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32. 選択肢

「ふぅ…」


 夕食後、サリタニアの入れてくれたハーブティーを飲んで軽く休憩をし、お客様ももう部屋から出ては来ないだろうと入浴も済ませて私は朝食の仕込みと夜番をしに宿へと戻った。あまり香りが漏れないように仕込みを済ませて仮眠部屋のベッドに腰を下ろすと、流石に足がじわりと疲れを訴えてきた。


 ポケットに入れていたクライスから借りた魔石をベッドサイドに置き、ブーツを脱いで足を布団の中に入れ背中は壁に預けて軽く目を閉じる。人が沢山いるからか、いつもより外の風や葉の擦れる気配が遠く感じる。その代わりに、家具や宿自体が時々キシリと軋む音が聞こえる。祖母曰く、人がいる事で湿気や気温の変化がおこって木材が軋むらしい。小さい頃はこの音が怖くて仕方なかったなぁなどと思い出していると、遠慮がちにカチャリと扉を開ける音が聞こえ、階段を降りてくる足音が天井で響いた。急いでストールを肩にかけて仮眠部屋を出ると、スコットが1階へと降りてくるところだった。


「スコットさん、何かありましたか?」

「カティアちゃん、ごめんな、起こしちゃったかい?」


 私が出てくると思っていなかったのか、スコットは後頭部に手を置いて申し訳なさそうな顔をしていた。


「まだ寝ていなかったので大丈夫ですよ」

「そっか、じゃあ悪いんだけど水を一杯もらえるかな」

「お茶も淹れられますが…」

「いや、水でいいよ。流石にちょっと飲み過ぎちゃったみたいでね。カティアちゃんが出て来なかったら外で風に当たろうと思ってたんだ」


 よく見ると薄明りの中でもまだ顔がほんのり赤い。足元も若干頼りないようで、スコットは重そうにゆるりとした動きでテーブルについた。クスクスと笑いながらキッチンから持ってきた水の入ったコップを差し出すとグイッと一気に飲み干したので、もう一度キッチンへと行き瓶に水をたっぷり入れて渡した。


「あのロディとかいう新人商人は良い目利きを持ってるな、安くて美味い酒が沢山あったからうっかり飲みすぎちゃったよ」

「そうなんですね。私も明日見せてもらおうかな」

「いーや、カティアちゃんにはまだ早いだろ」

「そんな事ないですよ、私ももうとっくにお酒を飲める歳ですから」


 スコットと初めて会った時はまだ酒を飲めない年齢だったが今はそうではないのだと、私も成長しているのだと主張するようにふふん、と得意げな顔で返した。


「そうだよなぁ、カティアちゃんもとうとう身を固める歳になったんだもんなぁ。俺もショックだけどうちの商団の奴らの中には本気で落ち込んでる奴も…」

「ちょ、ちょっと待ってください身を固めるってどういう事です!?」


 頬杖をついて盛大な溜息を吐きながらそう言うスコットに驚いて思わず言葉を遮ってしまった。


「エリザさんが亡くなってからカティアちゃんずっと一人だったから心配は心配だったんだけど、いざ知らん男がこの宿に居座ると思うと、胃のあたりがムカムカと…」

「クライスさん達の事言ってます?!そういうのではないですから!あの人達は自分達の宿を持つために一時的にここでお手伝いをしていただいてるだけですので…」

「いーーや!お兄さんは見たんだぞ!あの優男とカティアちゃんが仲睦まじげにアイコンタクトをとっているのを!」


 優男…話の流れからしてロディの対応をした時の事だろうか。というと優男イコールクライスなんだろう。


「それは仕事上のやりとりなだけで…」

「ほんとに?」

「ほんとです」


 大きく頷きながら答えるとスコットはまたも盛大に溜息を吐いた。


「そっかぁ…いや、うーーん、…そっか。じゃああのお兄さん達はまたここを出てっちゃうのか…」


 腕を組んだスコットは天井を仰ぎ見たり深く項垂れたりしながら唸ったかと思うと、何とも悲しい顔を向けてきた。


「カティアちゃんが優男のものになったわけじゃないのは嬉しい。それは心から嬉しい。でもなぁ、これからカティアちゃんが一人じゃないと安心してたのもあるからなぁ」

「ご心配おかけしてすみません。でもスコットさんみたいに気にかけてくださる方達がいるので大丈夫ですよ」


 やはり女性一人で宿を運営しているというのは何かと危なく感じるのだろう。ゲイルも、好意とは別にずっとそれも案じていてくれたのかもしれない。


「あーぁ、俺が商売バカじゃなければカティアちゃんに婿入りするのになぁ」

「酔っ払いのうわ言と聞いておきますね」

「ひどいなぁ。でもほんと、俺が商売から手をひけるならここで護衛業をしても良いと思ってるくらいにはカティアちゃんと宿が好きだよ。まぁ、俺は何があっても商売を捨てられないから無理な話なんだけどね。カティアちゃんもそうだろ?」


 そう言われて、何かがストンと胸に落ちた気がした。


「そう…ですね…宿の仕事を捨てるのは無理かもしれません」

「だろ?だからカティアちゃんが宿を捨てずにお婿さんを迎える気になったんだなーってちょっとだけ安心してたんだよ。今まではお手伝いさんはみんな女の子だったからね」


 お手伝いを女性ばかりに頼んでいたのは、掃除や給仕という仕事に男性がなかなか集まってくれないだけで自然とそういう形になってしまっただけなのだが、周りから見ると私がそうしているように思えたらしい。小屋でひとつ屋根の下で寝泊まりしてもらうので、一時的に雇用するだけのような身元があまり信頼出来ない男性というのも無意識に少し抵抗があったのかもしれないが。


「お手伝いに男性がいなかったのは希望者がいなかっただけですが…私、結婚する時はここを離れなくちゃいけなくて、宿の仕事を諦めなくちゃいけないと思ってました。お婿さんを迎えるっていう選択肢もあったんですね」


 思いもしなかった選択肢が目の前に急に現れて、頭がふわふわとする。頭の片隅で、この先ずっと一人でやっていけるのかと不安があったから、いつかは宿から離れなくてはいけないと思っていた。でも、宿の仕事を続けながら誰かと暮らすという選択肢もあるのだ。


「そうだよ。何ならうちのメンバーに言ったら何人かは婿候補に残るとか言い出しそうな奴もいるし」

「それはスコットさんに申し訳ないです」

「いやいや、カティアちゃんのお眼鏡にかなうなら大出世だし喜んで置いていくよ」


 水の入ったコップを乾杯するように掲げながらそう言うスコットにクスクスと笑っていると、ふと真面目な顔になって私を見てきた。


「真面目な話、カティアちゃんは可愛いし気立ても良いし、立派に仕事をこなせる人だから、選択肢が沢山あると思うぞ」


 急に褒められてどう返すべきか迷っていると、顔に出ていたのだろう、スコットは軽く笑ってまぁ座りなよ、と私に椅子を勧めた。トレーをテーブルに置いて正面に座ると、スコットは崩して座っていた姿勢を改めた。


「さっき言ったようにここでお婿さんを迎えるという選択肢もあるが、もちろんカティアちゃんが宿と天秤にかけられる程好きになった奴がいればそいつについて行ってもいい。まぁそいつは父親代わりに一発殴らせろとは思うがな」

「そういう人が現れてもスコットさんには報告しないでおきますね」

「えぇーひどいなぁ」


 ひどいのはどっちだ。父親代わりと言ってくれたのは嬉しいが、殴られる方がかわいそうである。


「ごほん、まぁ冗談は置いといて。仮にカティアちゃんがここの宿じゃなくて他の宿でも仕事のやりがいを感じるなら、どこかの宿にお嫁に行くっていう選択肢もあるし、宿じゃなくて例えば料理に特化しても良いっていうなら、それこそ選択肢はめちゃくちゃ広がる。貴族のお屋敷で働くことも出来るし、街には料理を提供する店もたくさんあるし、カティアちゃんの腕があれば店を持つことだって夢じゃないだろう」


 次々と出てくる可能性に目がチカチカする。やはり商人であるスコットは色々な物を見て感じて、知っているからだろうか。その言葉には説得力があるというか、逃れられない魅力を感じてしまう。まだ想像もつかない道の数々にドキドキしながら話を聞いていると、スコットはニッと口角を上げて身を乗り出して言った。


「世界は広いぞ、カティアちゃん」


 そう言うスコットの目はキラキラとしている。商売を捨てられないという先程の言葉に納得出来る。こんな顔を生涯していられるなら、それは何よりも捨てがたいのだろう。


「…私は、本当に狭い世界しか知らないんですね」

「それを悪い事だとは思わないけど、カティアちゃんが現状に悩んでいるなら外を知るのも良いと思うよ。何なら明日このままうちについてくるかい?」

「ふふ、今は遠慮しておきます」

「お、今はって事は少しはその気があるって事だな?」

「面白そうだな、とは思いました」


 スコットについて行ったら別の街や、もしかしたら別の国の宿が見れるのかもしれないとは思った。私の知らない味の料理にも出会えるだろう。それは何とも魅力的に思えた。何より、今私に与えられている選択肢から選ぶだけではなく、自ら選択肢を増やす事が出来るのだという事に心がドキドキとしている。


 そこまで話して酔いが覚めてきたと思ったら今度は眠気が来たらしく、大きく欠伸をしたスコットに寝ることを勧めて私もコップと瓶をキッチンに片付けて仮眠室へ戻った。ベッドにもぐり先程の話を頭で反芻しながら目をつむると、体の疲れも相まってふわふわゆらゆらと夢の中へと落ちていった。


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