心配は要らぬ」
孫堅は笑みを浮かべながらも、目に燃える決意を隠しませんでした。
「我は、ただ家族を、民を、そしてこの世の義を守るために戦うのだ」
彼は背を向け、ゆっくりと歩み出しました。その歩みは、やがて乱世の歴史を塗り替えるものとなっていくのです。
めでたしめでたしとは言えません。
けれども、確かにあの日、夕焼けに染まった銭唐の空の下で、ひとつの希望が生まれたのでした。
184年:光和7年
時代は、静かに、しかし確実に崩れていこうとしていました。
後漢王朝の末期。
かつて栄華を誇った帝国の屋台骨は、腐りかけた柱のように軋みを上げていたのです。
「税は重くなるばかりだ……」
「病に倒れても、薬すら手に入らぬ……」
人々の呻きが街に満ち、希望は影を潜めていました。
そんな混迷の世に、ひとりの男が現れます。
その名は――張角。
「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし」
張角は、太平道という宗教を掲げ、民の前に立ちました。
「病を癒やし、苦しむ者を救おう」
「我らの手で、正しき世を取り戻すのだ!」
その言葉に、民は縋るように耳を傾けました。
そして、やがて彼の下に多くの信徒が集まり、軍となって蜂起します。
黄色い布を頭に巻いたその軍勢こそ――黄巾軍。
これが、後に「黄巾の乱」と呼ばれる、歴史的な大反乱の始まりでした。
――西暦一八四年。
「孫堅殿、出陣の命が下りました」
命を受けた孫堅は、静かに頷きました。
その顔には、戦の覚悟と、家族への想いが滲んでいます。
「……ついに、この時が来たか」
屋敷の庭先。
呉夫人は、まだ幼い孫策を抱き、夫の背を見つめていました。
「あなた……どうか、無事にお帰りください」
「必ず戻ります。必ず――我が家族の元へ」
孫堅は、幼子の頭を優しく撫で、妻の手を強く握りました。
そして、静かに馬へと跨がります。
その目はすでに、戦火の向こうを見据えていました。
184年:光和7年
黄巾軍は、村を焼き、役所を襲い、各地に混乱を撒いていました。
孫堅の軍勢は、それに立ち向かいます。
砂塵を巻き上げ、槍と剣が火花を散らします。
「我に続け! 一兵も退くな!」
孫堅の声が戦場に轟きました。
その姿はまさに、先陣を駆ける雷鳴のようです。
敵兵の矛を受け止め、振るわれる剣でなぎ倒します。
一太刀、二太刀――道を切り開き、先へ先へと突き進みました。
「孫堅将軍が来たぞ!」
「ぐっ、なんという猛将……!」
黄巾軍は混乱し、総崩れになります。
孫堅の武勇は味方を鼓舞し、敵を震えさせました。
一方その頃――。
呉夫人と子どもたちは、孫堅の任務の関係で、寿春に身を移して暮らしていました。
「……お父様は、どこへ行かれたの?」
幼い孫策が尋ねます。
呉夫人は静かに微笑みながら、息子の頭を撫でました。
「遠いところで、お国を守るお仕事をしていらっしゃるのです」
「……じゃあ、ぼくも、つよくなる。お父様みたいに!」
その言葉に、呉夫人はしばらく目を伏せ、そっと空を見上げました。
そこには、まばゆく沈む夕陽――かつて結婚の契りを交わした、あの紅の空が広がっていたのです。
184年:光和7年
ちなみに、後漢時代の寿春は、中国における政治・軍事・交通の要所の一つであり、特に淮南地方の中心として重要な役割を担っていました。
現在の中国安徽省寿県にあたります。
長江の北、淮河流域に位置しており、水陸交通の要衝でした。
寿春は、淮河流域の肥沃な土地に位置しており、農業が盛んな地域でした。この地では、小麦、大豆、米、あわなどの穀物が豊富に生産されていたと考えられています。特に大豆を用いた発酵食品、例えば「醤」や味噌などは、貴族層にも広く好まれていました。
また、淮河の流域に広がる豊かな自然環境は、魚介類の宝庫でもありました。淮水は淡水魚が豊富で、鯉、鮒、ナマズ類、スッポンなどが名物として知られていました。これらの魚は、煮魚や蒸し魚、塩漬け、さらには発酵させて「魚醤」を作るなど、さまざまな形で加工され、食卓に並べられました。
さらに、寿春の周辺は湿地帯が広がっており、カモ、ガン、雉などの野禽も豊富に獲れました。これらの野禽は、上等なご馳走として貴族の食卓に上ることが多く、その味は格別とされていました。
また、寿春の地形は山地と湿地が交じり合っており、薬草が多く採れる場所でもありました。香りの強い葱、生姜、紫蘇、山椒などは、肉料理の臭みを消すためや、薬味として非常に重宝されました。
さらに、酒造りも盛んで、特に米を使った濁り酒が一般的に飲まれていました。これに加え、高級酒として「醴」や「漿」という蜜酒や果実酒風のものも、貴族や上級層に好まれていました。




