37. 出立前夜
「カティアさん、視察にあたって必要なものを取りに私だけ本日の夜から明日の午前中まで城に帰りたいと思うのですが」
旅程を一通り教えてもらい、長くても10日ほどの予定である事を聞かされて更に安心したところでクライスが言いにくそうに言ってきた。
「わかりました。宿の事は気にせず動いてください」
そう返したが、クライスは何か言いたそうというか言いにくそうというか、口を開いては思いとどまるというのを数回繰り返した。あぁ、きっと私の気持ちを気にしてくれているのだ。
「大丈夫ですよ、戻ってきてくださるんでしょう?」
「あ…はい、昼食までには必ず」
気を遣わせてしまっている事に少し申し訳なさを感じながらも、クライスの気持ちが嬉しい。
「じゃあ美味しい昼食を作ってお待ちしてますね」
その優しさに応えられるよう、少しでも心配させないようににこりと笑って返すと、クライスもほっとしたように表情を和らげてくれた。
「それと、一つお伺いしたい事があります」
「何ですか?」
クライスは少し待っててください、と言い残して自室から紙束を持ってきた。何だろう、とテーブルに置かれた紙束を見るとなにやらぎっしりと文字やら図やらが書いてある。
「風呂場の魔石装置の論文です。これを陛下に報告してもよろしいでしょうか」
「ろんぶん…?」
論文というものがどのようなものかよくわかっておらず返答に困っていると、クライスがぱらりと論文の束をめくりながら話を続ける。
「この論文には宿の風呂場のように労力なくお湯が使える仕組みが書いてあります。これがあれば国民の生活の質が大きく変わるでしょう。風呂でお湯の準備をする労力というのはなくなれば誰もが喜びます。逆に、この装置が広まれば新たな仕事を増やす事も出来るので陛下に提出すれば世に出ていく事は確実です。なので、持ち主であるカティアさんの許可を得なければと思いまして」
クライスの研究は装置の仕組みまで解析してしまったようだ。流石だなと思いながら、考える。装置を世に広めてもらう事は一向に構わないけれど…。
「あの、この装置は私が物心つく前からあったので、誰が作ったのか、誰があそこに置いたのかわからないんです。なのでもしそれを作った人が見たら、その人は怒らないですか?」
自分の功績が他人の手によって知らないところで広められるというのは研究者にとってはどう感じるものなのだろうか。
「それについては問題ないように動きます。自分の研究を人の功績にしないようにする為の法律はありますから、これ程の装置を作れる人ならそれも知っているでしょうし、その登録がなければ心配ないかと思います」
「そうですか、ならお好きにしてくださって構いません。ただ、この宿の事はあまり外に出さないでくださると嬉しいです」
トマスが宣伝してくれただけであれだけ人が増えたのだ。簡単にお湯が使える宿として有名になってしまったら混乱してしまいそうだ。
「承知しました、こちらの宿の事は陛下への報告のみにいたしますね」
はは、と笑いながらクライスは了承してくれた。
「あと、出発の前日の夜、少しお時間いただけますか」
「はい、わかりました。では夕食の後にでも」
何だろう、と思いながらも不安はない。素直に頷くと、クライスは満足そうに笑った。
その日の夜、クライスは転移馬車で静かに城に帰っていった。そういえば来る時は光っていたが平気だろうかと気になったが、馬車に入っていた、周りに光を遮断する厚めの布をかける事で解決した。
「魔石術でどうにかするんじゃないんですね…」
「お披露目出来ず残念ですが、転移馬車以外にも式典などで光が邪魔になるシーンがあるのでこの布は常用されているんですよ」
ちょっとだけ期待していたのでしょんぼりとしていると苦笑いをしながら返された。
クライスが城に帰ってから少しの落ち着きのなさを感じながらも日常の仕事をこなしていると、約束通り昼食前にクライスが帰ってきた。昼食はクライスの好きなエカのジャム、口には出していないがおそらく好きであろうピクルスを入れたソース、加えていくつかディップできるソースを作り、数種類のスティック状にした野菜、根菜を濾したスープ、スパイスを効かせてオーブンでじっくりローストした肉にスクランブルエッグとパンを用意し、それからジャムに合うスコーンを焼いた。クライスは味を変えながら食べるのが好きなようで、よくパンに色々なものを乗せて食べているのできっと楽しんで食べてくれるだろう。
「これは豪勢ですね」
予想通り気に入ってくれたようで、いつもより多く食べてしまい苦しそうにしていた。
「夜はターニャの好きなものと、エディさんの好きなデザートを作りますね」
「でしたらミネストローネが食べたいです。リクエストしても良いかしら?」
「ターニャもすっかりミネストローネが好きになりましたね」
「えぇ、あんなに美味しいスープは城でも食べられません。実はミネストローネは城でも出るのですが少し酸味があって苦手だったのです。でもカティアのものは甘くてとても美味しいので大好きなのですよ」
城の料理人にはどうしたって勝てないだろうが、ミネストローネだけは城のものよりもサリタニアの口に合うものを作れていた事が嬉しい。
「では俺は、なんだったか、あの四角い果実の入ったケーキ、あれが良いな」
「ふふ、パウンドケーキですね。わかりました」
美味しいものを食べて明日からの旅を元気に過ごしてほしいと願いながら夕食の仕度もした。パウンドケーキは日持ちもするから多めに焼いて持っていってもらおう。今日のお客様は2組だけだったので、余裕をもって明日のお弁当の仕度も出来た。
夕食も満足してもらえたようで、話も弾んで楽しい食事の時間となった。みんなやはりお腹いっぱい食べてしまったようで苦しそうにしながらも片付けを終え落ち着いたところで、クライスが小さな木箱を持って来た。
「カティアさん、こちらを」
箱は私の方へと差し出された。開けるように促され蓋を開けると、小さな銀色のリングが入っている。リングには小さな紫色の石が数粒埋め込まれていた。
「魔力を安定させる指輪です。特に体調の変化などはないようですが、我々がいない間のお守り代わりにはなるでしょう。不在の間は着けておいてください」
「あ、ありがとうございます」
指輪を手に取りさてどの指に付けるべきかと迷っていると、失礼、とクライスが私の手を取った。ドキリと胸が跳ねて体が固くなったのを気付かれないように、全身を落ち着かせるように小さく息を吐く。
「魔力は心臓から血液と共に身体を巡っていると言われています。心臓から血の道を辿って一番近い指がここと考えられているので、こちらに着けさせていただきますね」
そう言いながら、クライスは私の左手の薬指に指輪を着けた。指輪なんて着けるのは初めてで少し緊張したが、すんなりと指に入り、なおかつスルリと抜け落ちてしまう事もなさそうなくらいピタリと指に合っていた。
「水仕事の多いカティアさんにとって邪魔に思えるかもしれませんが、出来ればしばらくは我慢してください」
「いえ、凹凸もないですし、邪魔にはなりません。大事に着けておきますね」
リングの金属部分も薄く、石も埋め込まれているので指に着けた瞬間から違和感をまったく感じない。これなら仕事中も気にならなさそうだ。そう返すとクライスは満足そうに微笑んだ。
「あの、私もみなさんに渡したいものがあるのですが…」
私は一度自室に入り、急いで縫い上げた3つの小さな巾着を手に取り戻った。
「こんな素敵な指輪の後にお恥ずかしいですが、2日で出来るものと考えたらこれくらいしか出来なくて…。ターニャが最初に着ていたワンピースがお母様からターニャの力になるようにと贈られたものと聞いたので、私も何か旅のお守りになるものを贈りたくて」
そう説明しながらそれぞれ好きそうな色の布で作った巾着を渡した。中にはゲイルに教わった魔獣避けの薬草を束ねて入れている。1枚ずつ丁寧に広げて重ねたので、荷物に揉まれて擦られる事はないだろう。
「すみません、エディさんがいるのに差し出がましいかとも思ったのですが…」
「そんな事はないよ。俺としても手札は多い方がありがたい」
「ありがとう、カティア。カティアの気持ちがとっても嬉しいです。この巾着も、ずっと大事に使いますね」
急いで作ったのでそんなに上等なものではないけれど、そう言ってくれたサリタニアの気持ちを大事に受け止めた。
「カティアさん、ありがとうございます。この視察が終わったら薬草に代わって、一番大切な魔石を入れさせていただきますね」
クライスの一番大切な魔石とはどのようなものだろう。いつもつけている腰のポーチの中にその巾着も入れてもらえるのだろうか。それはとても嬉しい。
私は改めて3人の顔を見て、心から無事を祈って笑顔を返した。




