咬殺の夜に
夢を、見ているようだった。
死にかけの体を意地だけで動かし、毒にやられて霞む視界は、うすぼんやりとした影を映すだけ。
手指の震えを堪えて繰り出した切っ先は、しかし何の手ごたえも返さない。
陽だまりのような匂いを追って突き込み、溢れかえる血反吐の臭い。
手傷を負わせはしたが、仕留めた感覚がない。
まともに目が見えず、感覚のほとんどを耳と鼻に頼っている今、俺は相手がどこにいるのかまるで分らない。
初撃こそ命中させたが、シーザー様の奇跡を考えれば、すでに回復されているはず。
なんかもう笑えるくらい不利だが、それでもやるしかない。
腰を落とし、半身に構えて。
「少しぶりですね、クロさん。元気してますか?」
「オッ、ラァ!!」
「おっとっと」
声のした方を薙ぎ払って、肩に奔る熱。
空間に反響して、からかうような笑い声が聞こえる。
「危ないですねぇ、人の話くらい聞いてくださいよ。なんで私がナナさんを殺そうとしたのか、とか、私の目的がなんだったのか、とか、色々聞きたいこととか無いんですか?」
「………」
「あらあら、だんまりさんですか。それじゃ、私も好き勝手にやらせてもらいますね」
どうする?
どうすれば、シーザー様を殺せる?
いくら俺の鼻が利くと言っても、病毒に侵されたこの状況では、相手の位置を掴めるほどの正確さはない。
空気を媒介にする嗅覚の性質上、必然的に発生する一瞬の遅れは、シーザー様のような手練れにとって十分すぎる隙となる。
聴覚すら当てにならない以上、正確な攻撃は不可能。
範囲攻撃で吹き飛ばそうにも、相手の防御力を考えれば凌がれる可能性は高い。
勝ち目があるとすれば、肉を切らせて骨を断つ、いつも通りのカウンター戦法か。
幸い、シーザー様の攻撃にそこまでの高火力技はないはず。
とどめを刺しに来たところで組み討ちに持ち込んで殺すしかな。
「あっ、言っておきますけど、私、クロさんに近づく気はないですよ?火事場の馬鹿力で一発逆転とか、目も当てられませんし」
「………読心術の類ですか」
「さぁ、どうなんでしょうね?………というか、1つ聞いていいですか?」
「………なんですか?」
「なんで、私が裏切り者だって分かったんですか?いえ、証拠も特に残してないはずですし、バレるようなことをした覚えもなかったので」
「………そう、ですね。確かに、決勝戦最後のあの攻撃が無ければ、俺も気づけませんでした。ですが、小さな違和感はいくつかありました」
お嬢様を抱えていた変態は例外としても、攻撃を受けたのがシーザー様とヴァルハリエ家のメンバーだけだったこと。
いつかの廊下でシーザー様を殺そうとしたときに感じた、諦観に似た絶望混じりの怖気。
俺に出した聖剣の回収命令を誰も覚えていなかったことや、龍に通じる威力の、洗脳じみた思想誘導。
生半可な魔術や遺物では不可能なそれすらも、自分の想うがままに現実を捻じ曲げる夢喰い狼の権能は可能にする。
そして、何よりも。
「確信したのは、あの武器から貴女の匂いがしたときですね。本当に僅かな、微かな匂いの残滓でしたが、貴女を疑うには十分でした」
「………なんていうか、遠回しに臭いって言われた気分なんですけど。私これでも一応」
「勇者、なのでしょう?」
獣が、笑った気がした。
「…………あっちゃ~、そこまで気づきますか。これだから変に賢い人は嫌いなんですよ」
「フィリアのツテを使って、関連する伝承の情報を集めてもらいました。聖剣エッケザックス、ただ硬くてよく斬れるだけの包丁に、何故、あんなバカみたいな魔力を要求する機構がついているのか不思議でしたが………変幻自在の聖剣、とでも言えばいいのでしょうか?持ち主の意のままに宙を舞い、龍の牙で造られたが故に、あらゆる装甲を無効化する、万能の武具。ここまで特徴が似ていれば、俺でもなんとか気づけます」
「それだけじゃないんですけど、まぁ、そういう事です。………そろそろ続きします?クロさんも、多少は回復したみたいですし」
ぼやけた視界に、中段に構えられた聖剣の切っ先が映る。
バレてたか。
もう少し回復したかったが、仕方ない。
大槍を構え直し。
「そうですね。欲を言えば全快しておきたかったのですが………貴女を殺すなら、これで十分でしょう」
「言ってくれるじゃないですか!!」
脳天を穿つ衝撃。
のけぞりかけて気合で耐え、白く爛れた視界を過ぎる銀の影。
やみくもに薙ぎ払った穂先が空を切り、膝裏に熱が奔る。
崩れ落ちかけながら石突で真後ろをぶっ叩き、金属塊が地面を弾く。
ことごとく攻撃が空振るが、想定の範囲内。
焦らず慌てず、半身に構えて。
「半人半獣!!」
「付呪・牙、旋斬撃」
踏み込み、あたり一帯を薙ぎ払う斬撃。
回転の勢いと腰の捻りを加えた続けざまの逆袈裟切りが、何か堅いものに弾かれる。
直感に従って身を翻し、顔面に吹き付ける風圧と轟音。
前に突き出した槍がギンッと澄んだ音を立てて軽くなり、どてっぱらに激痛。
左手に黄金の大剣を携えた狼が、俺の腹に右腕を突き立てていた。
ぐちゃりと内臓を掻きまわされて、しかし捕まえた。
拳を握りしめて。
「戦狼!!!」
渾身の鉄拳ごと腕を引き裂かれ、構わずに振り抜いた拳が相手の顔面を捉える。
短くちぎり取ったような悲鳴。
軽く小さな体を殴り飛ばし、傷口を疑似再誕で復元。
熱を帯びた息を吐いて、突撃し。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな!!天にまします主よ!!その名、その力、その威をもって、汝が信徒に剣を与え給え!汝の権能と威力を以て、敬虔なる信徒らを祝福し給え!聖浄なるその御光を以て、我が敵を打ち滅ぼし給え!!」
見上げた世界を埋め尽くす、黄金の煌めき。
高々と掲げた聖剣に渦を巻いて収束する光芒。
膨大な光の奔流を黄金の刀身が飲みこみ、閃光が瞬き。
「我らの主たる、神を崇めよ──────極大無双撃!!!」
金色の星空を思わせる刺突。
もはや砲撃じみたソレを死ぬ気で回避して、左腕と左足を消し飛ばされた。
疑似再誕を使って脚だけ生やし、大上段から叩き伏せる一撃。
頭をカチ割られる寸前で飛び退いて、黄金の刃が首を刎ねる軌道を描く。
よろめくように一歩前に出て、右拳がシーザー様の脇腹に突き刺さる。
一気に仕留めようと振り上げた拳が、銀色の閃光に引き千切られた。
獣化した真っ白い蹴爪にへばりつく赤い血肉。
構わずそのまま振り下ろし、焼け付くような痛み。
違和感を覚えて手を見れば、掌の半ばまで肉を食い千切られていた。
赤黒く血を零す人体の断面図と、骨を砕き、肉を咀嚼する、耳を塞ぎたくなるような悍ましい音。
だからどうした。
即座に手を修復して武具創成を発動。
棘鉄球を振りかぶって。
「熱死球」
「輝ける宮の御盾は、いみじくも此の身を護りたまう!!」
黄金の障壁が一投目をたやすく防ぎ、爆炎に紛れるように放った二撃目が当たらない。
懐に手を突っ込み、まさぐりあてた金属円環に指を通す。
無数の小鉄杭をワイヤーで連結したソレを、ジャラリと広げて防御を固め。
「さすがにコレは喰らうでしょう?」
「マジですか!?」
全速力で突撃し、力づくで障壁を突破。
肉食獣がそうするように引き倒してマウントポジションに。
顔面に突き立てられる爪を気にも留めずに、咥えたピンを引き抜いた。
総重量3,8キロの魔導刻印式高圧縮炸薬は、民家程度なら跡形もなく消し飛ばす威力を持つ。
暴力的な音圧が耳を塞ぎ、内臓を揺らす衝撃波。
並の人間なら砕け散っているところだが、ここにいるのは狼と龍で、案の定、噴煙を突っ切って突っ込んでくるシーザー様。
左足で蹴っ飛ばして、それすらも足場にした跳躍。
高く高く、見上げるようなソレを頭上に、拳を構えて。
「襲狼!!」
「付呪・爪」
不可視の魔力刃を纏ったテレフォンパンチを、逆巻くような軌道の蹴りが砕いた。
咄嗟にガードした腕を大きく弾かれ、虚空を蹴って加速した空中回し蹴り。
ミシリと首の骨がイカれる音が響いて、明滅する意識を気合で持ち直す。
インパクトの反動で硬直した脚を掴み、思いっ切り踏ん張って。
「シャっ、ラァ!!」
悲鳴すら上げさせずに地面に叩き伏せ、引っこ抜いてまた叩きつける。
きつく食い縛った口元が何かを詠唱しかけ、喉が震える前に叩き潰す。
これ以上何かされる前に、封殺して。
「う、ぁあああぁぁ!!!」
幾重にも連なった斬撃音と、千切れて宙を舞う右腕。
傷を庇って飛び退り、肩で荒く息を吐くシーザー様。
折れた肋骨が肺に刺さったのか血反吐を零し、なおも牙を剥き出しに笑う口元。
獣化した銀色の腕には、金と灰色の、二振りの剣が握られていた。
疑似再誕で腕を生やして、世界が揺れる。
吹き飛ばされ、仰向けに叩き伏せられて、体の奥からザシュッと鈍い音。
まるで昆虫標本をピンで留めるように、俺の腹を双剣が貫き、伸ばした右手が肩口から喰いちぎられた。
内臓を掻きまわしながら刃が引き抜かれ、深く抉り込まれる。
目があった。
まるでいつかのナナのような、金色の狼の眼と。
瀕死の獲物を前に嗤う、獣の眼。
「古き灰の爪──────まさか、これを使わされるとは思いませんでしたが、もうクロさんに、勝ち目はありません。出来れば、このままおとなしく死んでくれませんか?あまり苦しめたくないので」
「………そんなふざけたことを言われて、はいそうですかと」
「私は本気ですよ?この後でリーンさんとナナさんも殺さなきゃいけませんし、クロさん相手にムダに消耗したくないんです。ナナさんは不意討ちで殺せそうですけど、リーンさんは普通に強そうですし………疲れた時に仕事するのって、だるくないですか?」
「殺す」
「殺せます?」
全力で蹴りを叩きこみ、手応えもなく吹っ飛んでいく、小さな体と灰色の剣。
腹に刺さったままの聖剣を引っこ抜いて担ぎ、特攻。
突撃の勢いを乗せた刃を細身の刀身が受け流し、真下から切り上げる連撃と切り結ぶ。
力任せにギリギリと押し込み、弾き飛ばされた。
一瞬の隙を縫うような刺突を受け止め、跳ね上げて。
「ねぇっ、クロさん!どうやって私を殺す気なんですか!?殴りますか!?斬りますか!?潰しますか!?一発逆転を狙って、息吹でも使ってみますか!?いいですよ、全部正面から磨り潰して、殺してあげます!!」
「舐めんなよ、ガキが」
「舐めませんよ、ばっちいですし。というか、クロさんもガキですよね?」
「殺す!!」
横薙ぎに剣を振るい、真下からの強襲。
思いっ切り体をひねって刃を受け止め、爪の一撃をかろうじて受け流す。
正拳突きを叩き切ろうとして、蛇のように軌道を変えたソレに肘を叩き壊された。
身体強化で強引に腕を振り抜き、裏拳をもろに喰らう。
鼻をぶっ潰され、ヤケクソ気味に蹴り上げた爪先が相手の腹に入った。
悶絶するシーザー様の顔面を殴り、肉が潰れ骨が砕ける感触。
抉るように撃ち抜き、のけぞって倒れる小さな体。
心臓を締め上げる罪悪感を振り払って。
身を翻して躱そうとした、その脇腹に、聖剣を突き刺した。
頭が痛くなるような絶叫と血飛沫。
2人分の血に濡れた黄金の刃を引き抜き、体重をかけて抉り込む。
研ぎ澄まされた不滅の切っ先が肉を裂き内臓を掻き混ぜる、湿り気のある不快音。
突き込み、抉るたびに、熱を帯びた生命が、小さな体から流れ出ていく。
尋常じゃない量の血反吐をまき散らす、俺の妹と同じ顔。
念入りに掻き混ぜ、撹拌し、途切れ途切れの末期の息を漏らす、その喉笛を照準し。
「………ク、ロ、さ…………待っ」
「死ね」
深々と突き刺した聖剣が、細く白い首を刎ねた。
意外なほど軽く宙を待った銀色のソレが地面に落ちて、バターの塊を落としたような、水っぽく鈍い音。
ズタズタに千切れた真っ白い軍服と、本来なら首があってしかるべき場所に、墓標のように突き立つ黄金の大剣。
無数の宝石と装飾を施された聖剣に、流れたばかりの赤が、不気味なほどよく映えていた。
このまま倒れ込んで死体のように寝てしまいたいが、まだ仕事は残っている。
接着剤で固められたように固く柄を握りしめたままの右手を苦労して引き剥がし、立っていられなくなって崩れ落ちる。
最後の一瞬、骨にこびりつくように響いた、親しかった人の首を斬る感触。
喉の奥からこみあげて来る物があった。
震える手を地面について胃の中身を吐き散らし、粘膜をひりつかせる胃液さえも吐いた。
鎖骨が痛みを訴え、眼の奥で熱いものが充満するまで吐いた。
顔面の穴という穴から体液を垂れ流し、涙に歪んだ視界に、影が落ちる。
うずくまったまま、上を見上げて。
「クロさんって、意外と騙されやすいんですね」
ゴッと鈍い音がして視界が揺れる。
視界に銀影がよぎり、腹を抉られた。
裂けた肉の合間から内臓が零れ落ち、黒水晶の床を赤黒く濡らす。
金色の刃が独りでに飛翔し、宝石の鏤められた柄を握る、小さな手。
血濡れた口元が、白い牙を見せつけるように吊り上がり、肩口で切りそろえられていた銀髪が逆立って宙に靡く。
よく晴れた夜の突きを思わせる、金色の、獣の眼。
「なん、で、生きて」
「目有りて見えざる者………その人が望んだ幻影を見せるだけの、夢喰い狼の権能です。ちゃちな技ですけど、結構便利なんですよ?」
「疑似、再た」
「聖律神話・大磔刑」
傷を塞ごうとした俺を吹き飛ばす、極大の衝撃波。
岸壁に叩きつけられた俺の肩を、人の腕ほどもある鉄杭が貫いた。
神経を擦り切られるような激痛に悲鳴を上げ、それさえも、どこか他人事のように、やけに非現実的に感じられた。
涙に揺らぐ視界に映る、
「…………ナ、ナ?」
「ナナですけど………クロ兄さん、どうかしたんですか?」
いつも通りのメイド服と、銀色のショートヘア。
ふさふさの尻尾が揺れ、キョトンとした青色の眼。
不思議そうにコテンと傾げた頭の上でピコピコ動くオオカミ耳の間に、ちょこんと乗っかったホワイトプリム。
少し前まで白無垢だったエプロンは、端の方に、デフォルメされたコウモリとオオカミのアップリケがついていた。
微笑ましい光景だが、状況を考えれば異常も異常。
死にかけの体に鞭を打ち、杭を引き抜こうとして。
「あ、そうだ。クロ兄さん、私、クッキーを焼いてみたんです。ご主人様に食べてもらう前に、味見してもらっていいですか?」
愛しい妹のソレにそっくりな、だがわずかに、古くなったシロップのような、不快な粘り気を帯びた声。
気のせいか、鐘の鳴る音がする。
『急いて登れ、また降りてこい。鐘はロンドン撞いて数鳴らせ』
「大丈夫ですか?クロ兄さん、最近無茶ばっかりしてますし、今日はもう、甘いものでも食べてゆっくり休んでください。一日くらいなら、私とフィリアさんとで何とかやれますし」
心配そうに揺れる瞳と、いつものナナと同じ、気遣うような声。
「わかった」と言いかけて、頭が酷く痛む。
遠くから、鐘の音が聞こえる。
『オレンジとレモンと、セントクレメンツの鐘が鳴る』
「どうです?ちゃんと美味しく焼けてますか?」
不安そうな、少しだけ期待するような、ナナの声。
「美味しいですよ」と言いかけて、もごもごと動くだけの口は言葉を為さない。
鐘の鳴る音が聞こえる。
『半ペンス返せと、セントマーチンの鐘が鳴る』
「そういえば、最近ご主人様から首輪を貰ったんです。対抗戦で頑張ったから、ご褒美にって。コレ、似合ってますかね?」
嬉しそうに弾んだ声と、鼻に香る、陽だまりの匂い。
「似合っています」と言おうとして、なにも、何も見えない。
少しだけ大きくなった鐘の音。
『いつ返せるかと、オールド・ベイリーの鐘が鳴る』
「………ねぇ、クロ兄さん。最近よく思うんですけど、私って、すっごく幸せな女の子だと思うんです。ご主人様がいて、クロ兄さんがいて、カティア様がいて、アマナちゃんがいて、ミカさんとアサカさんも、すっごく良くしてくれますし」
古びた座椅子に腰かけて、少し照れたようにはにかむナナ。
その儚げな声音に何か答えようとして、口が動かない。
鐘の音が鳴り止まない。
『ある時返すさと、ショーディッチの鐘が鳴る』
「あの日、お屋敷の前でご主人様に拾っていただけなければ、私は道端で野垂れ死んでいました。クロ兄さんにいろんなことを教えてもらったおかげで、ご主人様に褒めてもらえました。この服も、生活も、食べるものも、ベッドも、なにもかも全部、私は、皆様に貰ったんです」
俯きがちに言い終えたナナが、言葉を探すように押し黙った。
迷うように揺れる銀色の耳と、そわそわと落ち着きなく揺れるオオカミの尻尾。
少し冷めた紅茶を啜り、次の言葉を待つ。
割れるような鐘の音。
『それはいつだと、ステファニーの鐘が鳴る』
「だから、お願いです、クロ兄さん。私がいつか、皆に恩返しができるようになるまで、私を助けてくれませんか?皆に助けて貰った分、皆を助けられるような、そんな人になりたいんです」
落ち着いた口調の中に、それでも確かな決意をにじませた、ナナの声。
「もちろんです」と言おうとして、紡ぎかけた言葉が解れて消えていく。
叩きつけるような鐘の音。
『しったことかと、ボゥの大きな鐘の音』
「…………少し、話し過ぎちゃいましたね。だいぶ疲れてるみたいですし、クロ兄さんはもう眠っちゃってください。後は全部、私がやっておきますから」
ナナの声は、もはやほとんど聞こえていなかった。
やわらかいベッドに体を横たえ、ゆっくりと沈むこむような、包みこまれるような感触。
目を閉じて、呼吸音が、次第にゆっくりと落ち着いたものに変わっていく。
重く労働を拒む体に任せて、脱力した。
頭の奥で、鐘が鳴る。
酷く優しい、鐘の音が。
「ベッドに行くにゃローソクの灯を、首ぶった切るにゃ大斧を」
「………さて、と。おはようございます、クロさん、いい夢は見れましたか?まだ寝足りないですか?眠いなら、あと少し寝ていても大丈夫ですよ?」
「…………そうですか」
「では」
「おやすみなさい」
鈍く重い音が一度だけ響いて、暗転した。
「情けないな、お前」
粘ついた水の中にいた。
一寸先も見えない黒々とした影の中、ひときわ黒く立つ、一人の男。
ヘドロのようなべたついた黒髪と、ハイライトを喪失した黒い目。
ニヤニヤと汚らしく笑う、1人の男。
「お前たちのせいだぞ。お前たちのせいで、コイツが死んだ」
「ここはどこだ?」
「救える方法も、きっとあっただろうよ。助かるチャンスはいくらでもあった。説得することだってできたはずだ。コレは、そうしなかったお前が招いた事だ」
「さっきから、何を言って」
「この期に及んでわからないフリか?ならわかるように言ってやるよ。コイツを殺したのはお前とコイツ自身だ。他の誰でもなく、誰のせいでもなく、お前たちが殺した。お前たちのせいで死んだ。……………そりゃ確かに、コイツのせいで俺の妹は死にかけたさ。
だが、殺す必要はなかった。殺される必要もなかった。
ただ助ければよかった。助けを求めればよかった。
手を伸ばさなかったのも、手を差し伸べなかったのも、お前らだ。
コレは、その報いだ」
「お前。何を」
「これで終わりだ。さっさとくたばりやがれ、ウジ虫野郎」
血だまりの中で、目が覚めた。
肉と血の海から顔を上げ、眩暈がするほどの血の臭いにむせて。
「ちょっと、じゃまです、どいて、ください」
掠れた抗議が耳をついた。
自分の真正面に、妹と同じ顔の少女がいた。
いつの間にか青色に戻っていた目は片方が潰れ、半ばから千切れた狼の耳。
銀色の髪はどす黒く血で固まり、ほとんど千切れてぶら下がった右腕。
両足の先から伸びた血痕は、片方は遠くの方で潰れたミンチに、もう1つは俺の足元の肉塊に繋がっていた。
全身の肉を削がれ、喉笛を食い千切られ、脇腹に風穴を開けて、それでも、相手は生きている。
酷く重い右腕を振り上げて。
「だいじょうぶ、ですよ。もう、なにもありません。完敗です」
「…………それが信じられると?」
「信用、くふっ、されてない、ですねぇ………。クロさん、ちょっとだけ、私を抱えてくれませんか?」
「お断りします」
「酷い、ですね。いたいけな少女の最期のお願いくらい、快く聞いてくださいよ。………今、すごく良い気分なんです。このまま終わらせてください」
「………かしこまりました、シーザー様。」
ぬるりと濡れた壁に背を投げ出して、甘えるようにもたれかかってきた体を抱きとめる。
随分と小さくなった体に腕を回し、小指の欠けた左手が、俺の頬を撫でた。
鉄錆の臭いを帯びた、心底満足したような吐息。
「なぁんだ、怪物のくせして、やさしいじゃ、ないですか」
「怪物、ですか?」
「私をこんな目にあわせておいて、覚えてないんですか………?まったく、酷い人ですね」
「………俺は、俺のすべきことをしただけです」
「………まぁ、いいです。そういう事にしておいてあげます」
揶揄うような笑みを漏らすシーザー様が、直後、異様な量の血を吐いた。
揺らいだ体がそのまま地面に転がり、ビチャビチャと音を立てて血だまりが広がる。
青い狼の目は、異様にキラキラした輝きで、虚空へ向けられていた。
血に惹かれたのか、緑色の燐光を纏った魔喰虫があたりに漂い出す。
所詮は譫妄状態の、瀕死の戯言だ。
赤く濡れてなお白く細い喉が震え、黒く凝固した血を吐き出す。
ぬらりと色めいた唇が、微かに開き。
「ほんと、酷い人です」
「………くろ、さん」
「ありがとう、ございました」
「あぁ」
「いい、夜です」
「星が、とても綺麗で」
血塗れの軍服の胸元がゆっくりと上下して、それっきり、動かなくなった。




