28-2. 池のほとり2
「こんなものですかね」
花でいっぱいになったバスケットを満足そうに見ながらクライスがその場にふう、と腰を下ろした。
「中腰の姿勢でずっと作業を続けるというのはなかなかの重労働ですね。城の庭師に頭が上がりません」
「手伝っていただいてありがとうございました。では休憩がてらお茶を入れましょうか」
今まで宿の仕事を割と余裕でこなしていたクライスの疲れた様子にくすくすと笑いながら、もう一つのバスケットに入れて持ってきていた簡易ティーセットを用意する。
「なんと、もう一つの籠はその為だったんですね」
「祖母がいた時は雨季明けも少し余裕がありましたから、お花を摘んだ後はここで一息ついていたんです。外で飲むお茶って美味しいんですよ」
「ここだと景色も良いですし、余計に美味しいでしょうね」
「なんと、こんなものもあります」
ティーセットに続いて紙に包まれたサンドイッチと、小さなジャム瓶とクラッカーを出すと、足を投げ出して座っていたクライスががばりと前のめりになって私の手元に注目した。
「これは豪勢だ」
「二人にも同じものを渡してきているので、ここで朝食にしましょう」
「そういえばまだ食べていませんでしたね」
「クライスさんも食事を忘れるタイプですか?」
「ええ、片付けてしまいたい仕事を優先してそのまま忘れる事も多いです。カティアさんもですか?」
「お客様にお出しする料理の味見で食べた気になって終えてしまう事が多いです」
お互い情けないエピソードを暴露して笑い合いながらお茶を淹れた。今日は日差しも風も穏やかなので食事をとるのに最高な環境が整っている。
「こんな穏やかな朝食をとれるなんて、いっそこの宿に本気で雇っていただきたい気分です」
サンドイッチをかじりながらそういうクライスに笑いながら駄目ですよ、と嗜める。
「お城の人達が困りますし、私も黒こげお肉を量産されてしまっては困ります」
「城の仕事はどうにでもなりますが、お肉は自信がないかもしれません」
「城の方がどうにもならないと思います。というかターニャにクライスさんを取ったと恨まれてしまいそうです」
「いえ、姫様でしたら私を羨ましがって、わたくしも宿で働きますとか仰りそうじゃないですか?」
確かに!…とそんなところで納得してしまって良いのだろうかと思いながらサリタニアのその様子を想像して笑っていると、クライスは最後に指に付いたソースをペロリと舐めてサンドイッチを食べ終わり、ジャム瓶を開けて良いか訊いてきたのでどうぞ、と勧める。外で食べているからか、今日のクライスはいつもの上品な食べ方ではなく、村の男の子のようにぱくぱくと食べ進めている。
(お腹空いてたのかな?もうちょっと持ってくれば良かったな)
ジャムを乗せたクラッカーを美味しそうに頬張るクライスに良かったら全部どうぞと勧め、私もサンドイッチを食べる。ちなみにサンドイッチは今朝ゲイルに作ったものと同じで、ミネストローネのソースを使っている。ミネストローネは残る事があまりなかったので初めて作ったが、これがなかなか美味しい。ホワイトソースと合わせても美味しそうだし、パスタとも合いそうなので宿のメニューに加えても良いかもしれない。
『ごちそうさまでした』
食べ終わり、少し冷めてしまった紅茶を飲みながらお腹を休める為に背中の木にもたれ掛かる。池の方を改めて見ると、いつの間にか鳥が水浴びをしに来ていた。その羽音と森で囀る鳥の声を聞いていると心地よいそよ風が吹いてきた。風に吹かれて水面もキラキラと揺れている。
(あ、これはまずい…)
昨夜はゲイルと話せるかどうかが気になってなかなか寝付けずに少しだけ寝不足気味だった。少し高くなった日にぽかぽかと体が暖められていて、食後の心地よい気怠さと落ちる瞼に抗えない。今日は帰ってこの花を花瓶に分けて飾るだけ。時間に余裕はあるし、少しだけ…
--遠くで声が聞こえた気がした。クライスではない、女の人の声。懐かしい気がしたから、おばあちゃんの声なのかな。もう2年も経ってしまったから、おばあちゃんの声が正確に思い出せない。寂しいな。そのうちおばあちゃんの顔も忘れてしまうのかな。そんな事を思っていると、ふわりと優しく抱きしめられる感触がした。おばあちゃん、心配して会いに来ちゃったのかな。大丈夫だよ、寂しいけど、今はそれだけじゃないから。
今度は遠くでパキン、パキンと何かが割れる音がする。その音は段々と近づいてきて、音がする度に体の中で熱が生まれるような感覚がして少し怖い。音から逃げたいと足に力を入れるが、今自分がどこにいるのかもわからない。嫌だ、助けてと何も見えていない目を瞑ると、一際高く大きい音がして、びっくりして瞑ったばかりの目を見開いた。今度は目に眩しい光が入ってきてここが池のほとりだという事を思い出す。
「…あれ?」
「おはようございます」
クライスが覗き込んでくる。少しだけ夢と現実の境が曖昧なまま、夢の所為でドキドキしている胸を落ち着かせるように大きく空気を吸い込んだ。
「すみません、寝てしまいました…?」
「気付いた時には夢の中でしたよ。寒くはありませんでしたか?」
「はい…あれ、すみません、ジャケットありがとうございます」
眠ってしまった私に、クライスが着ていたジャケットを掛けてくれていたようだ。クライスは細身だがやはり男性の服は大きく、私が掛けていたことで地面についてしまっていた裾を軽くはたいて返す。
「片付けも全部やらせてしまってすみません…」
「いえいえ、大したことはしていません。カティアさんも、それほど長い時間は眠っておりませんでしたので」
どうやら短いうたた寝だったらしい。確かにまだ日も高いし、先程水浴びをしていた鳥もまだ池で羽を休めている。
「もう少し休んでいかれますか?」
「いえ、心地よくて寝てしまっただけですので。ターニャ達も心配するでしょうし、帰りましょう…った…」
立ち上がろうと手を地面につけたところで、指先にピリっと鋭い痛みが走った。何だろうと指先を見ると、切れて血が出ている。
「どうしました?」
「何かにひっかけて切れてしまったみたいです。傷も浅いので大丈夫ですよ」
失礼、と心配そうな顔で私の手首を掴んで傷口を確認された。綺麗な手ではないのでそんなにまじまじと見られると恥ずかしい。
「仰るとおり浅い傷ですが、化膿したら大変です。宿に戻ったらきちんと治療しましょう」
そう言ったクライスがポケットから出したハンカチを私の指に巻こうとしてきたので、慌てて出来る限りの力で掴まれた腕を自分の方へ引き戻す。
「駄目ですよ、汚れます!」
「ハンカチなど汚れを拭くためのものでしょう?」
「それはそうですけど、そういうのはもっと庶民的なハンカチを使います!私も持ってますから!」
これ絶対高いでしょう?という光沢のハンカチに血の染みなどつけるわけにはいかない。汚したからと、私が弁償出来るものではないだろう。自分のハンカチを出すべくスカートのポケットに怪我をしていない方の手を入れたところで、引き戻したばかりの腕を掴まれて引っ張られたかと思うと、何ということか、クライスの肘と体に挟まれた形で固定された。驚いて腕を引くがびくともしない。
「大人しくしていてください。弁償しろなどと言いませんから」
考えている事などお見通しと言わんばかりに睨まれつつ指にハンカチを巻かれた。
「止血の為に少しキツく巻いてますから、指先が痛くなってくるようでしたら言ってくださいね」
「はい…ありがとう、ございます」
距離が近すぎるこの状況が恥ずかしすぎて目を合わせられずにお礼を述べると、それに気付いたクライスはぱっと腕の力を緩めてくれた。
「手荒なやり方で失礼いたしました」
「いえ、私こそすみません…」
「…それにしても、何で怪我をされたんですかね?」
くるりと背を向けて私が座っていた場所を探り始めたクライスは、うん?と声を漏らすと何かをつまみ上げた。
「何かありましたか」
「……」
私の問いに答えることなく拾い上げたものを見つめているクライスに少しだけ不安になって私も彼の手元のものを見ようと覗き込むと、それは真っ二つに割れた石だった。
「え、私、お尻で割ってしまいました…?」
「そんなわけないでしょう」
こちらはふざけたつもりはないのだが、じとりと呆れた目を向けられてしまった。
「ですが、自然のものとしては若干不自然な形で割れているように思います」
「あ、そういえば…」
「何か心当たりが?」
「夢かと思っていたんですが、うたた寝をしている時にパキン、パキンって音が聞こえてた気がします。あと、そういえば昨日の朝に魔獣が出る直前も…」
「何か聞こえたと仰ってましたね。あの時は魔獣が近づく音にいち早く気付かれたのかと思ってましたが…同じ音だったんですね?」
「おそらく…ですけど」
ふむ、と立ち上がって割れた石を見ながらクライスは考え込んでしまった。こういう時は話しかけない方が良いだろうとじっと待っていると、ぽつりと頭に冷たい感触がした。
「あれ…雨?」
「え…」
私が空を見上げながら呟くと、その声にクライスも視線を上に上げた。先程までは穏やかに晴れていた空に黒い雲が一気に増えてきている。
「大変、通り雨です!急いで森に入りましょう。ここよりは雨が凌げるはずです」
大慌てでバスケットを回収して森に駆け込み、そのまま小走りで宿へと帰路を急ぐ。雨脚は早く、森の木々が少しは防いでくれるが宿に着く頃にはびしょぬれになっていそうだ。
「普段は雨季明けにこんな雨降らないんですが…外套くらい持ってくれば良かったですね」
「カティアさん、カティアさん、一度止まっていただけますか」
「え?濡れちゃいますよ?…てあれ?」
足を止め振り返ると、まったく濡れていないクライスの困り笑いの顔があった。
「カティアさん、雨避けの魔石はお持ちではないですか?」
「あ…外で無くしたら嫌なので、宿の中でしか着けてません…すみません」
クライスは雨避けの魔石を身に着けているようだ。そうだ、こういう時の為のものなのに、無くしたら嫌だとか感情的な理由で置いてくるなど、折角作ってくれたクライスに申し訳ない。
「無くしたくないと思っていただけるのはとても嬉しいですよ。ただ、それを理由に濡れて風邪をひかれてしまっては私も悲しいですし、無くしたらまた新しいものをお贈りしますから、使う使わないは置いておいて出来れば持ち歩いてくださいね」
「…はい」
もっともな事を言われてしまって頷くしかない。
「それで、ですね。この魔石は所持者が触れている範囲にも効力を発揮しますので、差し支えなければ、焦ってお一人で回収して両腕で抱えているバスケットを一つ私に預けていただいて、その、お手を、出していただければと…」
「おてを…?」
一瞬何を言われているのかわからず、頭の中でクライスの言った事を反芻する。ええと、雨避けの魔石は触れているものにも効力があって、両手で抱えるバスケットを一つ手放して、空いた私の手を出せと言う事は…。
「手を、繋いでもよろしいですか」
私が理解していない事が伝わったのだろう。大変分かりやすい言葉で言い直してくれた。手を繋ぐなんて、小さい頃に祖母やミゲルと繋いだくらい…あとカイルが小さかった時は、森を歩くのに危ないからと手を繋いだような記憶があるが、それくらいだ。同年代の男性と手を繋ぐなんて初めての事で、どういう態度で答えれば良いのか迷っていると、クライスが少し強めの声で再び尋ねてきた。
「カティアさん、だいぶ雨脚が強くなってきています。よろしいですか」
「よっ…よろしいです!」
はっとして若干混乱した頭のままオウム返しに返答すると、では、とバスケットを一つ回収され、空いた手を握られた途端に先程まで感じていた雨の感触はなくなる。ハンカチはもう使ってしまったからと、ジャケットの袖口で髪についた水滴を拭われた。
「ジャケット濡れちゃいますよ」
「少し前に寝込んだ人が何を仰います」
「濡れたくらいならいつも大丈夫ですから…」
結局クライスが満足するまで拭いてもらい、宿に向かいましょうという一言で再び歩みを進め始めた。手を繋いでいるので自分の歩幅や歩くペースが掴めない。雨避けの魔石は濡れるのを防いでくれるだけなので、急な雨で冷えた風は防いではくれず濡れた部分が一瞬肌寒く感じたけれど、繋いだ手から温かい体温が伝わってきて、その事実にすぐに暑いくらいになってしまった。
頬が熱い事に気付かれませんように。速い鼓動が伝わりませんようにと祈りながら、雨音に集中して気をそらす。クライスへの気持ちに気付いた時のような、辛かったり不安に思う気持ちはうまく隠せていたと思う。でも、嬉しいという気持ちは何倍も隠すのが難しいという事を、今日始めて知った。




