第3話 実家
女子高生生活3日目。
3日続けて、起きがけにほっぺたをつねってみたが、やっぱり痛いだけで、元の世界の元の自分には戻ることはできなかった。
自分はそんなに頭が良くない。
おまけに野球ばかりで勉強はろくにしてこなかった。
アメリカで10年以上生活をしていたから、ちょっと英語はできるけれど、時間を移動したり、他人の身体にのりうつる方法なんか分かるわけがない。
果たしてどうすれば元の世界の元の自分に戻れるのか。
昨日、ソフトボールの大会から帰宅したあと、ネットでいろいろそれっぽいワードを検索してみたが、望むような情報は得られなかった。
そもそも何をどう検索すればいいのか自体分からなくて、途中から、目を覚ます方法をずっと検索してしまったから、まだネットの情報の海に元の世界の元の自分に戻るヒントが隠されている可能性は捨てきれない。
……そう思わなければやってられない。
それで、昨晩は目を覚ますため、コーヒーをがぶ飲みしたり、氷水を入れた洗面器にあた頭を入れるなど、ネットで検索した目を覚ます方法を実際いろいろ試してみたが、ただ疲れるだけで、ちょっと休もうと枕に頭をのせた瞬間に眠ってしまった。
体力的にも精神的にもかなり疲れていたんだと思う。
おかげで、たくさん眠ったもんだから、目覚めもはすっきりしている。
それこそ、ほっぺたをつねる必要なんかないくらいに。
まあ、ただいま夏休み中みたいだし。
昨日の大会で、高校の部活は実質的に終了みたいだし。
美保留は、アイドル一本に進路を絞っているから、大学受験のために勉強をする予定もないし。
それに、アルバイトもやってないみたいだし。
アイドルオーディションを除けば、あとは自分の好きなように時間を使っていいみたいだ。
だから、昨日に引き続き、元の世界の元の自分に戻るために、何かしなくちゃいけないんだけれど、何をしよう……。
待てよ、元の自分に戻る必要ってあるか?
戻ったところで、無職だし、ろくなキャリアもないし、おまけに身体はボロボロだ。
順調に職に就いたところで、自分が野球を続けてきたことによって家族にかけた分の迷惑をチャラにするほどの恩返しなんかできないだろう。
それより、アイドルになれてしまうほどの容姿と、キャリアを一から築いていけるこの身体のほうが、アイドルになれなかったとしても、元の世界の元の自分に戻るよりは条件的に恵まれている。
だけど、そんなに簡単に気持ちを切り替えることができたら苦労はない。
無理でも一度決めたことはやり遂げたいと思ってしまうのが自分なのだ。
だから、結局、野球ができなくなるまで、野球を続けてしまった。
それに、たとえ無理だしても、恩返しする姿勢もみせずに逃げるだなんて、プライドが許さないのだ。
あっ、そういば、この世界の自分の家族ってどうしてるんだろう。
そもそもこの世界に、七地有敏は存在しているのだろうか?
この世界の自分と家族のことが気になって、実家の歯医者へ行くことを決めたまではよかったが、美保留の財布には、千円札一枚と、百円玉が数枚だけしか入っていなかった。
仕方なく、美子さんに歯医者に行きたい事情を説明してお小遣いをもらった。
「あんた、虫歯になったこともないし、歯並びも悪くないのに、なんで歯医者に?」
と、怪訝な顔をされたが。
「歯石の除去です」と苦し紛れに話したたら、「芸能人は歯が命だもんね」と嫌味ったらしく笑いながらも、気前よく一万円札を一枚くれた。
歯石の除去に一万円は気前がよすぎだよ美子さん。
美子さんには、歯石の除去が美保留にとってオーディションの合格にかかりそうなことだったのに加え、普段の美保留では考えられないほど礼儀正しい態度で自分にお願いしてきたことが好印象だったようだ。
母親とはいえ、馴染みのない人物からお金を無心するんだ。
礼儀正しくするのは最低限の条件だろ。
そして、美子さんは「あんた本気なんだね」と言って、すごく応援しているぞといった感じで肩を思いっきりたたいてきた。
おまけに家を出ていくときサムアップまでしていた。
結果的には思っていた以上に上手くいったが、上手くいきすぎて、なんか美子さんに申し訳ない気持ちになってしまった。
予約もしていないのに、七地歯科クリニックには、とくに何のちゅうちょもなく入ることができた。
実感に対する信頼感のなせるわざである。
うちの家族みんな人一倍お人好しだし、客を無下に扱うことはない。
それに、いまお世話になっている渡田部家よりもこちらのほうが馴染みは深い。
体感でいえば、4日前までこの家にいた感じだし。
受付窓口にいた妹の七地志織は、実に丁寧に対応してくれた。
他人行儀で寂しくはあったが、志織の接客を体験できたことは兄として嬉しかった。
志織は七つ下の妹で、高校を卒業してからずっとアメリカで過ごしていたせいで、妹が成長していく姿をほとんど知らない。
野球がダメになって帰ってきたら、小学5年生だった妹は、すっかり大人の女性になって働き、まだ若いのに、七地歯科クリニックのを継続するために歯医者の婿を求め必死になって婚活をしていた。
そして、家に連れきたのが父親と一回りも歳が違わない、何を考えているのか分からないハゲ頭のおじさんだった……。
志織が一生懸命になって決めたこととはいえ、無性に悲しくて、腹が立った。
自分のせいで、志織を生き急がせて、可能性をつぶしてしまったような気がしたのだ。
「お兄ちゃんはやりたいことやったでしょ。私のやりたいことくらい応援してよ」
あの夜、職安に飛び出す前に、すっかりきつくなった顔で志織に泣きがら言われた言葉が頭をよぎった。
それに比べ、いま目の前にいる高校生の志織は、とてもはつらつとした雰囲気で、柔和な表情をしていた。
受付が終わり、待合室へ行くと、壁には、地有敏の野球での活躍を報せる新聞や野球雑誌の切り抜きやらが掲示されていた。
ゆっくち眺めながら自分の記憶を確かめているうちに、名前が呼ばれた。
当たり前かもしれないが。掲示物の内容は、すべて自分の記憶どおりだった。
急きょ、予約をキャンセルした人がいたおかげで、思ったよりも待たずにすんだ。
美保留の口腔衛生は極めて良好な状態で、歯石の除去の前に診察をしてくれた父の敏行にも、歯石の除去の施術をしてくれた母の早織にも、すごく褒められた。
父も母も、志織と同様、愛想がよくて、結局、愛想笑いとお礼しかできなかった。
話したい気持ちはもちろんあった。
けど、いまの自分は向こうにとっては、初対面の女子高生だ。
こちらの世界には、こちらの世界の七地有敏がきちんといる。
それなのに、自分があなたたちの息子ですと言ってどうなるんだ。
家族を困らせるだけだ。
とはいえ、こちらの世界の七地有敏の現在の動向が気になる。
会計を済ませたあと、勇気を出して志織に「あの、七地有敏さんはどうされているんですか」と尋ねた。
志織は、急な質問に驚いた顔をしたが、すぐににっこりほほ笑んで。
「えっ、はい。お兄ちゃん、高校を卒業した後はずっとアメリカで野球をしているんですよ。よくご存じですね」
「いや、結構、期待されていた選手だったんで動向が気になっていたんです」
「そうなんですか。お兄ちゃん、ほとんど連絡なんてして来ないし。まだニュースになるほど活躍もできていなくて。家族なんだけれど、実は知っていること全然ないんですよ」
アメリカにいる間は、必要最低限の連絡しか家族ととっていなかった。
しかも、自分が思う必要最低限。
「それにしても、渡田部さんは、わざわざ遠くからこの歯医者に来たみたいですけど。もしかして、お兄ちゃんの実家がこの歯医者だって知っていたからですか?」
まったく活躍していない野球選手の実家に、遠くからわざわざ訪ねてきたのだ。
それらしいことを言わないと、変態ストーカーに間違えられるかもしれないと思ったが。
そんな瞬時に機転が利く頭ではなく
「えっ、まあ」
と、志織の質問をそのまま肯定してしまった。
志織は、嬉しそうににっこり笑い。
「お兄ちゃんに、こんなアイドルよりも可愛いファンがいるなんて、すごい」と、言ってはしゃいだ。
どうやら、お人好しの志織は兄の変態ストーカーではなく、強烈なファンだと勘違いしてくれたようだった。
まあ、美保留の外見も味方してくれたと思う。
なんだかんだ外見は大事だ。
「これからも、お兄ちゃんの応援よろしくお願いします」
去り際に、志織はそう言って、こちらの両手を力強く握ってきた。
実家を訪ねて、事態を好転させるための何かを得ることはできなかった。
まあ、思い付きと勢いでの行動だったから、特別な期待があったわけでもないけれど。
この世界の七地有敏が自分が知っている七地有敏と同じであることを知ることができたし、家族の顔をみることができたのだから、気持ち的には十分得たものがあった。
知っているのが実在していることが実感できただけでも、ちょっとだけ、確かに心細さが和らいだ。
それにしても、志織があんなに自分がアメリカに渡ったことを肯定的に受け止めていたとは意外だった。
初対面のなんちゃってストーカー女子高生に兄の応援をお願いするなんて……。
嬉しかったけれど、こちらに来てから薄まっていた家族に対する罪悪感もよみがえってきた。
それで帰り道は、こちらの自分を野球選手として成功させる介入をできたりしないだろうかとか、それをしたところで、元の世界の元の家族に恩を返せないわけだから、やっぱりどうにかして、元の世界の元の自分に戻るべきだろうかなどと、延々と考えてしまった。
渡田部家に帰ると、郵便受けにアイドルオーディションの一次審査の通過を報せる書類が届いていた。
本来の美保留なら、多分オーディション通貨の喜びで次のオーディションのことで頭がいっぱいになるのだろうけれど、こちらは家族への罪滅ぼしのことで頭がいっぱいで、それどころではなかった。