ep.26 唇
「ん……」
まだ可愛らしい唇に、カイリは自分の唇を重ねる。柔らかい。体の力が軽く抜けているのが分かる。ベッドに座ったままのクロエ。お互いに目を閉じたまま、数秒間お互いの感触を確かめあった。
カイリはゆっくりと顔を引く。少し甘い香りが鼻腔を刺激する。青い瞳。目が合うとクロエはカイリの胸に飛び込んだ。カイリが様子を伺うと、クロエは満面の笑みを浮かべていた。
「カイリはキスしたの初めて?」
「ああ。そうだな」
そう答えると、とても満足そうな表情をみせる。どうやら、クロエにとって俺のファーストキスは重要事項らしかった。まぁ、これで丸く収まるなら良いか。
カイリは部屋を出て、別室にいた三人をもう一度呼び寄せる。ちょうど、イルはエルネストとポルトガル語で会話をしていた。
「カピタン。この娘、ムスリムみたいですよ」
「ムスリム……回教徒か」
イルが頷く。回教。現代ではイスラム教と言った方が分かりやすいだろう。フィリピンやインドネシア、ブルネイにはイスラム教徒が多い。元々イスラム商人の東南アジア進出によって広がっていったイスラム教は、現代まで根強く続いている。
「戒律とか色々あるけど、私はそこまで敬虔なわけじゃないから気にしないで」
イルはそう言ってカイリを見つめる。少しの沈黙。後ろ頭に感じるクロエの視線が痛い。カイリはイルに何か特技はあるかと訊ねると、料理が得意だと答えたのでイルは炊事担当にすることにした。
「でも私、豚だけは食べないし触れないからそこんとこヨロシク」
「まぁ、船内で肉を食うことはほとんどないからな。構わないよ」
豚肉好きの華人が多い東南アジアでは、結構意識して食材を選んでいるらしい。豚肉以外の肉でも、ムスリムの正式なやり方で屠殺された肉でないと口にできない、とイルが教えてくれる。
一通り話を終えて、カイリが時計を見ると既に日付が変わっていた。朝がきたら交易品を積んで出航することを伝え、各々部屋に戻る。色々とあった一日だった。
カイリは冷たいシャワーを浴びながら、コエーリョの残したリストのことを考える。アルボルノス商会、ギジェルモ商会、バッサーノ商会。リストには全部で五つの名前が記されていたが、その中でも大きな商会がこの三商会だ。アルメイダ商会はまだ小さな商会で、仲間は五人。先の三商会から見たら、簡単に吹き飛ぶような規模である。
東南アジアを牛耳るポルトガルとスペインの連中は、現地人を奴隷として本国に送り莫大な資金を稼いでいる。その事がどうにも気にかかって仕方がない。単純に、気にくわないというのが本音だ。では、どうしたら良いか。それらの商会を相手に戦うしかないだろう。
戦うには、交易・戦争・策謀と手段は色々あるが、一番手っ取り早いのは戦争だ。しかし、リスクが大きい。どの商会もおそらく百人規模の組織であるため、こちらの犠牲も覚悟しなければならない。また、交易で相手の商圏を奪い疲弊させる方法は、莫大な資金がかかるため今は到底出来ない選択だ。
そうなると、策を講じて相手を潰す方法が一番現実的かな。カイリはベッドに仰向けのまま天井を見つめる。どちらにしても、皆に相談が必要なことだ。まずは、体を休めることが先決。窓から生暖かい風が入り込む。ふと、クロエの可愛らしい唇が頭をよぎった。
お読みいただきましてありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。




