56. 想い(クライスside)
自分は人に比べて冷静に動ける人間だと思っていた。頭の回転も早い方で、大抵の事はつつがなく対処出来ていた。だが今目の前でぽろぽろと涙を零し始めたカティアさんを目にして、頭も身体も動かせず、普段相手を思うように動かしている口も震えてうまく音を出す事が出来ずにいた。
「ごめんなさい、ちょっと、驚いただけです。顔、洗ってきますね」
そう言って走り去る彼女を止める事も追う事も出来ずに立ち尽くしている自分に驚く。こんなにも何も出来ない事なんてあるのかと。
「…クライス…ごめんなさい、わたくしひどく勘違いを…」
「いえ…プリメーラは何も悪くありません」
絞り出した自分の掠れた声の情けなさに絶望する。
「クライス…カティアさんが何故泣いていたのか、わかるよな?」
「エディ…」
「大丈夫だ、今は陛下からの命も忘れてとにかくお前の本心を話して来い。この誤解は放ったり誤魔化したら駄目だ」
「それは…そうだけど…」
どう誤解を解けば良いのか、そもそもエドアルドにわかるよな、と確かめられた事に対しての答えも合っているのだろうか。こんなにも先が見えなく、足元が崩れそうな感覚になるのは幼い時以来感じたことがなくて、恐怖からか頭と手足の指先が冷たくなるのがわかった。
「クライスさん」
ゲイル君の声にそちらを見ると、ひどくまっすぐな瞳を向けられた。そうだ、帰って来た時から彼とカティアさんの距離が近く思えて、ああやはりそういう事になったのか、と気落ちしていたのだ。けれどプリメーラの夫婦発言に異を唱える2人からはそのような雰囲気はなく、自分の勘違いだったのかと少しだけほっとしていた。その矢先のこの状況に頭も感情も全く追いついていない。
「俺達は俺達なりの答えを出したので気にしないで、カティアをよろしく頼みます」
彼と話していると自分がひどく小さな人間に思える事がある。自分がカティアさんの立場だったら確実にゲイル君を選ぶだろう。けれど、2人は別の答えを出したと言う。ゲイル君の目からはその場を収める為の嘘も、彼自身への誤魔化しも感じられなかった。
「クライス」
どんな言葉を返せば良いのかわからずに立ち尽くしていると、右手に温もりを感じた。そちらに目をやると、冷たくなった指先を温めるように小さな少女の手が自分の手を優しく包んでいる。
「わたくしは状況がよくわかっていないのですけれど、これだけは言えます。わたくしが世界で一番信頼しているクライスは、わたくしの大好きなカティアを泣かせたままにはしません。2人で仲良く帰ってくるのを待っていますよ」
「姫様…」
「大丈夫です、貴方なら出来ます。自信を持ちなさい」
手の温もりと優しさはそのままに、毅然とした表情でそう告げられ心の底に一握りの熱が生まれたようだった。
エドアルドは相変わらず兄のようにこんな自分を親身になって気にかけてくれ、支えなければと思っていた小さな少女にはいつの間にか支えられるようになっていた。恋敵と思い牽制するしかなかった彼女の大切な人には背中を押されている。情けないばかりなのは自分だけだ。
ふぅ、と目を瞑り心の中のもやもやと共に息を大きく吐いた。指先が暖まったおかげか体も動かせそうだ。
「…行ってまいります」
ゲイル君に小屋の鍵を持たされ、何をどうしたら良いかわからないままに宿を出て小屋へと向かうと、扉の前で肩を落とし、雨の中立ち尽くすカティアさんの姿が見えた。出会った時からしっかりしていて、強がりもあるけれど自分の力で立っていられるような人だったから、こんなにも彼女の背中が小さく見えたのは初めてだった。贈ったネックレスを気に入って常に身につけてくれているおかげで濡れてはいないが、風の冷たさは防げない。このままでは風邪をひいてしまう。
「体が冷えてしまいますよ」
どう声をかけたら良いかなどという迷いは彼女への心配で消えてしまった。とにかくこの雨から守りたくて、ビクリと震える肩を見て罪悪感に苛まれながらも、扉のノブを強く掴んで白くなっている彼女の手に触れた。思ったとおり驚いて引かれた手に申し訳ないと思ったのか避けられたようで悲しいのか胸がチクリと痛んだが、優先すべきは扉を開ける事と自分を無理やり鼓舞して鍵を開けた。
「とりあえず中に入りましょうか」
返事はないが、緩慢な動きではあるが中へと入ってくれた。帰って来た時よりも雨は強まっていて、扉を閉めざるを得ない。ぱたんという扉が閉まる音にカティアさんがビクリと跳ねて全身を更に硬くさせるのが見ていてわかった。
「……その、」
沈黙の時間が長くなる事で彼女を苦しませたくなくて何とか震えずに声を絞り出したが何をどう言葉にしたら良いのだろうか。
「あの、私、は…いや、プリメーラの言った事は…」
曖昧で迷いの色を持った話し方は相手を不安にさせるからと、避けるように自ら実行してきたし姫様にも再三伝えて来たことだがなんて有様だろう。
「…すみません、何と言ったら良いのか」
カティアさんに渡した指輪の意味を話してしまって良いのだろうか、彼女が今泣いている意味を訊いても良いのだろうか、でも、私にはまだ話せない事がある。それを隠しながら彼女を安心させる言葉を紡げるだろうか。不甲斐なさに謝ることしか出来ない私の声にカティアさんが後ろ姿のまま静かに整えるように息を吸ったのがわかった。
「……クライスさんが、謝る事はないです」
語尾を震わせながらそう言い、くるりとこちらを向いたカティアさんの赤くなった瞳は、床を見つめながら必死に涙が零れ落ちるのを耐えているようだった。
「ごめんなさい、混乱、させてしまいました、よね」
ぽつりぽつりとか細い声を絞り出しながら、肩を強張らせながら、視線を無理に上げようとしながら必死に作られた僅かな笑顔を見せられて、私は頭の中が真っ白になって気付いたら彼女を抱き寄せていた。
「…クラ、イス、さん?」
少しの沈黙の後、カティアさんが戸惑いの声を上げた。私はこんなにも衝動的に動ける人間だったのかと、自分の中の僅かに残る冷静な部分で思いながらも言語を司る部分は未だ正常ではないようで、彼女の声を引き金にずっとまだ時ではないと胸の中にしまい込んでいた言葉をいとも簡単に解放してしまった。
「カティアさん、貴女が、好きです」
ぴくりと、胸の中の彼女の肩が震えた。
「私は貴女にまだ言えない事がたくさんあります。それでもこの言葉は信じてほしい。指輪を贈ったのも子供じみた牽制なんです。貴女に寂しい思いをさせない為にはゲイル君にお願いするのが一番だって頭ではわかっていたんです。カティアさんが指輪の意味を知らない事はわかっていました。でも、貴女がゲイル君とこれ以上近くなってしまうのが嫌で、自分の気持ちを少しでも慰める為に指輪を…」
何て稚拙で情けない台詞なのだろう。本来であれば全ての根回しと時と場を整えて言うべき事を、このような勢いのままに伝える事しか出来ないなんて。
自分の情けなさを誤魔化すように腕に力を込めると、彼女の肩が先程より大きく震え、胸が温かく湿っていく感触がした。不思議と、先程の涙と違って、その姿がひどく嬉しく、愛おしく感じた。
「…カティアさん、私は、自惚れても良いのでしょうか」
心の中にずっと溜めていたものを吐き出した所為か少しだけ頭も冷静さを取り戻していた。腕の力を緩め、彼女の肩にそっと手を置いて体を少しだけ離して、溢れる綺麗な涙を指で拭った。
「今流している涙は、嬉しさからだと」
やっと合わせる事が出来た瑠璃色の瞳を見つめながら言うと、少しだけ落ち着いていた涙がまたぼろぼろと零れ落ちた。何かを話そうとしているけれど、呼吸もうまく整わないようなので椅子に座らせて背中をさする。今更だがハンカチを、と差し出したが首と手の仕草だけで断られてしまい、彼女はエプロンから自分のハンカチを出して使っていた。その彼女らしい姿に、ふと、何がとは言えないが大丈夫だろう、と自分らしくない感覚だけの答えを得た。
しばらくして漸く落ち着いたカティアさんはぽそり、と小さな声で話し始めた。
「あの、本当は、ずっと伝えるつもりはなかったんです」
カティアさんが泣いていたのだと思ったあの日、ゲイル君と何かがあったのだと思っていたが、私への気持ちに気付いた事が原因だったと聞いて、申し訳ないと思いながらも嬉しさで口角が上がるのを必死で堪える。
「でも、うまく出来なくて…ごめんなさい」
「カティアさんが謝る必要はないです。私こそ苦しませてすみません」
私の言葉にふるふると大きく首を横に振ったカティアさんは少しの沈黙の後、胸の前でハンカチを握りしめながら恐る恐るといったようにこちらを向いた。
「あの…良いんでしょうか…」
「何がですか?」
「だって、その、クライスさんは貴族で、お城の人で…」
一度合った目は再び逸らされて、その視線は床へと落ちていった。彼女らしい、と愛おしく思うと同時に、もう少し自分の告白に喜んだ表情を見せてくれても良いのではないかと少しだけ残念な気持ちにもなる。欲が際限なく出てきてしまいそうで怖いな、とカティアさんにバレないように苦笑した。
「カティアさん、貴女の事だから色々と私の事を考えて心配してくれているのでしょう。不安にならないでください、と言っても無理でしょうから、正直に伝えますね」
カティアさんはその言葉に落としていた視線を上げてこちらを見つめてきた。そのまっすぐな瞳は不安に揺れながらも、何かを決意したような強さも感じられた。
「私は、今後皆さんに関わる事について、カティアさんにも、姫様やエドアルドにもまだ話せないことがあります。でも、姫様の課題が終わる頃にはきっとお伝え出来ますから、そうしたら、カティアさんが私の気持ちを受け入れてくださるというのでしたら、今後の事を相談させてください。カティアさんには色々と決断してもらわなくてはならない事があると思います。でも私に出来る限り不安のないように整えますから…待っていてもらえますか」
話せないという事実は変わらないが、この状況ではもう隠したり誤魔化したくはなかった。彼女に信頼されているという自負はあった。初めて会話をした時から波長が合うとも思っていた。でも自分が彼女に向ける感情と同じものは持っていないだろうと、思っていた。自分が彼女に向ける気持ちが非常に重いものであると自覚はあるが、その理由をまだ伝える事は出来ない。だからこそ、少しずつ信頼から親愛へと形が変われば良いと、いつか愛情という括りの中で唯一となれるようにと、過度にならない程度に言葉や態度で示してきたつもりだ。でも苦しかった。全てを話す事が出来れば彼女を繋ぎ止められるかもしれないと思わないわけがなく、それが出来ない事がとてももどかしかった。
言葉選びを間違えないように、ゆっくりと一つ一つの言葉を大切にしながら伝えると、カティアさんは少しの間何かを考えるようにじっと私の顔を見た後、小さく唇を動かした。
「…私も、」
たくさん泣いた事でまだ少し声が出しにくいようで、一度詰まった喉を整えるように一度目を瞑り深く呼吸をした。再度開かれた瞳はまだ赤く濡れていたが、それはもう不安に揺れる事はなく、強い光が灯っていた。
「私も、一緒にやります。出来ることは少ないかもしれないけど、クライスさんにお任せする方が上手くいくのかもしれないけど、それでも、一緒に考えたいです」
何て愛おしいのかと思った。私の想いを受け入れてくれるだけでなく、彼女から共に今後を考えたいと思ってくれるだなんて、こんなに心が満たされる事があるだろうか。あぁ、これが幸せという気持ちなのだろうと、言葉の形と漠然とした意味しか知らなかったものを自分の中に見つけた。
「ありがとう、カティアさん」
ありがとうという言葉では伝えきれないが、この言葉でしか伝えられなかった。貴族社会で生きていく為に覚えた、普段相手を思うように動かす為に使っている有益な言葉のどれもが役不足だった。
ハンカチをきつく握りしめていた手は少しだけ緩んで彼女の膝に置かれていた。欲深くなっては駄目だと自分を律する気持ちと、どうしても触れたいという気持ちが一瞬頭の中で戦ったが、後者が勝ってしまった。そっと上から包むようにカティアさんの綺麗で華奢な右手に触れるとぴくりと小さく震えたが、驚いただけのようで、そのまま私の手を包むように彼女の左手が重なってきた。幸せというものには上限がないのだろうかと溶けそうな頭を何とか保たせていると、ふと彼女の左手の薬指にはめられた、事の原因である指輪が目に入った。
「カティアさん、指輪を一度お返し願えますか?」
「え?…あ、はい」
素直に返してはくれたが、その顔は一度きょとんと目を瞬いた後、少しショックを受けたような顔になった。自分の言い方が悪かった事に気づき少しだけ罪悪感を覚えるが、カティアさんの感情が素直に出る様に更に愛おしさが募る。
「お見せするのは久しぶりですね」
受け取った指輪のリング部分を摘み、仕込んでいた魔石術の術式を発動させる言葉を紡ぐ。いつも通り、古代の言葉で。
《あなたを生涯愛します》
言葉の後に指輪に埋め込まれている石へと息を吹きかけると、石は薄い紫色から透明に変わった。念の為ランプの光にかざして確認をする。問題はない。
ちらりとカティアさんを見ると、久しぶりの魔石術に目をキラキラとさせていた。今までのものと違って地味だったが満足していただけたようだ。
「カティアさん、左手を出していただけますか」
「え…?あ、はい」
先程と同じ返しをして左手をこちらに差し出してくる。村々を回って平民らしい人々を見てきたからか、カティアさんの手入れされた綺麗な手と所作の美しさが際立って見えた。
「…ふ、逆です」
「え…?」
どうしてこの人は期待というものをしないのだろうかと可笑しくなって思わず笑ってしまった。手のひらを上にして出された手を掴んで逆にする。
「本当の婚約指輪は自分の魔力の色の石を贈るんです。プリメーラが勘違いしたのはこれも理由でしょう。私は適正がないので残念ながら透明な石となってしまいますが、受け取ってくださいますか」
指にリングをはめる前に確認をする。美しい貴石からガラス玉のような透明な石になってしまった事で、宝飾品としての魅力は落ちてしまった。カティアさんなら見た目に左右される事はないと思うが、それでも緊張してしまい耳元で鳴り響く心臓の音を煩わしく感じながら指先に落とした視線を上げられずにいると、カティアさんの右手が指輪を持つ私の手にそっと触れた。
「クライスさんの魔石術は何でも出来るから、だからクライスさんの魔力はどんな色にもなれるように透明なんですね」
その言葉に顔を上げると、この世でこれ以上にないと思われるほど優しい目をしたカティアさんが微笑んでいた。その表情に、柄にもなく目の奥がツンとする。
「残念だなんてとんでもないです。これ以上に素敵な指輪はありません」
目から零れ落ちそうなものを堪えるのに必死で言葉を紡げず、一度目を瞑る。先程から幸せだと感じているものとは少しだけ違う、感じたことのないあたたかなもので胸がいっぱいになった。静かに深く呼吸をして、気持ちを静め目を開ける。
「この指輪に、これより命尽きるまであなたを愛し、守る事を誓います」
そう言って、薬指に再び指輪をはめた。
「クライスさん」
自らの指に戻ってきた指輪に愛おしそうに触れながらカティアさんはこちらを見つめてにこりと微笑んだ。
「私も、クライスさんが大好きです」
目元とは違う紅に頬と耳を染めてそう言うカティアさんに、気付くと唇を重ねていた。しまった、と思うももう遅い。離れがたく思いながらも恐る恐る体を離すと、カティアさんは驚いた顔を先程よりも広範囲に紅く染めていた。
「……すみません」
「い、いえ、あの、嬉しい、です」
照れながらもふにゃりと微笑むカティアさんに、これ以上は駄目だと必死に頭で自ら警鐘を鳴らして耐える。冷静沈着な人間だと思っていた自分はどうやら衝動的に動いてしまう方の人間だったらしい。その事実を少しだけ残念に思いながらも、人間らしいものをきちんと持ち続けていた事への嬉しさが勝っていた。




