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呉視点三国志:孫堅の章⑩

192年:初平三年

 襄陽じょうようの地は、重苦しい沈黙に包まれておりました。孫堅そんけん将軍は、幾度もの激戦を乗り越え、ついに宿敵・劉表りゅうひょうの堅固な城を、その眼前に捉えておりました。

 その日――空は厚い鉛色の雲に覆われ、戦場には容赦ない冷たい風が吹き荒れておりました。騎馬の上から、ひときわ焦燥の色を帯びた声が響きました。

「父上、どうか私をお供させてください!」

声を上げたのは、まだ十五の若武者、孫策そんさくでございます。

 孫堅そんけんは、愛馬をゆっくりと止め、振り返り、成長した息子の顔をじっと見つめました。その厳めしい眼差しには、父としての深い誇りと、同時に、まだ若き息子を危険な戦場に立たせることへの激しい葛藤が、複雑に揺らめいておりました。

さくよ。お前はまだ若い身だ。だが、その燃えるような心意気、父はしかと見届けたぞ。ならば後陣に控え、この戦の行く末を、その目でしっかりと見定めるが良い。決して無理はするな。約束できるな?」

 孫策そんさくは、その父の言葉に、若々しい決意を込めて力強く応えました。

「はっ、父上のご命令、確かに承知いたしました。必ずや、父上のお力となってみせます!」

 その父子のやり取りを、静かに見守っていたのは、老練の将・程普ていふと、数々の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の勇士・黄蓋こうがいでございます。

「若殿も、すっかりとたくましい男の顔つきになられましたな」

程普ていふは、目を細め、感慨深げに呟きました。

「孫家の血は、やはり熱い。もし将軍に万が一のことがあれば、あのお方が必ずや孫家を支える柱となられるでしょう」

黄蓋こうがいもまた、深く頷き、その言葉に同意の意を示しておりました。

 その時――進軍中の険しい崖道に差し掛かったその瞬間、前方より、息を切らせた偵察の兵が、馬を飛ばして戻ってまいりました。

「ご報告!敵軍、目立った動きはなし!この先の崖道も、一応、通行は可能とのことです!」

 孫堅そんけんは、愛用の剣の柄を強く握り締め、凛とした威厳のある声で、周囲の将兵に命じました。

「よし、全軍、進む!この戦、必ずや我が手で終わらせてみせる!」

 しかし――その偵察兵の言葉とは裏腹に、その崖道こそが、狡猾な将・呂公りょこうが周到に仕掛けた、恐るべき罠の入り口でございました。

 孫堅そんけんを先頭とする軍勢が足を踏み入れたその瞬間。

 突如、大地を揺るがすような、轟音が戦場に響き渡ります!崖の上より、信じられないほど巨大な岩が、まるで意思を持つかのように、ごろごろと音を立てながら転がり落ち、進軍していた前衛の兵士たちを、容赦なく押し潰してゆきます!

「伏兵だ!全軍、すぐに退がれ!崖の上を警戒しろ!」

黄蓋こうがいが、いち早く異変に気づき、必死の形相で叫び、瞬時に剣を抜き放ち、身を挺して前に出ようとしました。

 しかし、その混乱に乗じるかのように、追い打ちをかけるように、空を覆い隠すほどの凄まじい矢の雨が、孫堅軍を襲い掛かります。それは、まるで死神の冷たい吐息のように、鋭く、重く、そして正確に、次々と兵士たちの体を貫いていきます。その無数の矢の中の一本が、ついに、勇猛なる孫堅そんけん将軍の堅牢な鎧を、無情にも突き破りました。

「うっ……!」

深々と胸を射抜かれ、孫堅そんけんは、愛馬から力なく落ち、地面に膝をつきました。

 それでもなお、英雄は、愛刀を地面に突き立て、それを支えにして、苦悶の表情を浮かべながらも顔を上げました。

「まだ……まだ、この孫堅は……こんなところで、死ぬわけにはいかぬ……!」

 その時、崖の上から、待ち構えていた呂公りょこうが、勝利を確信したかのような冷笑を浮かべ、高らかに叫びました。

孫堅そんけん!貴様の自慢の強さなど、この地の無慈悲な岩には、全く敵わぬと知れ!」

 その憎らしい声が聞こえた瞬間、若き孫策そんさくは、悲痛な叫び声を上げ、愛馬に鞭を打ち、父の元へ駆け出そうとしました。

「父上ェェェェッ!!」

しかし、その時、老将・程普ていふが、冷静な判断で、孫策そんさくの馬の手綱を力強く引き止めました。

「若殿、なりません!それが、先ほど将軍がおっしゃられたご命令です!」

「放せ!程普ていふ殿!父上を見殺しにするなど、私には断じてできませぬッ!!」

孫策そんさくの若い瞳には、抑えきれない怒りと、溢れ出る涙が、激しく入り混じっておりました。

その様子を見た黄蓋こうがいが、冷静さを保ちながら、しかしその声には深い悲しみを込めて、孫策そんさくに諭しました。

「若殿、今は退くのです。将軍のご遺志を無駄になさってはなりません。我らがここで命を落としてしまっては、孫家の灯が、完全に消えてしまうのです!」

 孫策そんさくは、激しく震える唇を、ぐっと噛み締めました。そして、絞り出すような声で、決意を表明しました。

「……わかりました。必ず、生き延びて、父上の……父上のご遺志を、この孫策が、必ずや継ぎます……!」

 その時、孫賁そんふんが慌てて駆け寄り、鮮血に染まった孫堅そんけんの巨体を、震える腕で抱きとめました。

「叔父上……どうか……どうか、安らかにお眠りください……」

 遠のく意識の中、孫堅そんけんは、かすれた声で、最後の力を振り絞り、一言だけ呟きました。

「わが……志は……」

そして、偉大な英雄は、静かに、その巨躯を大地に横たえたのでございます。



192年:初平三年

 厚い雲の切れ間から、一筋の光が、まるで天からの慈悲のように差し込み、英雄・孫堅そんけんの壮絶な最期を、静かに照らしておりました。激しかった戦場の喧噪は、まるでその死を深く悼むかのように、しばしの間、静まり返ったのでございます。

 その後、孫賁そんふんは、涙ながらに兵を指揮し、無念の思いを胸に、戦場からの離脱を開始いたしました。孫策そんさくは、ただ無言で、動かなくなった父の亡骸を、いつまでも、いつまでも見つめ続けておりました。程普ていふ黄蓋こうがいは、悲しみに打ちひしがれる若き主君を、両側からそっと支えるように寄り添い、深々と頭を垂れたのでございます。

 その日、孫家の未来は、深く、そして悲しく刻まれたのです。しかし、父の遺志を固く胸に抱き、若き獅子・孫策そんさくは、静かに、しかし確かに、その瞳に新たな決意の炎を燃やし、目覚めようとしておりました。

襄陽じょうようの空は、深く、どこまでも陰鬱いんうつな灰色に染まり、まるで天地までもが、英雄の死をいたんでいるかのようでございました。孫堅そんけん将軍が、壮烈な最期を遂げられたという悲報は、雷鳴のごとく瞬く間に軍中に広がり、勇敢な兵士たちは、その場で膝をつき、堪えきれぬ涙とともに、声を上げて慟哭どうこくいたしました。

しかし――その深い悲しみと混乱の渦の中にあって、一人の若武者が、凛とした気概をみなぎらせ、毅然きぜんと立ち上がりました。

「諸君!将軍は、我らに最後まで決して背を見せられなかった!ならば我らもまた、この苦難の時、この軍を、決して見捨てるわけにはいかぬ!」声を上げたのは、孫堅そんけん将軍のおいであり、かねてより将軍の側近として、幾多の戦場を共に駆け抜けてきた、孫賁そんふんでございます。

その力強い言葉は、血と泥に染まった悲しみの戦場に、力強くこだましました。その声は、深い悲しみに打ちひしがれ、おびえていた兵たちの凍てついた心に、再び熱い勇気の炎を灯したのです。老将・程普ていふは、静かに目を細め、孫賁そんふんの堂々とした姿を見つめながら、深く頷きました。「賁殿ふんどの……その揺るぎない胆力、まさしく孫家の血脈、しかと受け継いでおられますな。われら一同、賁殿の御下おもとに従いましょうぞ」歴戦の勇士・黄蓋こうがいもまた、その言葉に呼応するように、地にしっかりと槍を突き立て、力強く頷きました。

孫堅そんけん将軍は、確かに討たれてしまわれた。しかし、将軍の燃やした熱き志まで、ここでついえるわけではない。今こそ、我らがその聖なる炎を、しっかりと繋ぎ、未来へと受け継ぐ時なのだ!」

こうして孫賁そんふんは、深甚なる悲しみを堪え、叔父・孫堅そんけんの冷たくなった御遺体を、丁重に棺に収容し、程普ていふ黄蓋こうがいら忠臣たちと共に、悲しみに暮れる軍を毅然と統率し、無念の襄陽じょうようの地を後にいたしました。

故郷への帰還の道中、疲弊した兵士たちは、堪えきれない涙を袖で拭いながら、将軍の棺の周りを固く守っておりました。

「叔父上……どうか、安らかにお眠りください。必ず、この孫賁の身をって、あなたの託された熱き志を、未来へと繋いでみせます……」

その言葉を、一人、静かに噛みしめる孫賁そんふんの瞳の奥には、幼い頃、戦場で見た叔父・孫堅そんけんの、勇猛果敢な雄姿が、鮮やかによみがえっていたと申します。

 やがて、一行は、孫家のかつての故郷へと辿り着きました。葬儀の場には、最愛の父を失った孫策そんさくをはじめ、親族や、孫堅そんけんに厚い忠義を誓った旧臣たちが集まり、荘厳でありながらも、涙に濡れた悲しみに満ちた儀式が、厳粛に執り行われました。

 父の棺の前に進み出た孫策そんさくは、深く、深く頭を垂れ、その若き胸に、亡き父への熱い誓いを刻みました。

「父上……この孫策、必ずや父上のご無念を晴らし、その志を、この世に示してみせます!」

それに続いて、孫賁そんふんもまた、父の棺の前に進み出、力強い声で誓いました。

「叔父上の魂は、決してち果てることなく、確かに、我ら一族の胸に生き続けております。この孫賁、この命尽きるその日まで、孫家の誇りの旗を、決して降ろすことなく、掲げ続けましょうぞ!」

 その誓いは、まるで一族の未来を切り拓く、鋭く尖った槍のように、真っすぐで、そして重く、その場にいた全ての人々の心に深く響いたのでございます。

 その後、孫賁そんふんは、亡き叔父・孫堅そんけんが生前、厚い信頼を寄せていた袁術えんじゅつのもとに身を寄せ、疲弊した軍の再建と、勢力の調整に尽力いたしました。袁術えんじゅつは、表面的には英雄を敬うような態度を示しておりましたが、その実、その内には、日に日に傲慢ごうまんで独善的な本性が、顕著に現れてくるのでございました。



194年:興平元年

――そして、数年の歳月が流れました。

 若き獅子・孫策そんさくが、ついに袁術えんじゅつ庇護ひご下を離れ、自らの足で独立の道を歩もうとしたその時、誰よりも早く、そのもとへ駆けつけたのも、また、孫賁そんふんでございました。

「策様。あなたの瞳の奥には、叔父上の燃やされた、あの熱い炎が、確かに宿っていました。この孫賁の身、いま一度、孫家の誇りの旗の下に、お供させていただきます!」

 孫策そんさくは、その熱い言葉に、熱いものが込み上げてくるのを堪えながら、力強く頷きました。

賁兄ふんけい……ありがとうございます!これより先は、共に手を取り合い、たとえ修羅の道となろうとも、共に歩みましょうぞ!」

 こうして孫賁そんふんは、敬愛する叔父・孫堅そんけんの遺志をしっかりと受け継ぎ、従弟・孫策そんさくの天下取りという壮大な創業を、誰よりも頼りになる柱の一人として、幾多の激しい戦を、共に勇敢に戦い抜くのでございます。

 長江ちょうこうの雄大な流れのように――英雄・孫堅そんけんの不屈の魂は、甥・孫賁そんふんの忠義、そして嫡男・孫策そんさくの野望、そして彼らを取り巻く忠臣たちの熱い想いの中に、脈々と、確かに息づいていたのです。

 将軍の死は、味方の兵たちに深い悲しみと衝撃を与えました。しかし、その悲しみを乗り越え、将軍の甥である孫賁殿が、遺された軍団をしっかりと引き継ぎ、袁術殿の傘下へと身を寄せたのです。

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