死と約束
娘と猫の交流が始まって半年。
その間に娘は何度か領主に呼び出され、屋敷からぐったりして帰ってくることがあった。
命を削って治癒を行なったのだとひと目で分かったが、今の猫にはどうしてやる事もできない。
ただ戻ってきた娘の荒れた指を舐めてやる事しかできなかったが、娘はそんな些細なことでも嬉しがった。
そのか細い笑みが哀れで、猫は己の選んだ今の境遇を初めて悔やんだ。
そしてその朝、事件は起きた。
猫がいつもの木の枝でうとうとしていると、屋敷のほうが騒がしくなり、男が使用人たちとともにやって来た。
娘は昨夜遅くに屋敷からぐったりして戻り、まだ起きてきていない。
よほど疲れているのだろうと思っていたが、騒ぎで起こされたのか昨日の服のまま小屋から出て来た。
「ご主人様、何かあったのでしょうか」
「何か、だと!? お前が寝ている間に、また妻が熱を出したのだぞ! 手を抜いたのだろう! お前が、お前のせいで!」
男はわめくと娘に掴みかかり、頬を打って地面に倒す。
その瞬間、猫は男と娘の間に飛び込んだ。
シャ───ッ!!
全身の毛を逆立て、怒りの声を上げる。
が、男は気にした様子もなく猫をにらむと蹴飛ばした。
「なんだこれは!」
「おやめください! ただの猫です!」
蹴飛ばされ転がる猫を娘がかばう。
しかし男の怒りは収まらなかった。
「なぜ猫がこんなところにいる! 勝手に屋敷に入れたのか!」
「申し訳ありません! 申し訳ありません! ですがこの馬小屋の辺りにいただけです、猫はネズミを捕まえますので、役に立つかと思い。どうかお許しください!」
「この……!」
男は娘を無理やり起こし、突き飛ばすと猫を持ち上げた。
「おやめください、ご主人様!」
娘の悲痛な声に男はにたりと笑うと大きく腕を振り上げ、猫を壁へと放り投げた。
大きな音と衝撃。
彼の最後の記憶は、泣きながら走り寄ろうとする娘と、それを許さず娘の腕を引っ張る男の姿だった。
『ああ、泣かないで。大丈夫だから。また会いに来る。助けに来るから……』
もう口にできない、言葉にされる事のない、それは約束。
娘とではない、自分との約束だった。
彼が目を開けると、そこはいつもの何もない空間だった。
自分を見ると、ちゃんと手がある。
人の手だ。
そして人の体。
あの瞬間この体があれば、彼女を救えただろうか。
だがここへ来たという事は、また彼の人生が始まるという事だ。
最初からまた。
それは、彼女を助けられる可能性があるという事。
考え込んでいると、声がした。
「見つけましたか?」
顔を上げると、女神がいた。
いつも何も言わない女神。
初めて女神が発した言葉に、彼はしかし答えなかった。
女神が微笑み、繰り返す。
「見つけましたか? あなたが愛せるもの、生きる理由になるものを」
愛せるもの。あの娘がそうなのだろうか。
分からない。
愛という感情は彼にはあまりに馴染みがなさすぎた。
だがあの娘を助けてやりたいとそう思う。
それは生きる理由にはなるのかもしれなかった。
「あの子を見つけて欲しかったのか」
女神は首を振った。
「いいえ」
何を気にしたふうもない、無感情な返事に男は苛立った。
「俺は時々、あんたは自分の事が嫌いなんじゃないかと思う事がある」
「わたしが、わたしを、ですか?」
「そうでなきゃどうしてあんたや、あんたが大事にしているものを傷つける人間を放って置くんだ。そんなこと、自分がどうでもいい、自分が嫌いな奴しかしないだろう」
「そうでしょうか」
「ああ。でも今日、そうじゃないかもって思ったよ」
女神は微笑みながら首を傾げる。
それは困っているわけでも疑問を感じているわけでもなく、先を促しているのだと、彼はそう感じた。
「俺があのクソ野郎を殺しても、あんたはきっと何もしないし何も言わない。そうだろう?」
女神は何も言わず、ただ笑みを深めた。
愛情深い、思いやり溢れる微笑み。
男はそれに獰猛な笑みを返す。
「生まれて初めて、あんたの事を好きになりそうだ」
くすくす、と女神は笑う。
男の意識は次第に薄れていった。
また始まるのだ。
女神の言葉が聞こえた。
「わたしは最初から、あなたの事が好きでしたよ?」
ああ知っているさ、と男は意識の中で返して、そして暗闇の中に飲み込まれていった。