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57. 相思

 ついさっきまで頭の中がぐちゃぐちゃだったのに、夢の中で歩いているようなふわふわとした感覚だった。今自分の身に起こった事がにわかには信じがたいが、目の前で耳を紅くしながらいつも以上に優しく微笑んで私を見つめてくれているアメジストの瞳と左手の透明な水晶の指輪が現実なのだと言っていた。


 自分の気持ちに気づいてからずっと言葉に出来なかった想いを今なら声に出しても許されるのだと気付いて、感じたことがないくらいに温かいもので満たされながら口を開いた。


「私も、クライスさんが大好きです」


 目の前のアメジストが一瞬大きく開かれたと思うと、次の瞬間には視界が彼の顔で埋められ、唇に柔らかくて温かいものが触れた。突然の事に何も出来ずにいると、クライスは触れていた唇を離してすみません、と彼自身も少し驚いた顔をしながら呟いた。


「い、いえ、あの、嬉しい、です」


 驚いたけれど、私の言葉を受け止めてくれて、同じ気持ちを返してもらえているようで嬉しかった。それだけは伝えたくてその通り言葉にすると、信じられないくらいに幸せな気持ちで包まれた。


 クライスもしばらくの間何も言わずにいて何も話さずに時間が過ぎていったが、決して居心地の悪いものではなく、ゆっくりと夢を現実に定着させる為にあるような静かな時間だった。


「こほっ…」


 穏やかな時間に心地良く身を委ねていたのに、急に喉が張り付いたような感じがして小さな咳が出てしまった。たくさん泣いてしまったからだろうか、気付くと喉がカラカラになっていた。


「お茶を淹れましょうか」

「…すみません」

「いえ、私こそいつまでも動かずすみません。…何だか心地良くて」

「ふふ、私もです」


 同じ感覚でいた事が嬉しくて笑うと、目元と頬の涙が乾いて引きつるような感覚がした。


「…すみません、先に顔を洗っても良いですか?」


 シンクを先に使いたくてそう言うと、クライスは何とも申し訳なさそうな顔になった。


「すみません。そんな風に泣かせてしまって」

「そんな、クライスさんの所為じゃないです」

「それはそれで寂しいのですけれど」


 今度は眉を下げて困ったように笑った。そんな顔でそんな事を言われると否定出来なくなってしまう。


「う…クライスさんの所為ですけど、クライスさんは悪くない、ですから」

「はは、カティアさん、さっきよりも顔が真っ赤だ」

「もう、からかわないでください」


 真面目に答えたのに何だか自分だけが自惚れた事を言ってしまったようで、気恥ずかしくなって誤魔化すように顔を洗いタオルで覆った。冷たい水に触れたのにまだ顔は熱を持っていて、どのタイミングでタオルを外そうかと悩んでいると、ふと背中に温もりが触れ、前に回された手にタオルが奪われた。


「…すみません、少し…いえ、だいぶ浮かれているみたいです…」


 どきどきと胸はうるさいくらいに鳴っていて、それが伝わってしまうのが恥ずかしかったけれど、もっと近く感じたくて少しだけ後ろに寄りかかった。


「…カティアさん」


 ぎゅうと、回された腕に力が入り、私もそれに応えるように腕に手を添えた。


「…すごいですね、誰かに気持ちを向けてもらえると、背中もあったかくなるんですね」

「カティアさん?」

「…一人じゃ、あったかくなりません」


 背中の温もりがこんなに落ち着くものだなんて知らなかった。そしてそれは誰かの温もりがなければありえないことなのだと、今まで決して叶わなかった事なのだと気付いたら再び視界が滲んできてしまった。


「…そうですね、私も、こんなに人の温もりが心地良いなんて思った事ありませんでした」


 クライスの声もどことなく震えて聞こえる気がした。


「クライスさん、ありがとうございます」


 こんな気持ちを与えてくれるこの人に何を返す事が出来るだろうかと考えながら顔だけ振り返ると、ひどく優しい顔をしたクライスと目が合い、彼は少しの逡巡の後、ふ、と笑って額に優しい口付けをしてくれた。


 淹れてもらった紅茶の香りと喉を潤す優しい温かさに、あれだけ騒がしかった頭の中も心の中も少しずつ落ち着いてきた。クライスはどうだろうかとそちらを見ると、先程と同じように優しい顔でこちらを見つめていて、また少し胸がどきどきと騒ぎ出してしまった。


「カティアさんが思っている事が表情に出やすいのはわかってましたが、これは少し問題ですね」

「えっ…すみません、何かご迷惑をかけて…」

「いえ、その顔をエディやゲイル君に見せたくないなと思ってしまいまして」

「…ええと」


 その顔ってどんな顔だろう。そんなに人に見せられないような顔をしてしまっているのだろうか。


「すみません、私の我儘なのでカティアさんは悩まないでください」

「わがまま…」

「…思いの外、独占欲が強かった様です」

「どく…せん」


 手で半分顔を隠すようにそう言うクライスに、私もまた耳まで熱くなってしまった。今の表情なら鏡を見ないでもわかる。これは人に見せられるものじゃない。


「…カティアさん、ひとつ訊いても?」

「な、なんでしょう?」


 声がひっくり返ってしまった。恥ずかしくて思わず目を逸らすとクライスが小さく笑った声が聞こえて、不思議と私も気が楽になった。


「あの、無粋な事とは思うのですがどうしても気になってしまって。ゲイル君が、貴女との事は答えを出した、と言っていましたが…」


 言いにくそうに少し目を逸らしながらそう言うクライスに、そういえば指輪の話をしてくれた時もゲイルの名前が出ていたな、クライスはクライスでもどかしい思いをしてくれていたのだろうかと、申し訳ないと思いながらも少しくすぐったい気持ちになった。


「ゲイルと私は家族だったんです」

「…家族?」

「はい」


 予想していなかった言葉だったのか、クライスは不思議そうな顔をしてこてりと首を傾げた。何だかその様子が失礼ながら可愛らしいと思ってしまった。恋は盲目、と昔手伝いをお願いした街の子達が話していたのをふと思い出す。幸せな気持ちになると全てのものが今までと違って見えるのだろうか。自分の変化がおかしくてふふ、と小さく笑うと、クライスの首を更に傾けてしまったので、ゲイルが来てくれた夜に話した事を伝えた。


「…少し、安心しました」

「?」

「カティアさんがゲイル君ではなく私を選んでくれた事に対してももちろんですが、私が現れた事によって今まで大切に築き上げてきた二人の仲を壊してしまったんじゃないか、と少しだけ不安だったんです」


 そんな事まで考えてくれていたなんて。私があの時にゲイルとすれ違ったまま今までのように話せなくなったとしても、それはクライスを選んだからではなくて、ゲイルにきちんと向き合わなかった私の責任なのに。この人はどこまで優しいんだろう。


「でも、同時に少しだけ複雑ですね」

「複雑、ですか?」

「恋敵という同じ位置にいるならまだしも、家族という強みを手に入れたゲイル君には勝てそうにありません。ただでさえ彼は同性の私から見ても格好いいですから」


 私はゲイルを格好いいという括りに思った事はないのだけれど、クライスがそんな風にゲイルの事を褒めてくれるのはとても嬉しかった。


「ほら、カティアさん、すごく嬉しそうな顔をするでしょう?」

「あ…」


 すみません、と言いかけたところでクライスの少し意地悪そうな瞳に気づいて、これは揶揄われているのだろうと悟りちょっとだけクライスを睨むと、彼は優しく笑いながらすみません、と謝った。


「こんな会話を笑って出来るようになるなんて思ってませんでしたから。いけませんね、本当に、浮かれているみたいです」


 そう言いながら私を見る瞳は宝物を見るようにキラキラとした光を携えていて、そんな宝石のような瞳に見つめられた私は頭の中がじんとして、またふわふわとした、全てが柔らかなものに包まれているような感覚になった。


「私も…幸せな夢の中にいるような気持ちです」

「現実ですよ?」

「はい」

「明日起きても、忘れないでくださいね」

「…夢だったんじゃないかって不安になったら指輪を見ますね」

「大丈夫、指輪だけじゃなくて、何度でも言いますよ」


 クライスはそう言って私の左手をとり、指輪に優しく唇で触れた。


「カティアさん、愛しています」


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