55. 再会
「あれ、いつの間にか雨が降ってますね」
繁忙期を越え落ち着きつつも例年より多いお客様も、段々と少なくなってきた。クライスが最初に白金貨を季節が一巡りするまでの間の宿泊料と見せてきてからその半分が過ぎただろう。雨季明けから今までにここを通り抜けていった商人達が旅先で商売をして、また街へと戻るのにここを通るまでに少しの間閑散期が来る。空気が少し冷たくなって来るこの季節はそれも相まっていつも少しだけ寂しい気持ちになるのだが、今年はそれがないのがありがたい。ゲイルが来てくれなかったら、プリメーラ達がいなかったらまた違ったかもしれないけれど。
「この辺りは雨は多いんですの?」
「雨季の時でなければ時々降るくらいですね。最近は通り雨が多くなってきている気がしますが」
「まぁ、気候が変わるのは心配ですわね」
お客様も少なくなってきた事で午後に空き時間が出来た時にはプリメーラとお茶を淹れて刺繍や縫い物をしながら話をする習慣が出来た。今日もプリメーラはハンカチに刺繍をし、私は古くなったリネンを雑巾に変えている。
「もうそろそろ皆さん帰ってくる頃だと思うのですが、雨は大丈夫でしょうか…」
雨避けの魔石を持っているから濡れはしないだろうが、雨で歩きにくくなってしまうかもしれない。
「…今日はこのままお客様も来ないかもしれないですね」
日も傾き始めている。木々の濡れ方を見ると少し前から降っていたようだから、強行軍で旅程を進めようとしない限りはここに来る前の拠点で足を止めているだろう。商人達は特に商品を濡らさないように気を遣うので、朝から自らの経験と勘で天気を予測する。今日は朝からぱっとしない天気だったからおそらく村か砦でひと商売して明日から動くはずだ。
「あと少し待ってお客様が来なかったら、夕食はプリメーラさんの食べたいメニューにしましょうか」
「まぁ、嬉しいですわ!どうしましょう、カティアさんのお料理は何でも美味しいですから迷ってしまいますわね」
「ふふ、考えておいてくださいね」
プリメーラは元々気さくで話しやすい人だったけれど、数日前に昔話をしてもらってからはそれまでにも増して距離が近くなったような気がする。育った環境も文化も違うのに、お互いの共通の知り合いの話が出来るからだろうか、話がすれ違うというような事がほぼなく、むしろ共通の話題や感性で盛り上がる事が多かった。
もうそろそろ広げていた布を片付けようかとキリの良いところで糸を留め切ったところで、外から馬の爪音が聞こえてきた。
「あら残念、お客様ですわね」
「リクエストがあれば可能な限りメニューに組み込みますよ」
プリメーラも刺繍をしていた手を止めてオーウェンが道具の片付けを手伝い始め、私はお客様に厩舎を案内するために扉へと向かいノブに手を伸ばすと、同時にその扉はカチャリと外側から開いた。
「…っカティア!!」
「ターニャ!?」
そこには頬を紅潮させたサリタニアが立っていた。まさか私が扉のすぐそばにいるとは思わなかったのだろう、一瞬驚いた顔をしたが、その顔はすぐに大輪の花が開いたように笑顔になった。
「カティア、カティア!ただいま戻りました!」
「おかえりなさい!無事で良かったです」
ぎゅうと抱きついてきたサリタニアを私も目一杯抱きしめた。10日程離れていただけなのに、懐かしいあたたかい温もりに目頭が熱くなる。
「あのね、本当に色々とあったのです。そのたびにカティアに話したくて、カティアに会いたくなったのです。カティアに会いたくて、ミゲルさんが馬を貸してくれて、雨が降るからと止められましたが急いで帰ってきたのですよ」
「ターニャ、興奮しているのはわかりますがそれでは伝わりませんよ。お客様だっているのです…から…え?プリメーラ?」
頬を赤くして目を輝かせて私にしがみつきながら話すサリタニアが可愛くてうんうんと頷いて聞いていると後ろからクライスが現れた。久しぶりに見るその顔と柔らかで少し低めの落ち着いた声にドキリと胸が跳ねた。
「え、プリメーラ?」
サリタニアもクライスの声に私の腰に手を回したまま同じ言葉を繰り返して私の後ろに目をやった。
「ご無沙汰しております、殿下。クライスも」
プリメーラは落ち着いた声色で綺麗なお辞儀をして2人に挨拶をした。オーウェンも胸に手を置き低く頭を下げている。そうだ、本来はこうされるべき人達なのだと改めて実感したが、私に会いたかったと言ってぎゅうと握って離さないこの手を悲しませるような事はしたくないので、これは私に許された特権と思う事にした。
「どうしたのですか?エディに会いに?」
「クライスに書類を届けに参りました。それにしても驚きましたわ。カティアさんの元で不自由なく暮らしていらっしゃるのだと思ってはおりましたが、そのように殿下がカティアさんに懐かれておられるなんて」
ふふ、と手を口に当てて嬉しそうに微笑むプリメーラにサリタニアはふふ、と満面の笑みを返す。
「ええ、わたくし達はとても仲良しなのですよ。ね、カティア」
「はい、仲良しですね」
プリメーラ達の前で仲良しなどと宣言してしまって良いものか少しだけ迷ったけれど、サリタニアのこの顔には勝てないし、仲良しと言われて嬉しい気持ちを誤魔化したくはなかった。
「まぁ、羨ましいことですわ」
良かった、プリメーラもオーウェンも特に気にする様子はないようだ。
「…と、プリメーラに驚いて挨拶が遅れましたね。ただいま戻りました」
「おかえりなさい、クライスさん。お元気そうで安心しました」
「カティアさんも体調などお変わりありませんか?」
「はい、宿には色々ありましたけど、私はずっと元気でしたよ。クライスさんのお守りで不安もありませんでした」
「それは良かった。…宿にあった色々って、プリメーラだけじゃないんですか」
「ふふ、後でお話しますね」
「危険はなかったんですね?」
「ちょっとだけありましたけど、ゲイルとオーウェンさんがいてくれたので大丈夫でした」
「大丈夫でしたって、カティアさん…」
そう言うと、クライスは眉間に皺を寄せて目を手で覆ってはぁ、と溜息を吐いた。久しぶりのクライスとの会話も、このやりとりも嬉しくて、ドキドキしながらもあたたかいもので胸が満たされていく。
「おーいクライス、何してるんだ早く中に入ってくれ」
厩舎に馬を繋いで来たのか、2人に遅れてエドアルドの声が扉の外から聞こえてきた。両開きの扉は片方しか開いておらず、クライスが入り口で止まってしまった為エドアルドからはプリメーラ達が死角になっている状態だ。プリメーラを見たら一番喜ぶだろうな。
「あ、悪い」
「やぁカティアさん、戻りまし…た…プリメーラ?」
「おかえりなさいませ、旦那様」
「え、あれ?どうしてプリメーラがここにいるんだ?」
「文官の仕事で、クライスに書類を届けに来ましたの」
「そうか。いや、驚いた…でも久しぶりに顔が見れて嬉しい。元気そうで良かった」
夫婦の久しぶりであろう逢瀬にプリメーラはもちろん、エドアルドも驚きつつも頬を赤く染めている。プリメーラから2人の話を聞いて強く想い合っているのを知っていたからか、潤んだプリメーラの瞳を見てつられて目頭が熱くなってきた。
「カティア、プリメーラとも仲良くなったのですね。とっても嬉しそうです」
「はい。色々とお話も聞きましたので、もらい泣きしてしまいそうです」
「あの2人は貴族の中でも有名なおしどり夫婦ですからね。ここに来る事が決まって、長期間会えないだろう事は想像に容易かったですから2人には悪いと思っていましたが…こうして会えて本当に良かった」
仕事に真面目な2人だからこそ、会えなくなるという理由で断る事など出来なかったのだろう。良かった、と2人を見ていると、中に入ってきたクライスがよいしょと背負っていた荷物を床に置いた。何が入っているのか、なんだか重そうだ。
「カティアさん、今日は宿泊客はいないのですか?」
「あ、はい。この時間でこの天気ですから、もういないと思います」
「でしたらお茶を淹れてここで報告会をしませんか?」
「そうですね、皆さんお疲れでしょうし。あ、でも夕食の支度も…」
「それについては心配には及びません。ミゲルさんの村のご婦人達から夕食にとたくさん料理を持たされましたから」
床に置いたぱんぱんに詰まったリュックを指差しながら告げられたその言葉に、村の人達の楽しそうな笑顔が浮かんだ。きっとあれもこれもと次から次に持たされてリュックに入れるのに苦労しただろう。
「ふふ、村の人達の良いところを見られたようで良かったです」
「あの勢いには流石の私でも勝てそうにありません…」
苦笑するクライスに、確かに、と納得してしまう。
「あれ、何か騒がしいと思ったら帰ってきたんだ」
「ゲイル君。ただいま戻りました」
午後にはやる事がなくなって、村では出来ないからと部屋で昼寝を満喫していたゲイルが降りてきた。私にしがみついていたサリタニアがあ、と小さく声を上げゲイルの元へと小走りに走って行き、姿勢を正した。
「ゲイルさん、先日はありがとうございました」
「いや、その後何もなかったか?」
「はい!ミゲルさんとカイルさんにもとてもよくしていただきました」
「そりゃ良かった」
旅立った直後にゲイルに身分がばれるという事件があったそうだが、それのおかげか距離が近くなっているようで嬉しい。そういえば、最近ゲイルの発言の端々にクライスへの信頼を感じる事があるけれど、この事件で何かあったのだろうか。
荷物はそのままにとりあえずひと息つこうと紅茶を淹れて、疲れている時は甘いものが必要だろうとクラッカーとエカの実のジャムを出した。
「うわ…沁みるなぁ…」
クライスもいるとはいえ、護衛をしながらの旅というのは想像以上に疲れるのだろう。少しだけやつれた顔で帰ってきたエドアルドはジャムの甘さに表情を緩めていった。
「村の食事も美味かったが、やはり文化が違うと食事ひとつとっても気付かず気を遣うらしい事がわかった旅だったよ」
「そういえば、カティアさんのお料理はわたくし達が普段食べているものと似ていますわね」
「そうなんですか?」
「ええ。我々も旅に出るまでは気づきませんでしたが、カティアさんの作る料理のメニューは王都で出されるものとだいたい同じです」
料理は全ておばあちゃんに教わったものだ。確かに村で食べる料理とは違うけれど、王都のものと同じだとは知らなかった。
「村で出されたお料理も美味しかったですが、何を食べてもカティアのお料理が一番だと思ってしまいました」
「まぁ姫様、それでは城の料理人が泣いてしまいますわ」
「ええ、だから秘密ですよプリメーラ?」
「あら、ふふ、姫様の命でしたら断れませんわね。でもわたくしもそう思います」
女性2人の気品溢れる褒め殺しが嬉しいけれどこそばゆい。
「はは、カティアさん大人気だな」
「恐れ入ります…」
お腹と喉が少し落ち着いたところで、さて、とクライスが報告会の指揮を取り始めた。まずは宿にあった事を話す事になり、レティーツィアとキースが来た事、お祝い会をして楽しかった事、おかえりなさいの会もしたいと思っている事、そしてプリメーラ達の来訪と商人達の喧嘩に巻き込まれそうになってオーウェンに助けてもらった事を簡単に伝えた。
「…本当にオーウェンがいてくれて良かったです。感謝します、オーウェン」
「クライス様にお褒めの言葉をいただけるとは恐縮です」
「しかし…村を見ていても思ったが、戦う力を持つ人のいない空間というのは何というか、心許ないな」
「そういうものですか?私は逆に武力が当たり前にある空間の方が危険な地域のような気がして怖いですが…ねぇゲイル?」
「あぁ、俺達はそれが普通と思って育ったからな」
「うーん、そういうものか。環境と価値観の違いなんだろうな」
それを仕事にしているからこそそう思うのだろう。私で言えば料理を出来る人がいない空間を思い浮かべれば良いのだろうか…確かにちょっと心配になるかも。
「ああそうだ村で思い出した。ゲイル君、ミゲルさんのご厚意でここまでも馬をお借りしたんだが、君が乗ってきた馬に加えて2頭、連れて帰れるか?」
「帰りにも一泊する事をミゲルさんの村で提案されたのですが、早くカティアの元に帰りたいとお話したら貸してくださったのです」
そういえば帰って来た時にサリタニアが興奮しながら言っていたような。ゲイルの方を見ると少しだけ考えるように天井を見上げた後、大丈夫、とエドアルドに返答した。
「ゆっくりなら3頭連れでも帰れると思う。貸してる馬はみんな大人しいし」
「そうか、難しいようならここにオーウェンがいるなら俺がついていこうと思ったんだが」
「ありがとう、でも大丈夫」
「ゲイルさん、お手数おかけしてしまってごめんなさい」
「いや、馬と歩くの嫌いじゃないから。カティア、みんな帰って来たならもう大丈夫だな?ゆっくり帰るから明日の朝イチには出るよ」
そうだ、私が一人でいるのが心配だからとクライスに頼まれて来てくれたんだった。10日程ではあったけれど何だか宿にゲイルがいるのが当たり前のような感覚になってきてしまっていたから少し寂しい。最後にひとつだけ我儘を言っても許されるだろうか。
「明後日にしない?ほら、これ」
右手でかき混ぜるような身振りをしてゲイルに尋ねると一瞬嫌そうに顔を顰められたけれど、はぁーっと盛大なわざとらしいため息を吐いて仕方ねぇな、と言ってくれた。私がまたふわふわのケーキを作っておかえりなさいのパーティーをしたいと話していた事をきちんと覚えていてくれたようで嬉しい。
「あの、ゲイルさんはどこに行かれるの?」
プリメーラがきょとんとした顔で尋ねてきた。そうだ、プリメーラ達が宿に来た頃にはもうゲイルも宿の生活に慣れていたからここに住んでいると思っていても仕方ない。
「ゲイルはクライスさん達が不在の間に一人になる私を心配して宿を手伝いに来てくれてたんです」
「…?ゲイルさんとカティアさんは別居されているんですの?」
「別居…?そう、ですね、一緒には住んでいないです」
プリメーラが宿に来た時にはもうゲイルが宿の仕事をだいぶこなしてくれていたから、ここで一緒に住んでいる宿の従業員だと思ったのだろうか。
「そうなのですね、仲睦まじいご夫婦ですのに…何かご事情がおありなのね」
「ふ、夫婦じゃないですよ!?」
「…またか」
キースにも勘違いされたが、プリメーラも同じように思っていたらしい。私はびっくりして椅子から立ち上がりゲイルははぁ、と溜息を吐いた。何故だろう、ゲイルとお互いに家族のように思っていると納得したからか、周りからも家族のように見えてしまうのだろうか。でも家族は家族でも、どちらかと言えば夫婦じゃなくてきょうだいのような感覚なんだけど。
「え?ご夫婦ではないの?でも…」
プリメーラも驚いたようで口に手を当てた。そしてその視線が私の手元に移った。
「カティアさんは婚姻の証の指輪をしていらっしゃ…」
『プリメーラ!』
クライスとエドアルドがプリメーラの言葉を遮るように叫んだ。プリメーラは更に驚いた顔をして口をつぐみ、私は言われた言葉を咀嚼するのに時間がかかって自分の手元を見た。
「え、と…」
確か、この指輪はクライスが私の魔力を安定させるお守りとして貸してくれたもので、そんな、婚姻の証だなんて一言も言っていなかったはずだ。
「カティアさん…その…」
「あ、そっか、あれですね、お酒の時と同じですよね?」
初めて彼らが宿に来た日の夜、クライスにサリタニアが一歩踏み出した日のお祝いに付き合ってくれと言われて一緒にお酒を飲んだ。その翌日にエドアルドとサリタニアがその事に驚いて、貴族の女性は家族と婚約した人としかお酒を飲まないと聞いた。平民にはそんな慣習はなくて、その場を楽しむ為に16歳以上なら年齢性別関係なくみんなでお酒を飲む。そしてクライスは平民の慣習に合わせたと言っていた。
「私達は結婚に指輪を送るなんて事、しないですし…」
そう言いながら、胸が痛くなるのを必死で耐えていた。クライスがこちらに合わせてくれるのは、平民に寄り添ってくれるようで嬉しい。でも、今思えばお酒も、この指輪も、そんな大事な事を黙っているなんて、それをしてしまえるなんて、私に対してそんな感情はひとかけらも持っていないからなのだろう。クライスから気持ちを向けて欲しいなんて思ってはいけないと頭ではわかっているが、それでもそれが悲しくて、辛い、ひどいと思ってしまった。
「カティアさん、ちが…」
「大丈夫ですよ、勘違いなんてしませんから」
ひどく心配そうな顔をしているクライスを安心させるように笑顔を作ろうとした瞬間に頬を熱いものが伝う感触がした。
「あれ…やだ、すみません」
頭ではいけないとわかっているのに次から次へと零れてくるものを止められない。これではみんなに心配をかけてしまうし、このままでは私の気持ちがクライスに知られてしまう。
「ごめんなさい、ちょっと、驚いただけです。顔、洗ってきますね」
言葉ではうまく誤魔化せないと思って私は逃げるように宿を出て小屋へと向かったが、扉を開けようとしたところで鍵をかけていた事を思い出した。何も上手くできない自分が情けなくて視界は益々歪んでゆき、開かない扉のノブを意味もなく握りしめながら嗚咽を堪えて立ち尽くす。
「体が冷えてしまいますよ」
背後から聞こえたクライスの声にビクリと体が跳ねた。どう返したら良いかわからず体を硬くしていると、後ろから伸ばされた手が私のノブを握りしめた手にそっと触れ、私が驚いて手を引いたところで鍵を開けてくれた。
「とりあえず中に入りましょうか」
クライスがどんな顔をしているのか見れないまま、私は促されるままに小屋へと入っていった。見た目には強くなっていた雨の音がひどく遠くに感じた。




