初春、イタリアにて。
〈プロローグ〉
『一週間くらいの海外旅行に行こう』
そう決めたのは早夏のことだった。
昔からあこがれていたヨーロッパがいい。今年で二十六にもなってしまう。仕事も貯金も安定して余裕もできた。行くなら今しかないと思い立ったのだ。
パスポート等々の面倒な手続きを終えた休日、私は部屋のフローリングに様々な国の観光ガイドをぶちまけた。
フランス?イギリス?スペイン?トルコにスイス…それにイタリア。どこに行こうか。ご飯的にまだイギリスは遠慮しようかな。初めての海外旅行だから無難に、変わり種は後回し。全体的にみても…やっぱりここかな。
私は三色が基調のイタリアのガイドブックを手に取った。
温暖な地中海気候を考慮して荷物を詰めていく。六月半ばだからそう暑くもないだろう。ジューンブライド出席の通知なんて蹴ってやる。ガイドブックやネットの情報を色々探しながら脳内でプランを組みつつ、スーツケースに荷物を詰めていくのは至福の時だった。Wordで「海外旅行のしおり」なんか作ってみたりして、(ムダに二冊刷ってみたりして)これもしっかり取りやすい場所に詰めた。
上手くいくかはわからないが、七日でイタリア中を堪能できるような日程も立てた。
あとはもう、飛ぶだけである。
実行予定日まで二十回くらい「いいことあったの?」と尋ねられてしまい、余分にお土産を買わなければいけないハメになってしまったが──約十二時間半のフライトを終え、時差にふらつきながら、私の足はイタリアの地を踏みしめた。
〈プロローグ 了〉
ジリ、と6月にしては強い太陽光線が私の頭を重点的に焼いていく。しまったな。こんなことになるなら帽子を持ってくるべきだった。
そんなことよりも、圧倒された。
日本とは一切の物が異なる街並が私をあれよこれよと誘っているようなのだ。
それだけに、重い荷物が邪魔をしてくる。先にホテルに行くべきなのだろうけど…余裕で歩ける範囲に広場があったはず。そこで休んでからでもいいと思うんだ。
身体は重く、心は軽く、足取りも軽く、私は歩き出した。
石畳の道をゴトゴト揺れるスーツケースを引く。半分無心で進むと、突然道が開けたように感じた。
美しく円形に渦巻いた煉瓦の道。瑞々しく太陽光を反射する木々の隙間から覗く、日本とは根本的に違った様式の建物群。
あぁ、私、イタリアに来たんだ。
そう強く実感してしまった。その瞬間、私の緊張の糸は切れてしまったのだろう。じわり、じわりと浸食されるように視界がホワイトアウトしていく。
気絶ってこんな風になるんだ、と場違いな事を考えながら…私は、倒れたのだと思う。
深い眠りから覚めたような、ふわふわとした心地の中私はゆっくり目蓋を押し上げた。木陰にいるみたいで、それでも光が眩しくて眼の奥がじわじわと痛む。チカチカする視界。ベンチに寝かされているようだった。
「大丈夫?まだ起き上がらない方がいい」
私が身体を起こそうとした時だった。柔らかな低い声と共に水が差し出される。ボトルを受け取り、声が聞こえてくる方に目を細めながら向ける。お礼を言おうとしたが、喉がカラカラで出る声もなかった。
「落ち着いて。取り敢えずそれ飲みな」
その言葉に素直に従い、大きく一口、二口と飲み下す。生き返ったような気分だ。
「あ…ありがとうございます!」
今度こそ、失礼だからちゃんとベンチに座り、声の持ち主の方を見遣った。
ぱっと見、イタリアの人ではないことがわかった。流暢な日本語から予想はしていたけど。
落ち着いた真ん中分けの黒髪。あっさりとした綺麗な顔立ちとマッチした薄い顎髭。適度に引き締まった身体を白いシャツに包み、濃い紺のパンツを履いている。
ひどく整ったその人の中で、何よりもその瞳が異彩を放っている。黒い瞳が、瞳孔が、グリーンを反射するのだ。吸い込まれそうなほど魅力的だった。
しばしその人を見つめていると急に恥ずかしさがこみ上げてきて、慌てて次の一言を探す。
「あ、あの何かお礼をさせてください!」
「いや、そんな。当然のことをしたまでだし」
そんなこと言われても、私にとっては命の恩人なのだ。
どうする?
連絡先は…急かもしれない。断られたら元も子もない。
「それじゃあ申し訳ないです。お茶でも奢らせてください!」
「でも」
「お水代の代わりだと思って。お願いします!!あっ、すみません。この後用事がありましたか…?」
「ないけど…。それより自分の心配を」
「じゃあ行きましょう!」
我ながら押しが強いな、なんて思う。でもこうでもしないとこの人は、二度と手が届く気がしなかったから。これが女の勘ってやつなのだろうか。私は、周りで茂っている新緑の緑に負けない美しさの瞳をじっと見つめた。
その人は目を剃らしてしまう。が、指で長めのサイドを一巻きして苦笑いをした。
「いいよ、そこまで言うのなら」
「ありがとうございます!」
そこで、私はあることに気づいた。
「……近場のオススメのカフェとかあります?」
あまりにも考え無しの私の言葉に若干気が抜けたような表情をして…呆れたように、その人は笑った。
そんな笑顔に、私は今までにないくらい心をときめかせたのだ。
「お名前、聞いてもいいですか?」
「アオサキ」
「アオサキ、さん。さっきは本当に、ありがとうございました」
私は深々と頭を下げる。
連れて行ってもらったカフェで、注文待ちの間の会話だった。
「イタリアは初めて?」
「あ…はい」
アオサキさんは運ばれてきたアイスエスプレッソをストローで啜る。
「まず海外旅行も初めてで、何から何までわからないんです。友人の話聞いたりネットで調べたり本を読んだりで…。オリジナルしおりを作ってみたり」
ショルダーバッグから例の冊子を取り出してパラパラとめくる。我ながらいい出来だ。
「見せて」
気づいた時には私の手からしおりは消えていて、ストローを咥えたアオサキさんの手に渡っている。
自分のためだけに作ったものなのでかなり内容はふざけていて…つい顔を覆ってしまう。恥ずい。
「へぇ、いいじゃん。よく出来てる」
アオサキさんはふっと頬を緩める。心が、カラっとした夏風が吹いたかのように暑くなる。
「いやそんなことは…。完全に自分で楽しむ用ですし」
「そこがいい味だしてる。俺は好きだよ、こういうの。はい、ありがとう」
受け取りながら私は言う。
「頑張った甲斐がありました。褒めて貰えて嬉しいです」
「でも、まだ全然とも言える」
「え?」
手元のしおりから視線を上げた。アオサキさんは頬杖をついて俯き気味に窓の外を見ていた。漫画で見るような美しい横顔だった。
「ローマって割と飯マズいから、他のとこ行くと感動するよ。あと、」
そう言って、アオサキさんは取り出したメモ帳に何か書き付ける。
「これ、俺のメールアドレス。君危なっかしいし、何か困ったことあれば連絡してくれていいから」
「ら、LINEじゃなくって?」
まさか貰えるとは思ってなくって、つい訳のわからない質問をしてしまう。
「あー、俺、使い方よくわからなくって。じゃあ、ごちそうさま」
いつの間にかアオサキさんのグラスは空になっていた。
私は、一縷の望みを掛けてその名前を呼ぶ。
「アオサキさん。…また、会えますか」
この人は、にっこりとは笑わない。
端正な薄い唇を緩ませるのだ。
そんなところが何より──好きだと思った。
「…Se i nostri percorsi si incroceranno di nuovo!縁があれば」
広いワイシャツの背が遠ざかるのをずっと見ていた。
アナログ的な手法で、書かれたアドレスを見る。
少し雑な、読めなくはない英単語が並んでいた。
あんなことがあってしまったので、私は取ってあったホテルに行って一時間半ほど昼寝してから出歩くことにした。
頭は冴えたけれども身体はフライトやらベンチ寝やらでガッチガチだ。動かさなければ。ぱらりとしおりをめくる。バチカンに行ってみよう。
ディズニーランドより小さいと聞いてナメていた。
もちろん狭い国だ。その分、なんというか…濃縮されているのだ。歩けばそこには遺産があり、芸術の塊が居座っている。キリスト教本拠地にある教会、大聖堂、宮殿……私の時間はあっという間に奪われていく。特に、ちょっとヘンかもしれないが、広場に並んだ柱の上に建てられた彫像にもってかれていた。
知り合いに似ていたりするんだもん。
アオサキさんはこの人達の中に知り合いっぽいひとたくさん居そう。
……あぁそう、思ったほどご飯は悪くなかった。寧ろ美味しいくらい。
明日は有名どころをまわろう!
そう決意した私は早めに寝ることにした。
────一日目 了
二日目は大分時差やぼこぼこの石畳にも慣れてきた。教はコロッセオ、トレビの泉、真実の口、例の映画の階段あたりをめぐろうと思う。ついでに各方面への大きいお土産も買う。
やはり実物は迫力が違う。初任給で買った一眼レフを久々に酷使してしまった。オーラはそのまま、時代というか、経験みたいなものがダイレクトに伝わってくるのだ。ベタだとは思うけど、有名なものも是非本物は見ておくべきだと思う。
そんな感じで今日はほどほどにして(昨日のこともあるし、また最終日に来るので)ナポリに渡ることにした。新幹線のような速い公共の乗り物はないので、電車で何時間か揺られるのだ。ごとごとと柔らかく揺られる列車の内装や窓からの景色。日本の田舎のような雰囲気。全てが新鮮で輝いていた。
────二日目 了
九時頃に起きた私は、街にお昼を食べる店を探しに出かけることにした。
ナポリっていう地名からして、ナポリタンが美味しいのかな。
赤レンガの建物群に囲まれた海の潮風を存分に受けながら思う。美しい朱色の建物と波間のコントラストに不思議な感覚を覚える。そんな街に泊まる船、街灯、カラフルな家々、ど根性野草にカメラを向けて歩いていると自然にお腹が空いてくる。
そろそろどこかお店に入ろうかな。
「Non hai un partner? Pranziamo con noi?」
「え…あ、Sorry, I cannot understand Italy. Please English ok?」
突然、ラフなスーツの二人組の男性が話しかけてきたのだ。驚くほど背が高いわけでもないが、日本人じゃないってだけで圧迫感がすごい。受け答えができた自分を褒めてあげたい。
「Sure! Beautiful lady. You have partner? Shall we go lunch?」
「え、あ…」
褒め言葉に、お昼ご飯を誘われているのもわかった。
どうすればいいの?
小さい子供じゃないんだから、付いていくという選択肢もある。私よりもこの辺の美味しい店には確実に詳しいだろう。
私は即答できずに悩んでいた。
彼らはそれをYesだと受け取ったのか困る外国人を助けようと捕らえたのかはわからないけど、肩を組まれてにっこりと笑いかけてきた。
触れられたところから、ゾワリと悪寒がした。何を調子に乗っているんだ、彼らは。あのままフレンドリーな感じだったらまだ付いていっていたかもしれないのに。
嫌だ。
そう強く思っても肩の力は強く、私の力では外れそうにない。
わざとこけてみる?
昨日倒れたみたいに、ふらりと。それから愚直ダッシュ。
目眩ったみたいに姿勢を低くする。二人が何か言っているが、私は適当に「I may have a fever」とか言っておく。そして開けている方に足を向ける。
はは、やっぱり駄目か。簡単に捕まってしまった。
もう一人いることを忘れていたし、熱があるなら病院へ、みたいなことも言っている。
本当に私って馬鹿。先にはっきりと断っておけばよかったんだ。ますます面倒なことになったなと、悲観せざるをえない。じわじわと迫り来る男たちに恐怖を隠せない。もう嫌だ。泣き出してしまそうになる。
「Non prendi la tua mano ai giapponesi nella nostra zona.」
昨日とはうって変わった、凍えてしまいそうな低い声。
「Vieni morto una volta」
「アオサキ、さん!」
男達はかけられた言葉なのか、肩を掴まれる力なのか、鋭く重い眼光なのか、鬼気迫る表情なのか、に怯えて飛ぶように逃げていった。
アオサキさんのジャケットを持つ腕には血管が浮き出ている。見かけによらず力が強いのだろう。
英語に似たような単語は解ったんですけど、何て言ったんですか?
あの人達は?
どうしてここに?
でも、まずは何より──
「ありがとうございます。またお世話になってしまいました」
私は本当に緊張していたのか、腰が抜けてしまった。それも、アオサキさんは支えてくれる。
「何か縁があっただけだよ」
「本当にすみません。お昼休みでしたか」
「あぁ、これから。それよりも。恐かったろ。奢るから、俺の行きつけ行こう」
「そんな、悪いですよ!」
「これでもイタリア男だから、エスコートさせてよ。しばらく付いていてあげる」
「でも、お時間そんなにないんじゃ」
「ちょっと待って」
アオサキさんは私を手頃なベンチに座らせ、誰かに電話をかけ始めた。流れるようなイタリア語が溢れる。
「Ok,一時くらいまで時間は取れた。融通できるとこだから心配しないで。立てる?ゆっくり行こうか」
完璧なエスコートを見せられ、私はぎこちなくも歩き出す。
「イタリア…楽しめてる?」
「はい、もちろんですよ!」
何を話題に出す?
バチカンもいいかもしれないけど、教えて貰った…
「ご飯!本当にローマより美味しかったです!」
「だろ?」
「何でローマは微妙なんでしょうね?」
「わからんなぁ。わざわざローマ外に行くほどでもないし…微妙が的を射てるな」
アオサキさんは目元を緩ませる。
「あと!バチカンのたくさんある彫像をじっくり見たことありますか?あの中に大学の教授みたいな人がいて見入っちゃいました」
「わかる。俺もあれ…祖父さんみたいな奴あるから」
「写真ありますから、後で教えてください」
「そんなに写真撮ったの?」
「はい、このカメラで。ナポリの景色も素晴らしいですよねぇ」
「ああ。…イタリアはいい所だろ?」
「はい!」
「さぁ、着いた」
アオサキさんは柔らかな笑みを浮かべて店を指した。相変わらずの石壁に重そうなダークオークの扉。いかにも裏道という場所にあって、看板も出ていない。なるほど、こういうところに名店は隠れているのかと感心する。
「先に聞けばよかったんだけど、何か食べたいものとかあった?」
「いえ、強いて言えば本場のナポリタンはどうなんだろうってくらいです」
そう言うと、アオサキさんはお笑い番組でも見たかのように、声を立てずに笑い始めた。
私は何かおかしい事を言ったかな…。
口角が上がるのを隠せずアオサキさんは言う。
「ナポリタンが生まれたのは日本。名前が似てるナポリターナはあるけど、それよりもピザのマルゲリータの方が有名だよ」
「!…恥ず……」
ぼっと頬が熱くなるのがわかる。何でイタリアの名前をつけてしまったのか。わけがわからない。
「調べてなかった?」
意地悪そうにアオサキさんは笑った。ちょっとむくれていた私だったけど、その笑顔がとても楽しそうなものだからつい気を緩めてしまう。
お店に入り、年代物でうっすら擦れたガラスに真鍮色の枠を持つ窓際の席に案内される。アオサキさんはそのまま店員さんに何か注文してしまった。
「ここ注文取ってから作り始めるから、ちょっと遅くなるよ」
「本格派って感じ。素敵ですね」
話題がないなぁ…。どうする?
写真を見せるか…。いや、私はその前に気になったことがある。
「アオサキさん、ナポリに知り合いは多いんですか?」
「どうして?」
「通る人とよく会釈しているようだったから。職場が近いんですか?」
「そう。顔広くて…まぁ、役持ちだから」
「すごい…。……すいません、歳って…?」
「アラサーってことで」
「優秀じゃないですか…!」
「んなことはないよ」
カタ、と目の前に大きめのグラスが置かれた。美術品のようなガラス細工がシンプルに施されたコップに蜂蜜色のレモネードに荒削りの氷が入っていてとても美しい。
「ちょっと濃いめなんだよね、ここの」
「どうりで色がこんなに…。でも、美味しそう」
「重い食べ物の口直しの役割もあるんだよ。料理が来る頃には氷が溶け出して口をさっぱりさせてくれる。今は疲れた身体に合わせて濃く、美しく見せてる。よく考えられてるよね」
そうですねぇと頷きながら、私はカメラを取り出す。日を浴びたレモン色に輝く露にフォーカスを当てる。カシャ、と重厚的でアナログな音が静かな店内に響く。
「きれい」
満足そうに、アオサキさんもレモネードに口をつけた。
運ばれてきた色彩鮮やかなマルゲリータは、まず食べるのに苦労した。「いただきます!」と意気込んだのはよかったものの、何しろ熱い。まず持てない。箸が欲しい。
私が苦戦している中、オサキさんは静かに「いただきます」と言うとまだ湯気を立てるピザを紙ナプキンに挟んでつまみ、冷ますように息を吹きかける。とろけたモッツァレラチーズとピザソースが揺れる。それでも熱かったのか顔をゆがめて頬張り、ピザソースを指で拭う。世界一の美女でもここまで美しく食べることはできないだろう──私は添えられていたサラダを食べながら思った。
「食べないの?ピザの方」
アオサキさんが言った。
あなたに見とれてました…なんて言えるわけもなく、「食べます!」と気合いを入れて返す。あつあつピザチャレンジリトライだ。
アオサキさんのように紙ナプキンで挟み、食べられるくらいまで冷ます。持っただけでわかるもっちりとした生地にかぶりつく。瑞々しく甘いトマトが一番に飛び込んでくる。そこにどこまでも伸びそうなモッツァレラチーズが味を濃厚にしている。添えられたバジルもしゃっきりしていて、彩りだけの役割じゃない。全てに意味がある。
「美味しい?」
「美味っしいです!!なんだろう…。見た目は変わらないのに深く広がる味…やっぱり日本のお店より全然いいですね」
一息つこうと手にしたレモネードはすっきりとした酸味と柑橘のあっさりとした甘みで味覚がリセットされたような感覚がする。
私が飲むのを待っていたのか、解けた氷がカランと音を出したのを皮切りに口を開く。
「それはよかった。さっきから、表情が固かったから」
「そう…だったんですか?」
「そう」
そう言えば男性達に絡まれていたのを助けてもらったんだっけ…。忘れてたのは食事のおかげじゃなくって、きっと
「…アオサキさんのおかげですよ」
「まさか」
ピザを食べ続けるアオサキさんに私も言葉を続ける。
「アオサキさんが助けてくれて、対応も抜群に良くて、美味しい物まで食べさせてもらって…。一昨日だって倒れた私に優しくしてくれて。私が今、イタリアを楽しめているのもアオサキさんのおかげなんです」
「イタリア男なんて大体こんなもんだよ。それでも、俺?」
その問いに、私は自信をもってはっきりと答えた。
「はい。アオサキさんだったからです」
アオサキさんは苦笑した。
「はっきり言われちゃ、俺もなんだろ。…よかったよ」
使い終わった紙ナプキンをおいて、アオサキさんはまんざらでもなさそうに笑った。
よかった、イタリアに来て。アオサキさんに会えて。
その時、アオサキさんの電話が音を立てた。画面を見たアオサキさんの表情は固くなる。
「ごめん、急用だ。お金は払ってあるから」
がたがたと長い足を机にぶつける。
「アオサキさん、落ち着いて」
立ち上がった私の方はっとを見る。いつものおだやかな深緑が暗く震えている。
「アオサキさんの仕事も、立場も、私には何もわかりません。けど、あなたが動揺してたら他の人まで広がるんじゃないですか」
「…その通りだ」
アオサキさんは立ち止まり、深く息をはく。
「ありがとう」
「いえ、私は何も…。一つ、聞かせてください」
「一つなら」
「また会えますか?」
深緑の、深い森の新緑をした瞳を見つめる。その目線も私を捕らえている。
「See you, next again.」
今度は、私にもわかる。
次はあるのだ。
アオサキさんは颯爽と駆けていく。そのしっかりとした横顔に安心して私は座った。
一人でもそもそと残りを食べていると、ウェイターさんがデザートを運んできてくれた。
──ティラミス。
あの人はどこまでも優しい。
隠された言葉は「元気を出して」
────三日目 了
これからは三日間をかけて最大の観光地ミラノをめぐり、ピサによ寄る。七日目にローマに着いて日本に帰るという予定だ。
電車で五時間ほど揺られると(飛行機だと金銭面的に…楽しさと節約の一挙両得だ)歩けば遺産に当たるような場所に着いてしまった。四十一もあるらしいが、もはやどれが遺産なのかそうでないのかわからない。私は手当たり次第に街並を写真に収めていった。
夕飯にはいくつかのピザを選んだ。様々なチーズのたっぷりと乗ったコテコテのものから、ツナやタマネギ、アサリの乗ったさっぱりとした一品まで。交互に頂くと、いくらでもいけそうな程調和の取れそうな優しい味わいだった。
────四日目 了
五日目、私はあえて予定を立てずに街を巡ってみることにした。
所々にしか日の差さない裏路地を歩き、低く可愛らしい花をつける街路樹を撮ってまた歩く。大通りに出たかと思うと、教会のような大きい建物があって久々にしおりを見てみると随分長い距離を歩いていたりする。
昼食は簡単な物を食べ、また色々探してみると小さなお菓子屋があった。バラの形と香りをしたローゼカンディーテをおやつに。マカロンの元と言われる包み紙まで可愛いアマレッティをお土産(自分)用に買う。
他にも雑貨屋で建物のストラップや有名な彫像のミニチュアをお土産に買う。友人にサプライズでここからポストカードを出すのも面白いかもしれない。
夜は気軽に入れそうなレストランを選んでパスタを食べた。本場ならでは、オリーブの香りに深みがあって鼻腔を吹き抜けていく。パチッとはじけるトマトは程よい酸味が味に彩りを添える。噛み切れないほど弾力のあるシーフードに私は大満足した。
レストランの外に出て夜の街を出歩いてみる。まだやっているジェラートのワゴンがあったのでキャラメル味を買う。
ふらふらしていると一画でストリートパフォーマンスをしていた。荒々しく楽器をかき鳴らし、ジャズの楽しげなリズムにのって、バラードで閉められていく小さな音楽隊。いつしかジェラートを食べるのも忘れて聞き惚れていた。コインをギターケースに投げ入れる。CDが売られていたのでそれも買った。ストリートの曲を買うのなんて初めてだ。今日聴いた物には適わないだろうけど、素敵な物が世界には巡っているという証拠なのだと思う。何を考えてるんだろう。確実に酔っている。
ホテルに帰ってベッドに倒れ込む。この生活にも大分慣れてきた。
──アオサキさん。
不思議な人。優しく瞳に強い力を宿し、イタリア男とは言うけれどどこか儚げで、笑った姿が素敵な人。
仕事、大丈夫かな。
私は貰ったアドレスを間違えないように打ち込み、メールを何度も直しながら書く。
「仕事お疲れ様です。先日のティラミスもありがとうございました!今ミラノにいるんですが、日本では味わえないことばかりでとても楽しく過ごしています。あと二日なのがとても惜しいです。
あの時の言葉を本気にしていいのなら、明後日の十三時、最初に出会えた場所で待っています」
────五日目 了
六日目はほとんど帰り道…にするはずだったのだが、ピサの斜塔周辺はお土産どころが多いらしい。寄らざるをえないだろう。日割り間違えちゃったかもなぁ。
ピサの斜塔で写真を撮って貰ったり(ありがちだが、自分の写真がほぼなかった)、斜塔のグッズを買ったり。
さらに寄り道して、可愛らしい赤いドームで職場用のお土産も調達する。ここのお土産の包み紙の柄もまたレトリックで良い。すぐに目移りしてしまう。
買い物にも慣れて、というか大体の物が美味しいので見知らぬ物も億劫せずに頼んでしまう。
量り売りのお菓子屋さんなんかもあって、また色々と買ってしまう。
個包装がいいんだよね、と思いながら今しがた口にいれたお菓子の包装紙をファイリングした。
さぁ、明日はとうとう帰国の日。
返信はまだ……来ない。
────六日目 了
電車を乗り継いでローマに向かう。心地よい揺れに、今まで歩いてきた疲れからかうとうとしそうになるが、この石造りの街を眺めるのもひとまず終わってしまうので遠くの景色に目を凝らす。
楽しかった。
手にしたカメラの小さい画面で写真をぱらぱらと流す。一枚一枚に思い出がぎっしりと詰まっている。撮った場所を一つ一つ思い出す。じわじわと聞き取れるようになってきたイタリア語の名詞群の中に「ローマ」とアナウンスが流れるのがわかった。
旅が、終わる。
じり、と焼け付くような日差しだ。
そうだ。ようやくかって感じだけど、私はあることをひらめいて服飾店に駆け込む。
つばが広めの麦わら帽子。もう熱中症にならない為だ。
一週間前連れて行ってもらったカフェにも行く。サンドイッチとコーヒーを頼む。ざっくりと粗めに焼きあげられたパンに新鮮な野菜とハム、チーズがよく合っている。
十二時半。
行こう。
二時までなら…待とうかな?
麦わら帽子を被って街並をゆっくり歩き、今と昔の入り交じった風景を眺める。
最後、と思うと前よりも多くカメラに手が伸びる。にじにじとかたつむりのように歩いたが、すぐに広場に着いてしまった。
心なしか以前より青々しく生い茂った街路樹があちこちに大きな影をつくって人や猫を休ませている。私もそのうちの一つの下のベンチに座る。
帽子を取って目をつむり。そよ風を感じる。ほんの少し潮風も混じっている。陽の下では嫌になるくらいの温かい風だけど、木陰では涼しく感じる。
長らくの旅、私はまたうとうとしてしまう。荷物をクッションに寄りかかる。本当に眠ってしまいそうだ。
そんな時に、大きな強い風が吹き付けた。
青い葉だけでなく、力の弱くなっていた私の手から麦わら帽子までもがさらわれた。
私はワンテンポ遅れて走り出す。足下のサンダルは石畳の凹凸を顕著に伝えてくる。このままじゃ追いつけるか…!
軽い麦わら帽子がさらに舞い上がりそうになった時、誰かの手がそれを捕らえた。
紺のブイネックの七分袖に年季で擦り切れたジーンズ。麦わらを持つ手首には洒落た皮のブレスレット。
「アオサキさん!」
「君のだったのか。ちょうど良かった」
駆け寄った私の頭にそのままかぶせてくれる。
「はい。もう熱中症で倒れないように。お仕事は…お休みですか」
「一段落したからね。いつしかは本当に助かったよ」
「いえ、そんな」
「今日、話しって?」
「そうでした。向こうの木陰に行きましょう」
元のベンチに戻る。アオサキさんはいかにも熱を吸収しそうな服を着ているのに涼しげな顔をしている。
木の下で私たちは向き合う。
「出発はいつ?」
「三時です。ギリギリですね」
「どうして」
「こうでもしないと、諦められなかっただろうから……。アオサキさんのこと」
好き、なんです。と小声で口に出す。
「俺、そんな価値のある男じゃないよ。」
「価値は私が決めます」
「いつ死ぬかもわからない」
「そんなの、いつ死ぬかなんて誰にもわかりませんよ。せめて、私はその時あなたの傍に居たいと思います」
「君にしてあげたことを、他の子にもしているかもしれない」
「それはイタリア男に惚れた私が悪いですね」
「イタリア男じゃなくて、宇宙人だとしたら?」
急な毛色の違った質問に私は失笑してしまう。
「地球外生命体だろうと、意思のあるひとには変わらないですよね。アオサキさんがアオサキさんである限り、私は愛せます」
「もし俺が……ちょっとヤバイ組織の幹部だったとしても?」
「……例えば、どんな?」
「武器、とか?」
「…………もし、それが本当なら、今までのことに合点がいきますね。ナポリでの冷たいくらいに強い瞳の光も、剣幕も。知り合いがたくさんいらっしゃったのも」
だからと言って、私はどうすればいいのだろうか。
私は…
優しく受け止めてあげる?
そんな言葉をかけるだけで、いいの?
……違う
「アオサキさんは、私にどうあって欲しいですか?」
アオサキさんは目を見張る。
「私は気持ちを押しつけるつもりはありません。今押し問答したことが全て本当だったとして、私は何が最善なのかわかりません。これから探っていくしかない。だから、嫌じゃなければ教えてください。貴方にとって、私は、どうあって欲しいのか。諦めてほしいのか、このままでいていいのか……」
何を言っているのか自分でもわからなかった。頭の整理が追いつかなくて、でもアオサキさんに無理だけはしてほしくないと、そう考えながら喋った。
後悔はない。
まったく理路整然としていない私の言葉に、アオサキさんは律儀にも返してくれる。優しい言葉が編み出される。
「君は、そのままでいいと思う。俺のために何か努力する必要はないよ。でもまだ、俺の方が君に対してどうすればいいのかわからない。君が好きなのか、俺はどうするべきなのか。だからその……俺のことは、諦めたほうがいい……とは思う」
私から目を逸らして、アオサキさんは告げた。
アオサキさん
私は、私は?
諦めるべきか
追うべきか
「……アオサキさん」
私は荷物を背負った。
「また、来ます。全てを捨てるくらいの勢いで。イタリア語も勉強して、しおりもパワーアップさせて、また来ます。その時。その時また……縁があれば!」
私はできる限り、とびっきりの笑顔を見せた。
アオサキさんは呆れて…楽しそうに呆れて自分の髪をくしゃりと掴んだ。
「…君には敵わないな。なら俺は、ここで待とう」
「待つって言いましたね?」
「しまった」
「じゃあ、また会いましょうね!」
「俺も行くよ。レディは後ろ姿が見えなくなるまで送らないと」
「流石ですね、イタリア男」
「荷物持ちは当然の役目だろう?」
「好きです、アオサキさん。待っていてくださいね」
私は飛行機のゲートを通る直前、そう告げた。
悔しそうに笑う彼の姿は、見えなくなるまでそこにあった。
〈エピローグ〉
夏
8/17 青の洞窟、猫の街
8/22 シチリア島にて
8/27 ボルゲリ地区の廃墟
秋
9/29 サンレオ城
10/17 サンタンジェロ城
11/13 高野山
冬
1/5 伏見稲荷大社
2/18 ローマ、コロッセオetc
2/23 ベネチア運河にて
春
ユウさんの生まれ故郷、トスカーナ
人の居ない早朝、私とユウさんはオレンジのポピーが一面に広がる花畑に埋もれる。
「ユウさん、写真撮らせて」
しょうがないなぁと言うように、新芽の瞳を細めて笑う。
ポピーの丘の上で、朝日を受けて輝くユウさんを私はカメラに収めた。
『青崎 優風のエピソードをコンプリートしました!』
お読みくださりありがとうございました。
本作品のカラクリにお気づき頂けましたでしょうか?こちら、乙女ゲームの世界を小説にしたものです。おそらくゲームタイトルは「外国に旅して」だと思われます。
主人公のモノローグで「?」が付く場所はゲーム内の選択肢を表しており、かならず二つの行動で揺れているはずです。それらを集めてアオサキさんを攻略していくゲームです。国が違えば攻略キャラも違います。書きませんが。
今回、たまたま主人公はあのような選択をして「アオサキの故郷で笑顔写真」のハッピーエンドルートをつかみ取ることができました。そもそも私がハピエン厨だからそれ以外書けない気もしますが、そういうことです。
主人公に名前がないのもそうですね。是非あなたの名前を当てはめて、あなたなりにアオサキさんを攻略してみてくださいね!