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66. ひとかけらの不安

「正面を向いてくださいまし、次、右を向いて、左、右足を軸に一回転」

「…何をしているんです?」


 プリメーラの言うままに動いていると小屋でプリメーラの持ってきた書類を確認していたクライスが帰ってきた。


「お疲れさまです、クライスさん」

「早かったですわね」

「いえ、エドアルドが帰ってきたのと集中力がなくなってきたので休憩しにきました。姫様はまだ熱心に書類と向き合っておられます」


 ふぅ、と小さく溜息を吐いてクライスは肩に自分の手を置いてしんどそうに首をぽきぽきと鳴らした。


「クライスがこの短時間で珍しいですわね、面倒な案件でしたの?」

「後任を任せてきた者があまりに困ってこちらに意見を求めてきたものですからそれなりには。何より思いの外こちらでの穏やかな生活で頭が鈍っているようです。すみませんがプリメーラ、ギリギリまで日数もらえますか」

「そういう事でしたら帰城日はクライスの都合で構いませんわ、わたくしもカティアさんに貴族の事をお教えする事になりましたのでちょうど良いです」

「あぁ、それでそのような事を」


 そっか、プリメーラは仕事で来ているのだから、書類が整えば帰らなくてはならないのだ。すっかりエドアルドと一緒にいるものだと思いこんでしまっていた。


「すみません、プリメーラさんのお帰りになる予定の日までで構いませんので…」

「遠慮なさらないでくださいまし、わたくしが出来る限りお教えしたいのです。それに、旦那様といられる日が増えますしね」


 頬を淡く染めて微笑むプリメーラに釣られて私もクライスも自然と表情が緩んだ。


「ところでカティアさん、貴族の事を学ぶとは…」

「何も知らないと選択肢が狭まると思いまして…ほら、お酒の話とか指輪の話とか、習慣の違いが色々あったじゃないですか。今後の事はまだわかりませんけど、私も何かしておきたかったんです」

「…無理は、しないでくださいね」

「大丈夫です。それに、クライスさん達の過ごしてきた世界を知れるのは楽しいです」


 そう返すと、クライスは一瞬驚いたような顔をしたがすぐに優しく微笑んでくれた。そしてそのまま私の正面に立ち何故かお辞儀をされ手を取られた。


「ク、クライスさん?」


 突然の事に驚いて動けずにいるとそのまま手の甲に顔を寄せられ、口付けをされた。


「貴女のその考え方にはいつも驚かされますが、心より尊敬いたします」

「え…と」

「カティアさん、貴族男性にそのようにされたら微笑んで感謝を伝えるのですわ」

「え?!あ、ありがとう、ございます…?」

「…くっ、はは…カティアさん、何故疑問形なんですか…顔も真っ赤ですよ」


 プリメーラに言われるように答えたのに、クライスは吹き出したと思えばお腹を抱えて笑っているし、プリメーラも口元に手を当てて微笑んでいるがどこか堪えているように見える。オーウェンなんて顔を背けてこちらを見ようともしない。


「…からかいましたね?」

「いえ、そんなつもりはなく…カティアさんの勉強にお付き合いさせていただこうかと思っただけなのですが」

「ふふ、カティアさん、これは男性から女性への社交挨拶ですから、照れてしまっては駄目ですわ」

「挨拶って…みなさん恥ずかしくないんですか…?」


 手に口付けされたままこちらを見上げるような目で見つめられて、恥ずかしくならない方がおかしいと思う。


「確かに、わたくしも旦那様にされたら見惚れて赤くなってしまうかもしれませんわね。オーウェン、お願いできるかしら」

「私は貴族ではありませんが…クライス様、よろしいのですか」

「カティアさんの練習になるのでしたら構いませんよ」


 クライスの許しを得て、プリメーラの後ろに控えていたオーウェンが私の前へと移動してきた。先程のクライスと同様に腰を屈め、手を取られる。ゆっくりとその手をオーウェンの顔の方へと移動させられ、息が触れるような距離になった時点で耐えられなくなった。


「だっダメです!!」


 たまらなくなって思わず手を引き抜きもう片方の手で守るように抱えてしまった。だって、いくら挨拶のつもりとはいえ、私にとっては口付けに変わりはないのだ。お互い何とも思っていない相手と、手の甲とはいえ口付けをするのもされるのも駄目だと思ってしまう。


「ごめんなさい…これはどうしても必要になった時まで保留にさせてください!」

「あらあら、そんなに泣きそうな顔をなさらないでくださいまし。大丈夫ですわ、クライスが乗り気でしたので進めましたが、そこまで必要なものではありませんのよ」

「そうなんですか?良かった…」


 貴族の世界、思った以上に厳しい。


「オーウェンさんもすみません…あの、オーウェンさんが嫌というわけではなくて」

「クライス様でないとお嫌という事ですよね。お気になさらず」

「私も悪乗りしてすみませんでした。そこまでカティアさんを追い詰めるとは思わず…」

「いえ、意識の差を知れたので良かったです」


 この差を縮められるかはちょっと…だいぶ不安だけれど。


「大丈夫ですわ、カティアさん。貴族と平民の差で一番矯正が難しいのは姿勢と言葉遣い、清潔感と食事作法と言われています。カティアさんはお仕事柄か体幹もしっかりされてますし、その他もきちんとされていますから、あとは知識を頭に入れていけば問題なく貴族の生活も送れますわ」

「そう…なんですか?」


 なるほど、先程プリメーラの指示で体を動かしていたのは姿勢を見る為のものだったらしい。言葉遣いはお客様に向けて失礼のないように、と厳しく躾けられたからだろう。清潔感も食事作法も今当たり前のようにしているものを変えろと言われたら難しいだろうから、プリメーラの言葉に安心した。


「私もその点はまったく問題ないと思っています。接客業だからか、お祖母様の教育が素晴らしいものだったのでしょうね」

「クライスは仕事上お作法に厳しくないといけませんから、クライスのお墨付きがもらえたなら自信をお持ちくださいまし」


 2人ににこりと微笑まれながらそう言われて、少しだけ肩の力が抜けた。


「なんだ、こっちも難しい話をしてるのか?」

「あら、クライスは休憩に戻ったのではなかったですか?」


 エドアルドとサリタニアも戻ってきた。プリメーラ以外が立ったまま話しているのを見て、真面目な話をしているように見えたようだ。


「真剣な話ではありますが、悪い内容ではないですよ。カティアさんが我々の生活様式を学んでくださるそうですから、そのお話を少しばかりしていただけです」

「まぁ、カティアは本当に努力家ですね。わたくしも頑張らないと」


 あれ、少し元気がないだろうか。


「ターニャ、どうかしましたか?」

「え?」

「声が少し元気ないようです」

「あら…出てしまっていたでしょうか。旅の事を書類にまとめておりましたら、自分の力不足ぶりがはっきりと見えてしまって反省していたところです」


 眉を下げて落ち込んでいるのを誤魔化すように笑う様に胸が痛くなる。


「ターニャは十分に寄り添ってくださってますよ。それだけできっと村の人達も嬉しいはずです」


 国がこの辺りを気にかけてくれるようになっただけでなく、第一王女自ら問題に向き合ってくれているだなんて、村の人達が知ったら驚くだろう。そしてこの真摯に向き合うサリタニアの姿を見れば、戸惑いはするかもしれないけれど、みんな少なからず喜んでくれると思う。


「ありがとう、カティア」


 そう言ってにこりと笑ってはくれたものの、私の言葉はサリタニアの気持ちを明るくするのには到底足りないようだ。何か元気が出るものはないだろうか、と考えて、良い事を思い出した。


「ターニャ、祖母から教わったとっておきの元気の出るお茶を飲みませんか?」

「元気の出るお茶ですか?」

「はい、好き嫌いはあるらしいのですが、スパイスと蜂蜜を入れた紅茶です」


 蜂蜜は高級品だし、スパイスに少しクセがあって飲み慣れていないと美味しく感じないようなので宿では出していないけれど、体が温まってほっとする飲み物なのだ。


「わたくしそれ大好きです!」

「まぁ、わたくしもです。よければ一緒に頂いてもよろしいかしら」


 2人のその様子に心がざわりとした。気づいてはいけないと頭のどこかで無意識に逃げていた疑問が急激にはっきりと形を成していく。祖母がこのお茶を淹れてくれ、私が気に入ったのを見て言ったのだ。幼い頃だったけれど何故だかよく覚えている。“この辺りでは飲み慣れていない人が多いから”私達だけのとっておきにしよう、と。


「もちろんです、皆さんの分も淹れてきますので、全員で休憩にしましよう」


 顔に出してはいけないと必死に頭を冷静にさせてそう言うと、みんな嬉しそうに頷いた。誰かからはどんな味かと訊かれないかと少しだけ期待したけれど、クライスもエドアルドも、貴族ではないというオーウェンすら飲んだ事があるらしい。


 私は心が揺らいでいることを気付かれないようにキッチンへと逃げるように入り、不安な心を振り払うように一度頭を振ってポットを火にかけた。


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