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魔法の使えない侯爵の娘:前編

>>ローズ魔法学園――


 美しい黒髪黒眼の少女サー・アーサー・ソフィー・ヴァイオレッタ。


 2年前にその名前を知られるようになった彼女は、今年の春に王国の名誉(サー)男爵(アーサー)位を拝命する。

 名誉男爵は一代限りであるが、実力で勝ち取ることでしか得られないその地位の力は絶大なものがある。


 それは民衆の憧れだ。


 年端も行かぬ少女がその憧れを持つのであれば話題に上らないはずがない。

 永らく続く国家間の領土拡張に伴う戦争の中で、愚かにも『森』を侵略したことに業を煮やした魔王たちは。魔物の軍勢を率い実に人類世界の1/3、王国の1/5を滅ぼした。

 その最終目的はヒト世界の征服、そして人類の滅亡だ。


 その危機を救ったのがソフィー・ヴァイオレッタその人である。


 彼女が用いる紫式と呼ばれる黒魔術は、ゴブリンやオークといった魔物の軍勢をいとも容易く打倒し、彼女は七大魔王の一人とされる暴食の魔王ベルすらも撃退した。

 それにいたく喜んだ時の国王は、ソフィーにサー(名誉)アーサー(男爵)の称号を与え、望むものなら何でもくれてやろうと宣言する。


 だがソフィーが答えたものは実に質素なものだった。


「生まれてからこの方、師匠である義父の元で魔術の勉強や戦闘に明け暮れた私は人としての楽しみを知りません。普通の女の子のように、私は王国の学校に通ってみたい――」

 もちろん国王はその要求に答え、ソフィーは晴れてローズ魔法学園の学生として編入学されることとなる。



・・・・・・・・・・・

・・・・・・・

・・・・



(ヒト世界の、楽しい学園生活を夢見たんだけどな……)


 ――ベル様と一芝居を打った甲斐もあり、年齢的な要件によってローズ魔法学園の3年生に編入学したソフィーだったが、ソフィーはぼっちであった。

 卒業年の3年生ともなれば学園の仲良しグループというのは既に固定化されていて、入り込む余地などソフィーにはなかったのだ。

 そもそもソフィーは今や国民が聞かれれば誰もが知っている英雄なのだ。話すには恐れ多く、気後れもするのも当然だろう。

 魔人世界に住んでいた彼女と、ヒトの世界の常識とではかなりの認識の差異もある。どこか話がかみ合わない。

 ソフィーはヒトの世界の常識に合わせることで手一杯で、友達を作ることもなかなかできず、学園生活にも馴染めずにいた。

 それでも始めのうちはソフィーはその学園内のなかよしグループに溶け込もうとした。

 同学年クラスのグループは、勝気な宰相の娘を中心とした女の子グループ、可愛らしい平民の少女とその娘を愛願する王子様を中心とした男の子グループ、獣人の女の子を中心とした庶民グループが三大勢力だ。

 話しかければそれなりに会話は成立する。しかし一緒に学校に登校したり、お昼休みに一緒にご飯を食べたり、そんなことはできずにいる。

 みんながソフィーに対して憧れていた。

 もはやおとぎ話の領域で、学生にとっては学園の守り神とまで言われるような存在なのだ。

 既に一度社会に出て、そして現在進行形で英雄であるソフィー。その美貌は美少女が多いとされるローズ魔法学園の中でも上位に食い込むだろう。

 そして憧れを持つがゆえに友達とはなりえない。


 先生からもソフィーは疎まれていた。


 魔界で育ったソフィーは義父に厳しく、そして『正しい』魔術の知識を叩き込まれていた。

 もはや学生に魔術を教える程度の人間では扱えきれるようなものではない。

 その知識はローズ魔法学園どころかローズ王国内のどんな魔術師にすら手に余るものである。

 ソフィーとしては魔界で平均的な魔法の使い手だと思っていたが、ヒトの世界ではそれは最上位魔術師であることと同等であったのだ。


 ほどなく先生に匙を投げられたソフィーは魔術の授業を免除され、学園内をぶらぶらと歩くことになる。

 ソフィー本人は楽しくニコニコと授業を聞いていたのだが、先生の側がそのプレッシャーに耐えられなくなったらしい。曰く「こんな生徒は嫌だ」


(ヒトの世界なんてやっぱりつまらない。やっぱり早くお父さんのところに戻りたいよ。お父さんに会いたい……)


 ソフィーがヒトの世界に来てはや2年と少し――

 ソフィーは魔界の家に帰る口実、父に会う口実ばかり考えていた。


 そう、少なくとも彼女に出会うまでは。



・・・・・・・・・・・

・・・・・・・

・・・・



 ローズ魔法学園で、魔法の使えない生徒というのは居たたまれない。


 そんな少女がなぜ魔法学園に来たのだろうかと疎まれるのは当然だろう。

 代々稀代の魔法使いを生み出してきた侯爵家の娘であっても魔法が使えないのであればそれに該当する。

 勉強はできる。知識だけならありすぎて学校の先生から匙を投げられるほどにには。


 それでもその侯爵家の娘フォン・メアリ・ラストが学園に通うのは、意地であった。


 学園を卒業すれば少なくとも「学士」の称号が得られる。それは単なる箔付けだ。

 しかし侯爵家の娘として最低限の箔さえあれば、政略のためにどこかに貰われるくらいは出来るだろう。

 それが侯爵家の地位を維持するためだけの中高齢の男であったり、事情を何も知らぬ外国の貴族であったりするわけだが。魔法が使えない魔術師家の娘だ。貰い手があるだけありがたいのだろう。

 少なくとも容姿が悪い悪いわけではない。そちらについてもそれなりに努力はしてきた。

 制服である青のセーラー服に彼女の軽くウェーブが掛かった美しい金色の縮れ髪は良く映えている。

 青色の瞳は黄昏のように深く澄んでいるし、ほんのりと桃色がかった肌は透き通るように白い。

 これで愛想よくほほ笑みでも浮かべれば誰もがメアリのことを可愛いというだろう。


 だが今のメアリに笑顔はない。


(どんなに着飾っても、身体をきれいにしても、魔術師を輩出する家にあって魔法が使えない女になんの意味があるだろう)


 少なくともメアリはそう思っていた。

 メアリの表情は暗い。


 そんなメアリは、今もなお図書室で本を広げ勉強をしていた。

 いつも彼女が座っている席は、いつしか皆が近よらなくなり彼女の専用の席のようになっている。

 図書館の中でもいっそう、暗くじめじめしたその場所は本を読むにはあまり適さない。

 メアリはそんな場所が自分にはお似合いだと思っていた。


 図書館で明るく日当たりの良い場所は、魔法が使える本物の魔法使いの卵たる生徒に譲るべきだ。


「へぇ……、貴方は優秀なのね。授業中なのに図書館で勉強しているなんて……」


 そんな場所に、わざわざやってきて声を掛ける女生徒がいた。

 メアリが見上げると、ヒトのモノとは思えないほど美しいストレートの黒髪で、宝石のような黒瞳を有する、学校指定の青いセラーを着た背の低い可愛らしい女の子がいた。

 その胸の大きなリボンは緑色だ。ローズ学園の生徒は胸のリボンで学年が分かるようになっている。

 赤が1年生、青が2年生、そして、メアリと同じ緑のリボンは3年生である。


 だが、メアリには同学年のその女の子を今まで見たことがなかった。


「優秀ってどういう意味?」メアリは訝しんだ。魔法の使えない私に何を言っているのか?


「いやだって、あそこの先生に追い出されたのでしょう? 『お前は優秀すぎる。お前に教えることは何もない』とか言われて。だから私、今日も学園内をぶらぶら歩いていたのよ」


 そういわれて、メアリはこの春に3年生に編入学したとされる英雄のことを思い出していた。

 彼女はまさか――


「貴方は――、サー・アーサー・ソフィ・ヴァイオレッタ、様?」


「様とかいいわよ。私のことはソフィーと呼んで。ねぇ、お友達にならない。その――、ぼっち同士?」

 意を決して友達になりたいと言ったのだろうか。

 ソフィーが緊張していることはメアリにも分かった。


「いえいえ。私なんて、このローズ魔法学園にあって魔法の使えない生徒なのです。貴方とは比べ物にならないくらい、どうしようもない女で――」


「そう、あなたもなの? それは残念ね――」悲しそうな声で返すソフィーにエリ―も同じように気が沈んだ。


 思えばソフィーはなぜこんなところをぶらぶらしているのだろう。

 彼女自身ぼっちだと言っていたではないか?

 きっと英雄は英雄なりに、苦労していることもあるのだろう。


「でも、そんな私で良ければ、ソフィーの友達になりたいな……、なんて……」そんな言葉が自然にメアリの口から出る。

 その言葉にソフィーの表情が一気に晴れやかになった。


(可愛い……)


 メアリは、彼女が救国の英雄だということも忘れ、ソフィーを頬けたように眺めた。

 それだけで、顔が赤く染まりそうになるほどに。


「それで、貴方の名前はなんているの?」


「私の名前は、フォン・メアリ・ラストです。メアリと呼んで頂ければ」


「もう、ちょっと固いかな。ねぇメアリ。よろしくね」


「えぇ、よろしく」


「それで――、何を読んでいるの?」


「――――――」


「―――」


――


 こうして、ソフィーとメアリは友達になった。



 ・ ・ ・ ・ ・ ・

 ・ ・ ・

 ・ ・



 魔法学園で、魔法の授業があるときにはソフィーはいつも図書館を訪れていた。

 その特に暗く、じめじめした場所がソフィーのお気に入りだ。

 メアリが聞いたところ、ソフィーが言うには子供の頃に住んでいた環境によく似ているという。


 確かに魔術師、魔女の(たぐい)が好むような場所だ。

 本来は薬草の(たぐい)が好むような場所なのだが、ほとんどの魔術師が薬草も取り扱うことからしてそんなイメージが広まったらしい。


 今までのメアリの生活と違うところは、今はそれにコーヒーの香りがほのかに感じられるところだろうか。

 ソフィーが持ち込んだコーヒーは貴族社会でも滅多にない上質なもので、その苦くも柔らかい味わいにメアリは驚いたものだ。

 そのコーヒーは戦場で会った北の将軍から感謝のしるしとして送られたものだという。


 ソフィーが相当な実力の持ち主だということは間違いないだろう。

 ソフィーは魔法の使い手である義父に厳しく育てられたのだという。

 そうでなければ英雄と唄われるような実力は到底持てないということなのだろう。

 のほほんとした、「お父さん大好き」といっているような性格とは対照的だ。


 メアリはどのようなことをすればソフィーがどのような訓練をすれば聞いてみた。

 それを実現すれば、あわよくば自分も魔法が使えるかもしれないと思って。


「そうねぇ……」ソフィーは義父との思い出を思い出す。


「例えば魔力の増強とか言って魔力と高熱の部屋に押し込められたりとか? 全力の魔力を常に使えるように、大量の魔物がいる場所に転移させられたり……、ドラゴンと連戦したときなんかは、結構厳しかったわね」

 メアリは軽い口調でいう修行の風景に絶句する。

 魔力の高い場所というものはある。だがそんなところに長時間いれば普通は発狂するのだ。

 それにドラゴン――。人類で英雄と唄われるものであれ容易く狩れるようなものではない。

 そしてそれを連戦するなんて――


「あ、でもでも! 本当に危ないときはお父さんが助けてくれたよ。腕とかもげても傷跡が残らないように直してくれたし! そう、あの時は大変だったの。接近戦で傷ついた私を見て『お前ら全員皆殺しだ』とかいって、近場のサイクロプスを次々に八つ裂きにして……、カッコよかった」


 語られる内容はどんどんとヒドイものになっていく。


 やはり英雄というものはどこかズレているのだろうか。

 サイクロプスなどといえば、それこそ出現したら数百人の軍で撤退させるのがやっとという化け物である。

 それを次々に倒すことができるなど、どこまで実力を持てば実現できるのだろう。

 しかも接近戦だ。とても魔術師の範疇に収まるようなものではない。


(そこまでしないと……、魔術を極めることはできないの……)


 それはまさに、人ならざる英雄でなければできぬこと。

 メアリはお手上げだった。これはどうあっても追いつけないし、まったく参考にならない。


「ねぇ、私のことだけじゃなくて、メアリのことも教えてよ。『フォン』が名前の頭に付くということは、王国貴族のお姫様なのでしょう? 煌びやかなお貴族様の生活! 楽しそうじゃない」


「そう、ね……。私が普通に貴族をしていればね……」

 期待に胸を膨らませるソフィーに対し、残念なお知らせをしなければならないメアリの気は沈んだ。


「ん? 普通じゃないの」ソフィーは不思議そうな顔をする。


 煌びやかなドレスを身にまとい、華を競い合う夜会、披露される戯曲、優雅に踊る人々。

 目移りしそうなほど数の多い、そして美味しい食事――

 庶民が考えるような貴族の生活とはそのようなものだろうか。


 だが、メアリにはそのような機会に恵まれたことはない。


 魔術師家にあって魔法の使いない女など疎まれるだけだ。

 そのような夜会にも食事会にもメアリはいったことはない。両親が参加を許可しなかったのだ。

 むろん侯爵家の名に恥じぬよう、最低限の私服はそろえては貰っている。

 しかし、可愛らしいドレスなど着たことは、一度もない。

 せいぜい、学園の礼儀作法の訓練で学校が用意したドレスを着るくらいか。

 ドレスといえば庶民の学生の身であれば年に数度、卒業したらもしかしたら一生着ることはないものだ。庶民としては喜ぶのであろだろう。

 だが、メアリは侯爵家の娘だ。学校で用意したドレスを着るのはどうにもやるせない。

 他の貴族の諸子達が自前の、見た目麗しいドレスを調達し、礼儀作法の授業を受けているとなれば余計にそれは目立った。


「私は魔法が使えませんからね。魔術師家の爪弾きものですの」声を振り絞るようにメアリは続ける。「だから夜会にも参加していませんの。参加の許可をしてもらえなくて――」


「まぁ……」今度はソフィーが絶句する番であった。

 そしてしばしの沈黙が訪れる。


 そうであろうとメアリは思った。

 魔法の使えない魔術師家の少女に、英雄がどのような言葉をかけるべきか、悩んでいるのだろう。

 ソフィーは心が優しい。その強大な力に反して。悩ましく思うソフィーに対し、メアリは居たたまれない。


「じゃぁ、さ……。メアリが魔法を使えるようになれば良いんじゃないの?」


「え?」それはメアリが何度も思い、そして何度も絶望した凶望(・・)であった。


「魔法を使えるようになれば、家に見返すことができるのでしょう? そしたら一緒に夜会に出れる! 私もサー・アーサーを拝命したお貴族様なんだから、出ても問題ないでしょう? そしたら一緒に楽しもうよ」


「出来るわけないじゃない!」メアリはガタリと立ち上がり叫ぶ。

 授業中の学園の図書館には今ソフィーとメアリしかいない。

 その音は大きく聞こえ――、そしてシーンと静まり返った。


 メアリの両親は、メアリが魔法を使えるようになるために幾人もの魔術師を雇ったのだ。

 だがそれではダメだった。


(でも、もしかして、英雄として唄われるソフィーなら……)


 メアリは自身も大抵のことは暗記するほどに魔法の勉強を続ている。

 だがそれではダメだったのだ。


(だけど、それでも……。もしかしたら――)


 急にソフィーがおろおろとし始める。

 なぜだろうか? メアリは疑問に思う。

 ふいに、そのソフィーの身体が歪んだ。


 メアリの青い瞳から、本人も気づかないうちに大粒の光る涙が幾筋も流れ落ちていたのだ。


 家庭教師から魔法を使えるように言われたことはある。

 だけど、メアリを心から心配したのは、ソフィーが初めてだった。

 曇天の空からは日差しが差そうとしていた。



 ・ ・ ・ ・ ・ ・

 ・ ・ ・

 ・ ・


「おぉ、メアリや。よくぞソフィー・ヴァイオレッタ名誉男爵を当家に連れてくるとは!」

「そちらはメアリ殿のご両親か?」

「うむ。我こそは建国以来代々に続くラスト家が当主、フォン・ムーノ・ラスト侯爵である!」

「ご息女の魔術について見たい。比較的広く、暗く、じめじめした地下室を所望するが用意できるか? 遮蔽術式を程すから仔細無用に願う。詮索も不可だ。これは名誉(サー)男爵(アーサー)からの要請だ」

 その言葉に目を見開くムーノ侯爵であったが、直ぐにうやうやしくソフィーに礼をして、近くの執事に指示を飛ばす。

 すぐさまソフィーとメアリは用意された部屋に案内された。


(すごい! 私のいうことなんて聞いてくれないお父様をあんな顎で動かすように使うなんて――。やはり名誉(サー)男爵(アーサー)の称号は凄いのね)


 名誉(サー)男爵(アーサー)の称号は、庶民に与えられる最上級の称号であるが、実際にはソフィーは実績以上の権力を有している。

 ソフィーのヒトの世界の知り合いには北の将軍を初め歴戦の将軍や兵士達が多い。

 幼少であるにも関わらず、近年知られた戦場には必ずと言っていいほど現れ、突出した戦果を出しているのだから当然だろう。

 そんなソフィーに下手に手を出そうものならば、彼らが黙っていないことは間違いない。

 愛くるしい表情に、可愛らしい姿――、兵士達にもシンパは多く、それは敵である魔界の魔人にもいるとの噂すらあるほどだ。特に敵方の魔王ベルがご執心のようらしい。


 そんな彼女が『詮索無用』といえば、それは絶対不可侵のものとなる。


 禁を破れば、敵に回せば、どうなるか分かったものではない。

 よく権力というものを理解しているな、とメアリはソフィーのことを感じた。

 でなければあのような物言いはできないだろう。

 ソフィーは戦場での数年で、それなりの『交渉術』というものを手に入れたらしかった。その『交渉術』は大抵は脅しに近いものなのだが。


 ソフィーたちに案内された部屋は魔術師家に相応しい地下牢の一室だった。

 メアリにとっては、兄からいじめられ良く閉じ込められた場所でもある。


 そんな地下牢ではくすんだロウソクの光が淡く辺りを照らしている。

 その光を息を吹いて消し、≪遮蔽≫の魔術を重ね掛けすることでソフィーは世界からこの場所を切り離した。

 この場所にはソフィーとメアリの2人しかいない。

 消されたロウソクの代わりに、地下牢の石壁から淡い光が発し始める。

 地下牢の石壁はロウソクの光を吸収し、暗くなると発する蛍光石だ。

 だが元はロウソクの光である。周囲すべてから発せられとはいえ、ロウソクの光より弱弱しい。

 その青白い光は、淡くソフィーたちを照らした。


「じゃぁ始めましょうか? まずは簡単な術式から――」

 ソフィーはメアリの父と話していた口調から、友達感覚のため口に戻りメアリに魔術を使うように促す。


「え、でも……」

 メアリはそれに躊躇いを見せる。


「≪照明≫とかどうかしら? あたりは暗いでしょう?」

 確かに地下牢は確かに暗く、湿った空気をメアリに感じさせる。


「でも、私は魔術を使えないのに……」


「だからよ、メアリ。使おうとする過程を私に見せて。私は暗い部屋の方が魔力を感知しやすい。問題点があればそれを指摘するから――」ソフィーのその顔は暗く見えない。

 しかし、なるほどとメアリは頷いた。そういうこともあるのだろう。

 ソフィーは本気で、メアリのことを見ようとしているのだ。


 それに答えないわけにはいかない。


「『|光よ《Lichtquelle》――』」メアリは唱えた。


 しかに何も起きなかった。

 その魔法語はたった1ワードの、魔術としては最下級のものである。

 それでも、何も起きなかった。


 ソフィーはうぬぬ、と呻くような声をあげる。

 そして、残酷な宣言をメアリに告げた。


「魔力が働いていないね。まったく」

「そう――」


 いくら魔法語を覚えても、どんなに修行をしたとしても、そのとっかかりとなる体内魔力が魔法語に反応しなければ、それは魔術としては成功しない。

 魔術として成功しなければ、魔力に対する訓練もできない。

 訓練しなければ魔力値はあがらず、魔術を使うことができない。


 多くの者から指摘されたことのあるその言葉は、魔術師にとってある種の死刑宣言と同じだ。

 その最低限の魔法力ですらないのだから。


「なぜだろう。正しい発音、正しい動作、正しい心の動きをすれば、≪光よ≫くらいは簡単に使えるはずなのに」


(あぁ、やはりソフィーでもだめだったか……)


 気持ちを切り替えるためだろう。ソフィーは照明の魔術を放つ。

 詠唱はメアリが使うものと同じだ。

 魔術は成功し、淡い光が天井から注ぎ、地下牢は昼の木陰ように明るくなる。

 メアリの使う魔術とは正反対に。

 メアリは項垂れた。


(ソフィーのお陰で一時だったけど夢は見れた。そしてソフィーは私のことを真剣に助けようとしてくれた。それだけでも……)


 メアリは絶望に苦しむ。

 ソフィーの前で、なんとか笑みを返そうと努力する。

 苦しみながら笑顔を浮かべる、そんなムリのある表情のメアリに、ソフィーも不思議そうな顔をした。


「メアリには魔力がない。だからまずは外部魔力をどこから調達する必要があるわね」

 ソフィーの話には続きがあった。


(するとどうなる? ならば、どうする?)

 そんな発想は、メアリにはなかったものだ。


「ラスト家にはそういった魔力付与系の魔術具のようなものはないの?」

「え? そんなものがあるの?」


 魔術具による補助を伴い魔術――、メアリは確かに聞いたことはある。


 爆炎を出現させる短剣に、必誅の風を起こす弓――


 だがそれはおとぎ話にあるだけのものだ。

 そしてそれは魔術技巧としては上位のものであろうが、魔術師の力かと言われると違う気がした。


「貴方がそれを持っているの?」

「例えば私の剣――」


 ソフィ―はいつの間にか剣を手にしていた。

 鞘はソフィーの髪と同じ黒色で金模様の装飾がされている豪華なものだ。

 それをいつ取り出したのか、メアリにはまったく分からない。

 そんな高価そうな剣をソフィーはメアリに鞘ごと無造作に投げてよこす。

 メアリは落としかけたが、なんとかそれを手にすることができた。


「これって……」

「ミスリル銀よ」

「え……」


 その剣は大男が使うような大剣ではなく、かといって淑女が護身用に身に着ける小刀ほどでもない、中途半端な実用剣ではあった。決して長いわけではないのだが、もしその刀身が全てミスリルでできているとしたらその価値は測りしれない。

 メアリの一瞬背筋が一瞬寒くなったが、それは剣から発せっられる魔力のせいだけではないだろう。


「その剣を右手に握りしめて、もう一度詠唱してみて?」

「『|光よ《Lichtquelle》――』」メアリは唱えた。


 その右手に一瞬光のようななにかが見えたが、それもすぐに消え去る。


「あ、あと少しだったのに……」ソフィーは悔しがる。「だめね。ミスリル剣でも僅かでも魔力が流れないと増幅が難しいみたい」


「そこまで魔力が無いの……。私はどこまで……」メアリは悲嘆に暮れた。


「じゃぁ、次の手行くね……」


 それに飽き足らず、ソフィーの手はまだまだ続くようだ。


 そして1時間後――



 ・ ・ ・ ・ ・ ・

 ・ ・ ・

 ・ ・



「どうしよう、こんなに手は尽くしたのに……」

 そこには途方に暮れるソフィーの姿があった。


「ごめんなさい。もういい。もういいよ……」

 メアリは自分のことをなんとか助けようとするソフィーのことを痛いほど分かっていた。

 それだけにメアリは泣くしかなかった。


「ごめんなさい。こうまでうまく行かないなんて思っても見なくて……」


「いいのよ。分かっていたことだから……」


「でも最後に一つ。最後に一つだけ試してみたいことがあるのだけれど、いい?」


「それはもちろん良いですけど……」


「なら約束して、ここから起きることは他言無用よ」


「え……。はい」タダならぬ気配にメアリは息を飲んだ。

 まさかいけないことに手を染める気になのではないだろうか。

 魔術師であれば人の道を外して力を探求することも、ないわけではない。


「まぁ、ある意味禁断かもしれないけどね。お友達の頼みだもの。だから、私のお父さんを召喚する――」

「ソフィーさんのお父さん? 召喚するって、一体……」


 ソフィーは両腕を正面に、大地と水平に掲げると、呪文を詠唱する


「≪Siehst! Vater du den Erlkoenig nicht...≫」


 それは1語では終らない長文の術式だ。

 ソフィーの両手から零れ落ちるように地面へと光の砂が溢れおちる。

 その≪砂≫は地面に広がると魔法陣を作りだした。


(すごい……)


 その膨大な魔力に、ソフィーは震えた。


「約束したからね。誰にもいっちゃダメだよ」


 徐々に光は強くなり、そこに1柱の人影が浮かびあがる。召喚だ――

 いや、それは人だろうか? 魔人の、いやメアリの認識を超えるこの強大な魔力量は魔王のそれと言ってよいほどではないだろうか?


「お父さん――」


 ソフィーはそんな姿に無防備に抱き着いた。

 信じられない魔力の本流に対し、メアリは正気かと目を疑うほどだ。

 メアリの心配をよそに、ソフィーは身体はその義父の胸にぼふりと落ちた。


(そんな強大な魔王が義父ならば、確かにソフィーは……)


 メアリはなんだか、ソフィーの秘密の一端に触れた気がした。

 正式に魔王かどうかは分からないが、すくなくとも魔人、それも上位魔人であることには間違いないだろう。


「久しぶりだな。ソフィー。何年ぶりだろうか――」頭を撫でる義父にソフィーはされるがままだ。

「2年ちょっとぶりだね。お父さん――」

「あぁ。それでそこの娘は?」


 メアリは急に視線を向けられてはっとして凍り付く。

 それだけで息がつまるような、ねっとりとした魔力を感じたからだ。


「もぅ! お父さんてば! 私の友達をそんな目で見ないで! 彼女はメアリよ」


「始めまして――、えーっと私は貴方様のことをなんてお呼びすれば……」


「俺のことはエディ―で良いよ。メアリ」


「それでね。お父さん。彼女の力になってあげて欲しいの」


「ほう?」エディ―は改めてメアリの身体を舐めまわすように見つめる。

 メアリは恐怖を感じ身じろぎした。

 メアリの恰好は、学校から帰ってきたままのセーラー服姿だ。

 制服には防御魔法は掛けられているが、なんとも心もとない。


「だからそういうことやめてよね。お父さん」


 メアリが怖がっていることを感じ、ソフィーは義父の腕をつねる。

 娘に言われてしぶしぶといった態度で、義父はメアリからようやく顔を背けた。


「それでね。お父さん。メアリは魔術が使えないのよ。お父さんの力でなんとかならない?」


「?? だんだそりゃ? そこのメアリは赤子の頃に魔力を抜き取られているのだから魔力がないのは当然だろう?」


「は? な、なんですって?」何気なく言った爆弾発言にメアリは今度こそ凍り付いた。


「メアリ。キミには兄弟がいるかね? 姉妹でもいい」


「2つ年上の兄が」


「その2つ年上の兄貴とやら、強大な魔力を持って持て囃されたりはしていないかね? まるで一族の、2人分(・・・)ほどの魔力を持っていたりはするのではないか?」


「ま、まさか……」メアリは震えが止まらなくなった。

 エディの言う通りであったのだ。


「当たりか。魔力の転移など肉親間でないと難しいものだからな。本来は親から子へ引き継ぐというのがその術式の使い方なのだが――」


 兄は100年に一度の逸材と言われ、それに比較してメアリは蔑まされ続けた。

 なんども虐められもした。父はそれを庇おうともしなかった。

 少なくとも父はそれを知っているはずなのにだ。

 赤子の頃に魔力を抜き取って別の子供に付与することなど、近場の魔術師たる両親でしかできないはずなのだから――


「あぁ、ならば僥倖(ぎょうこう)!」震えるメアリに対し、エディは満足そうに頷く。


 そんな物言いにソフィーは怒る。


「お、お父さん? そんなわけないじゃないのよ。どうしてそんなに嬉しそうなわけ? 魔力がなければ魔術なんて使えるはずないのに!」


「赤子の頃に魔力を完全に奪われているならば、新らたな魔力を浸透させるのが容易なると思わないか?」

 友達を想い怒るソフィーに、エディは優しく諭した。


「え?」

 その方法はソフィーも知らなかったようだ。

 新たな魔力の浸透――

 そんなことが可能なのだろうか。


(だがそんなことが可能なの?)


 エディは空間から何かを取り出すとメアリに手渡した。

 両手に置かれたそれはペンダントであった。

 書かれている紋章は触れると温かみがあるが、しかしどこか禍々しい気配を放っている。

 黄昏よりもなお暗く、夜よりもなお深い気配だ。


(こ、これは……)


 学校の図書館で勉強していたメアリには分かる。

 それは、七大魔王が一人、Oedipuskomplex の紋章だ――


「10日間程度か。その身に着けて魔力をその身体になじませると良い。10日後には強大な魔の力を持った魔女が誕生する。あぁ、魔術師になったら毎日の鍛錬を忘れるなよ。せっかく得た魔力だとしても自分のものとしなければやがて失われるだろう――。肉の奴隷として俺の信奉者になればより強大な魔力を与えてやらんこともないが、今は事情があってな――」


 エディはメアリに語り掛けながらソフィーの頭を撫でる。

 その『事情』とやらが何なのか、メアリには分かったような気がした。


「あ、ありがとうございます――」

 それはある意味、悪魔に魂を売ったに等しい行為だろう。

 このペンダントが万が一にも他者に見つかれば、魔王の信奉者として死罪は免れない。

 魔王とは死の象徴。それだけ人々には畏れられていた。


(だけど、これでこの身に魔力が宿るなら……)


「それじゃ、まずはそれが使えるか唱えてみてくれ。復唱しろ。『|光よ《Lichtquelle》』」


「『|光よ《Lichtquelle》――』」


「灯いたな――」


 メアリは天井を見上げる。

 そこには赤黒としたいびつな光が、しかしメアリを祝福するように灯っていた。


「できたな……」


「あ、ありがとうございます!」

 メアリの瞳に涙が浮かぶ。


「やったわね。おめでとうメアリ」

 つられたようにソフィーも泣いた。


「ソフィー、ありがとう」

 抱き合って喜びを分かち合うソフィーとメアリ。

 だが、それに水を差したのはエディーであった。


「で? それで代償はどうするのかね?」

 エディはくくっと笑う。悪魔の微笑というやつだろうか。


「代償って? お父さん、いつも私にはそんなこと言わないわよね?」


「そりゃ言うわけないさ。だって親子なんだから。でもメアリは違うだろ?」


「ちょっと……、それって……。お父さん! メアリは私の友達なのよ?」


 強大な魔王を召喚し、それに対して与えられる対価など古今東西決まっている。

 大量の死による供物か――


「分かっているだろう? メアリ。10日以内にそのペンダントを外せば代償は不要にしよう。その身から放せばすぐに消え去るさ」


 それとも美しい処女の純潔か――


「だがメアリ、その魔力が身体に馴染むその10日後にもまだそれを手にしていたのならば――」

 だが、エディが全て言いお終る前に、ソフィーの渾身の右こぶしがエディの右腹に突き刺さる。

 エディは体をクの字に曲げて崩れ落ちた。


「ふんッ。お父さんなんて嫌い……」

「あぁ、ソフィー」


 そうして召喚陣の中に消えていくエディを悲しそうな瞳で眺めるメアリ。

 助かったのか、助からなかったのか。


「あんなお父さんの言うことなんて無視していいからね」

「え、えぇ……」


 メアリは曖昧な返事を返す。

 今日はいろいろなことがありすぎて頭が追い付かない。

 しかしその胸には、邪悪で、人を退廃させる悪魔のペンダントがしまわれていて――




 ・ ・ ・ ・ ・ ・

 ・ ・ ・

 ・ ・



 10日後、ペンダントを外した時、しかしメアリの身体にはしっかりと魔王の魔力が巣食っていた。

 天地を揺るがす魔王 Oedipuskomplex の強大な魔力である。


 力に目覚めた彼女の実力は、学園の魔術の実地訓練の場でいかんなく発揮され、いまや学校中で注目の的となる人物の一人へと成長していた。

 その隣には英雄たるサー・アーサー・ソフィー・ヴァイオレッタがいる。

 だからその成長を誰も疑問に思うものはいない。

 みんながその力を羨んだ。


「これから魔力は抜けていくからな。だが使い方や生み出し方は体の隅々に行きわたっているはずさ。だからこそ、魔力創出の訓練を怠らなければ大丈夫だ。毎日枯渇寸前まで魔力を使いづけろ。いいな――」


 そこは前回と同じ地下牢――。世界から隠蔽された場所である。

 エディはソフィーによって召喚されていた。

 メアリからエディにペンダントを返すためである。


「はい。エディ様! 貴方のおかげです。だから――なんなりとお申し付けてください」

 身に着けたペンダントをソフィーは返した。

 魔力を与えてくれた恩人の手に触れて頬を赤く染める。


「あぁー」エディはにっこりとほほ笑みを返す。

 だが、それは何かを企んでいるような目だった。


「ちょっとぉ。お父さん何をする気、だからお友達のメアリに何かするのなら赦さないからね?」


「なに『代償の一つ』として、術式を一つ教えてやろうと思ってな。ソフィー、お前にもだ」


「え? 私にも?」


「In durren Blattern sauselt der Wind ―― ほら復誦しなさい――。あ、その前に二人とも相手の髪の毛を1本、その右手に取るんだ。メアリはソフィーの、ソフィーのはメアリのをだな」

 そんなエディを不思議に思いながら言われた通り互いの髪を一本づつ手にした少女たちは魔法を詠唱する。


「「?? ≪In durren Blattern sauselt der Wind≫――?」」

 ソフィーもメアリも、魔術語には慣れており、すらすらと迷いの無い発声だ。それは鈴の音のように可愛らしい。


 するとどうだろうか。


「あれ? メアリの姿が私になってる――」


「えぇー。私からはソフィーの姿がソフィーになっている」


「『枯れ葉の風のざわめき』――要するに変身術式だな。面白いだろう?」


「お父さん、確かに面白いけど、これが『代償』なの? ずいぶんと気前がいいわね?」

 代償といいつつ新たな魔術を授けるなど、メリットしかないではないか。


「あぁそうさ。そして今なら――、可愛いいソフィーと同じ容姿のメアリを味わい尽くすことができ――」


「そういうことだと思ったわよ。お父さん!」

 術式を込めたソフィーの右手の一撃が、前回とまったく同じ義父の右わき腹に決まる。


 エディはくぐもった声を上げながら召喚魔法陣の上へと崩れ落ち、「このままでは終わらんぞぉ~」などと悪役のような捨て台詞を吐きながら、そして前回と同じように消えていった。

 実際、魔人なのだから人から見れば悪役なのだろうが。

 前回と違いがあるとすればエディが召喚陣から消えた後に、ソフィーが念入りに召喚陣に封印を施したところだろうか。

 その召喚陣を使わずに直接エディが来るのであれば封印はまったく意味を成さないのだが、ソフィーの気分の問題だ。


「まったくもー。お父さんったら……」

 殺伐として、しかしコミカルな一幕にメアリはくすりと笑った。


「あぁ、最近はメアリはよく笑っているね!」


「えぇ、ソフィーさんと、そのお父さんのお陰ね」


「友達が嬉しいなら、私も嬉しいわ」


「あ、ありがとう」


(魔法が使えない時は、ずっと耐え忍んでいただけだったのけど、今はこんなに楽しいなんて……)


 そういえばとソフィーは思う。

 ソフィーは初めてのメアリの友達だった。

 明るくて、素直で、そして、無垢な美少女。ソフィー。


「ねぇ、今日は泊まっていっていっていい?」

 そんなソフィーの提案をメアリが断るはずもない。


「変身の術式もこのままにしておきましょう。お父さんがしつこく来たら撃退してあげるんだから――」

 それがメアリを気遣ったものであるのだからなおのことだ。


「えぇ、もちろんいいわよ――」メアリは頷く。


 それが、エディプスの計略であるとも知らずに――


 ・ ・ ・ ・ ・ ・

 ・ ・ ・

 ・ ・


 メアリの姿をしたソフィーは、メアリの寝室で眠ることになった。

 義父がなにかしでかしたときにすぐ対応できるように、変化の魔術はそのままだ。


 メアリの部屋は可愛らしいクマやお魚の縫いぐるみなどが飾ってあり、ソフィーの住む家とは違ってずいぶんと女の子らしい飾りつけがされていた。

 調度品の一つ一つについても可愛らしい系だ。赤を基調とした机は椅子は実にファンシーな感じを醸し出している。


 メアリは少し狭い隣のメイド用の控室で寝ている。

 本来家主に何かあった時にすぐに手助けができるように用意された控室だ。

 何かあったらソフィーの元に駆けつけることができるように。

 ソフィーがどうこうなるわけはないのだろうが。

 空には曇天の雲が広がり、静かに黒い雨を降らせている。

 そんな雨に、子供の頃には雨が降ると雷が落ちるから気を付けるのだ、としつこく義父から言われたことをソフィーは思い出す。

 あの時は雷神様におへそを取られないように必死に抱えていたっけ。


(あの頃は楽しかったな――)


 子供の頃は容姿などまったく気にしたことはなかった。

 それか自然と髪を整え、ベル様と一緒に美容に良いこととか初めて――、それからお父様に恋をして――

 しかし魔人であるエディプスの姿かたちはまったく変わっていなかった。


 一方でソフィーはかなり性徴していた。


 少しだけ身長は伸びたし、長すぎて足で踏みそうになって黒髪は一部は切ったけど少しは伸ばした。

 胸も少しだけは膨らんだと、思う。


 性徴した私のことをどう思うか。義父には聞けていない。すぐに召喚から戻してしまったから。

 もう少し話してから返した方が良かっただろうか。

 ソフィーが実家に帰ってからでも良いかもしれないが。

 だが実家に帰るのは、もっとソフィー自身がもっと自分の身体に自信を持ち磨いて、もっとニンゲンの女性らしい仕草ができるようになってからだ。


 こんこん――

 そんなとき、部屋の窓をたたく音がする。この部屋は2階だ。

 訝しがってソフィーは窓を開けた。

 丸窓は時折雨が降りつける。明日の天候もどうやら悪そうだった。


 ここで襲撃などは考えない。

 そんなものが来るのであれば、それこそ返り討ちにするだけだ。

 肌色のネグリジェに魔力遮蔽もないコートという、頼りないない恰好であったが関係ない。

 ソフィーが武装する必要のあるモノというのは、それこそ魔界に住むような魔王くらいでなければならないのだ。

 だが、そのソフィーも自分の慢心を後悔することになる。

 相手はその魔王だったのだ。


(え? なんで? どうして――)


 突然現れた何かに、ソフィーは押し倒された。

 あまりに素早い動きにソフィーは混乱する。

 雨に濡れた手がソフィーの首筋に迫る。

 その姿にソフィーは見覚えがある。


(あ、お父さん――)


 気が動転してうまく声を発することができないソフィー。

 その現れた義父に、思わず目を見張る。

 その漆黒の瞳と、義父の瞳が交差する――


(お父さんが? 召喚されていないのに、どうして――)


 でも考えれば分かる。

 別に召喚などされなくても、義父はこの場所に来ることはできるのだ。

 空間転移の術式はベル様も十八番であり、魔王たちにとって珍しいものではない。

 魔界との行き来が禁止されている分けでもなんでもない。

 そもそも、ソフィーは空間転移術式は義父に教えて貰ったことがある。

 本人が知らないはずがない。


「フォン・メアリ・ラストだな―― ≪Einfrieren(動くな)≫」それは拘束の術式だ。

 術者本人が認識した本人の名前を指定して魔術領域(サイド)からその身を縛るというもの。

 しかし、義父はその効果に疑問符を浮かべる。


 当然だろう、義父が捕まえているその少女は、メアリ・ラストではなく、ソフィー・ヴァイオレッタなのだから。


「効きが悪いな――。フォン・メアリ・ラスト―― ≪Einfrieren(動くな)≫」


 再度の命令。

 あう……、と遠くでくぐもった音が聞こえるのをソフィーは聞き逃さなかった。

 あれはメイドの控室から聞こえるメアリの声だ。


 それは大変拘束力の強い術式なのだろう、そんなものを2度も受ければ――


「おや? まだか――。そうか――。俺の魔力を受けているからな――。ならば――」


 3度目の拘束術式を行使しようとする義父に、ソフィーは恐怖した。


(そんなことをしたら、メアリが死んじゃう――)


 ソフィーはメアリに代わりに、義父の前で術式が掛かった振りをしてぐったりすることにした。


「ふむ。やった掛かったか。それでは次だな――」


 次に義父は手に一本の黒髪を取り出す。


(アレは私の――お父さんは何をする気なの?)


 黒髪の女の子をソフィーは知っている。それは自分自身だ。

 義父はその髪を使いソフィーに術式を仕掛ける。


「『≪In durren Blattern sauselt der Wind≫』」


あれは、さっきの―― 一体……)


 それは先ほどの変身術式だ。


 するとどうだろう。

 ソフィーの身体は、メアリの身体から変身し――、もとのソフィーの姿に戻った。

 その黒髪はやはりソフィー自身のものであったに違いない。


 義父であればそれはいつでも入手可能だろう。

 実家には家を出る前に使っていたソフィー専用のブラシなどが置きっぱなしだ。


「メアリ――。すまないが君には俺が与えた魔力の代償を払ってもらうよ。君にはソフィーの身代わりにその純潔を捧げてもらう。ほら、親子の間でこんなことをするのはいけないことだろう? だけどこのままずっと愛を語れないのなら、俺はどうにかなってしまう。だから――」


 義父はソフィーの服に手をかける。

 ソフィーの服装は肌色のネグリジェだ。

 あまりに頼りなく、引きちぎるには容易すぎた。


「あぁ、ずっとソフィーにはこういうことがしたかったんだ。あの神殿前で拾った、あのときからずっと――。俺の大好きなソフィー。俺はソフィーが好きだ――」


 力ずよく抱きしめるエディをソフィーは引きはがそうとするが、男女の、魔人と人の力の差は歴然でどうすることもできない。


(ここでお父さんと声をあげれば、お父さんは止まるかな?)


 混乱する頭のなかでソフィーは思う。

 ソフィーが実はそれはメアリ扮していた私だと告げれば。

 お父さんと告げればその声だけで義父はすぐに気づくはずだと思う。

 しかしソフィーは声を上げなかった。


(だけど、ここで凌げても。明日は? そして明後日は?)


 いつか友達のメアリが、義父の毒牙に掛かるかもしれない。


(代償を求める義父を私は止められるだろうか?)


 義父の手は容赦なくソフィーの身体をさする。


(だったら、このまま身代わりに……)


 ソフィーはその刺激に右手の人差し指をそっと噛んで、耐えた――


「ん――」


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