幕間:巨怪の夢
「さればこの巨怪の無明の顎に入り来たるその他のものは、獣にもあれ、舟にもあれ、岩石にもあれ、悉皆選ぶところなくかの汚らはしき彼奴が食堂の大暗梁を堕ちゆきて、底ひも知れぬ胃袋の深淵のうちに朽ち果つる」──ホランド訳ヅルタルコス 『道徳論集』
「インド洋には魚族中の最大最偉なるもの棲息す。なかにも、鯨およびバレエネと呼ばれる大魚は、軀幹の長さ、土地四エーカーないし数アルバンに匹敵せり」────ホランド訳 ブリニウス
「みよやかしこを、讃えよ、歌えよ。
『鱗ある民』の王者の讃歌を。
大西洋は広けれど
彼よりも豪強き鯨は復たあらじ。
北極海を荒れめぐる、この魚ぞ
比倫なき偉大なる魚」
「その日エホバは硬く大なるつるぎをもて、疾走るへびリヴァイアサン曲がりうねるへびリヴァイアサンを罰し、また海にある鰐をころし給ふべし」──イザヤ書
「神、巨いなる鯨を創造りたまへり」──────創世記
それに、自我と呼べるようなものは、過去のどの瞬間、どの時代を辿っても、存在しなかった。
それにあるのは、希薄な生存本能と、膨大な食欲だけだった。
大海の遥か深潭、底知れぬ奈落の底の水と汚泥、そして腐蝕した骸が、彼にとっての天幕であり寝台であった。
餓えを覚えれば≪上≫へ行き、その盲目で捉えたものを片っ端から食らう。
腹が満ちれば≪下≫へ帰り、また、長く深いまどろみにつく。
そんな、決まりきった緩やかな日常は、だが、僅かに乱されていた。
彼の希薄な意識では考えつくはずもない事ではあったが………人間の言葉で表すのなら、彼は、酷く困惑していた。
なにかが、ちがう。
≪前回≫とは、なにかがちがう。
そのわずかな違和感と不快感は、彼の脆弱な脳味噌を混乱させ、だが、それ自体が大した権力を持っていないがために、何も起きることは無く。
豆粒ほどの脳を苛立たせながら≪上≫に辿り着いた彼は、そこまで来てようやく、所以の知れない憤怒と不快感の正体に思い当たった。
──────不快な、≪匂い≫がする。
不快な≪匂い≫!
不快な≪匂い≫!!
不快な≪匂い≫!!!
あいつらだ!!!
あいつらがいる!!!
あいつらの匂いがする!!!
あの、熱くて痛くて、何よりもマズい、あいつらが!!!
はらわたが煮えくり返る。
脳味噌が震える。
総身の筋肉と骨が鳴動し、戦慄き、いきり立つ。
もとより見えない眼の前が真っ赤に染まり、全身の細胞が声高に復讐を叫ぶ。
殺せ!
殺して喰らえ!!
腹立たしく、なによりも許しがたいあいつらを!!
原始的な怒りと食欲の奔流の真っただ中で、大口を開けて獲物目がけて突っ込んでいく。
抹香鯨が巨大かつ強靱なその頭蓋を以て、極海の流氷を砕いて遊泳する様に似た突撃は、《餌》を捉えて粉々に打ち砕く。
その確かな手応えを感じながら、彼は、久方ぶりの《上》に咆哮を轟かせた。
彼──────あやかしと呼ばれた海魔は、酷く怒っていたのだ。




