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39. 一人の宿

 サリタニア達を見送り、出発を急かす為に後回しにしていた掃除を始めた。久々に全部一人でやる作業に一瞬戸惑ったけれど、長年動かしていた体は覚えていてすぐに感覚を取り戻す。昨日は2組だけだったので掃除もそこまで大変ではない。使っていた部屋を重点的に、使っていない部屋もざっと拭き掃除をしてキッチンで軽く朝食をとった。


 お客様が来たらなかなか外にも出にくくなるだろうと、先に庭仕事に取り掛かる。実は花瓶の花を変えるのに繁忙期中にはなかなか摘みに行く事が出来ず、今までは花壇の花を使っていたが今は薬草を植えてしまっているという話をしたらエドアルドが庭の空きスペースに新しく花壇の枠を作ってくれたのだ。完成したのが出発の前日だったのでまだ中は手つかずで、これから土を耕さなければならない。


 厩舎からスコップを持ってきて土を掘り返していく。元花壇だった場所に薬草を植えていくのとは違って土は固く、なかなかペースが上がらない。思い通りに進まず、かといって今ある道具で効率を上げる方法も思いつかずむぅ、と無意識に眉間に皺が寄ってしまい一度手を止めて腰を伸ばした。


「…よし、今度ゲイルに鍬を借りよう!」


 効率の悪い方法で進めるのはやめた。新しく作る花壇なら、ゲイルのアドバイスを受けた方が良いかもしれないし。


 パンパンと土のついたスカートを叩き、次はお風呂の掃除を始めた。掃除をしながら魔石装置に目をやる。ずっと何も知らずに使い続けてきた装置。見た目はちょっと古くなってきているが、クライスのメンテナンスもあって問題なくこれからも使い続けられそうだ。私にとって当たり前のこの装置がこの国の人達の生活を変えていくのだろうかと思うととても不思議な気持ちになる。


(それに、少しでもクライスさんが貴族の人達に認められるきっかけになったら嬉しいな…)


 クライスが聞かせてくれた厳しい貴族の世界の話を思い出す。魔術や魔法が使えないという事で貴族としてのお勤めが果たせないと厳しい目を向けられていた。誰もが喜ぶというこの装置を広めたのがクライスだと知れ渡ったら、少しは居場所が出来るだろうか。あの日装置を初めて見た時のキラキラとした少年のような顔を貴族の世界の中でも出来る日が来ますように。


 宿の中に戻る途中で、玄関の隅に枯れ葉がたまっているのを発見して箒を取り出した。この時期に枯れ葉なんて珍しいなと思いながら、屋根かどこかに溜まっていたのが落ちたのだろうと掃き出す。そういえばここに土嚢を運んで貰った時はエドアルドの力持ちっぷりにびっくりしたな、なんて思い出した。


 そうこうしているうちにすっかり日が高くなり、お昼なのだと気づく。料理は好きだが自分だけの為に凝ったものを作る気にはなれず、昨夜の残りも持ち歩きやすいように作り替えてお弁当に入れてしまったのでぱっと食べられるものがない。仕方がないのでパンを切ってピクルスとチーズを挟んで簡単に済ませる事にした。ピクルスの酸味が効いていて好きなので昔はこのお手軽サンドイッチをよく自分用に作って食べていたが、サリタニアはきっと食べられないだろう。また頑張って食べようとして苦しそうな顔をするに違いない。あの時はまだ出会ったばかりだったし、あまりに苦しそうな顔だったので心配になってしまったけれど、今思い出すとあれはとってもかわいかった。


(なんだか今日は色々と思い出しちゃうな)


 不思議なもので、誰もいないのにこの宿には沢山のみんなの気配があった。一人でいた頃はなかった思い出がそこかしこにあるのだ。それも物寂しく感じるわけではなく、温かい空気に包まれているようだった。出発すると聞いた日にみんなの想いを知ることが出来たからだろうか。サンドイッチを食べ終わった手を洗い、着けたままの指輪からも水滴を綺麗に拭き取ってそのままそっと右手を添えた。クライスがこの指は心臓から近いと言っていた。指輪を見る度に優しく脈打つこの鼓動も指輪に伝わっているのだろうか。


 連日続いていた早い時間のチェックインも今日はなく、午後はゆっくりと縫い物をしながら過ごした。集中してしまっていたようで、気づくと日が傾いて空が真っ赤に染まっていた。こんな日に限って今日は宿泊のお客様もいないようだ。念の為、夜遅くに人が来ても良いようにスープだけは作っておこうと縫い物を片付けてキッチンへと入る。


 くつくつと鳴るスープ鍋の音の向こうに、ホウホウと夜行性の鳥の声が聞こえてきた。今日は少し風が強い。空は晴れているが風だけは雨が降りそうな匂いをしている。カタカタと2階から窓が揺れる音が聞こえて、幼い頃の私なら怖がっていただろうなと思いながらスープの味見をした。うん、美味しく出来た。


 火を落として、今日はこのまま仮眠室で休もうと小屋の鍵をかけに外に出たところで馬の嘶きが聞こえた。何事かとそちらを見ると、一頭の馬がこちらへと歩いてくる。先程まで走っていたのを急停止されたのだろう、ぶるぶると頭を振っている。


「カティア!」

「ゲイル?」


 馬から降りてきたのはゲイルだった。こんな遅くに来るなんてどうしたのだろう。


「クライスさんに頼まれた。お前がしばらく一人だからこっちに来てくれって」

「え?!」

「あとこれ」

「鍬?」

「エディさんに頼まれた。花壇を作ってくれって」


 クライスさん達が戻ってくるまでに10日程かかるのにそんな長い日数ゲイルはここにいて平気なのかとか、私は一人でも平気だとか、花壇は心から助かるとか、色々と頭に思い浮かんだが、軽率な言葉でゲイルを傷つけた事を思い出してなかなか言葉を紡げない。


「色々思ってくれてるんだろうけどとりあえず気にすんな。じいちゃんからも行って来いって言われたから」

「そ、そう…」


 どうやらお見通しのようで、そう返された私は鍬を受け取り、馬を厩舎に連れて行くゲイルの後ろ姿を見つめるしか出来なかった。


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