不合格者の回想
彼女との出会いは漫画やドラマのように運命的なものでは無かった。それこそ、電車に乗り合わせたとか、ラーメン屋さんで隣同士の席だったとか、すぐに忘れてしまうようなものだった。それでも、今日ぐらい思い出させてほしい。
確かあの日はうだるような蒸し暑い日で、道路のアスファルトも溶けてしまっていた。その年は僕の大学受験の年で、僕にとって夏休みは休みでなかった。僕の成績は志望する大学の偏差値に少し届いておらず、必死で勉強しなければならなかった。その日も近所の図書館で本棚から引っ張って来た英語の辞書と文法書を広げ、ノートに書き写していた。
「シャー芯貸していただけませんか」
初め彼女に話しかけられたとき、僕はあまりに黙々と手を動かしていたので、彼女の声に気付かなかった。英文を2行書き終えてやっと彼女の視線に気づき、彼女に首を傾げた。
「シャーペンの芯、貸していただけませんか」
もう一度言われて、僕は筆箱を開け、シャー芯のケースを取り出して向かいの席に座る彼女に手渡した。彼女は芯を2本取り出し僕に返して「ありがとうございました」と僕に聞こえるか聞こえないかの声で言った。
僕たちは特に会話することなく、お互いの作業に戻る。僕は彼女のことを綺麗だと思ったが、それで手が止まることは無かった。
次の日も僕は図書館に行っていた。あの年は近年でも猛暑日の多い年で、冷房の効いた図書館は勉強にうってつけだった。自転車を漕いで片道5分で着く場所にあったのも気軽に行っていた理由だった。しかし、その日はあまり暑くて、到着したときには汗だくになっていた。そのため僕は中にある休憩所で休んでいくことにした。グレーのカーペットが敷かれよく冷えた部屋は今まで外にいた僕にとって天国のように感じられ、そこにある自動販売機でジュースを買おう、そう思い財布を取り出した。自販機の前に立ち、何を買おうか迷っていた時。
「あれ、昨日の人じゃないですか」と言って僕に話しかけてきた人がいた。僕は彼女のことを覚えておらず、訝しげに見返して
「覚えてないですか、昨日シャー芯を借りた……」
そこまで言われてようやく思い出す。僕が合点のいった顔をすると、彼女は嬉しそうに笑った。彼女は自販機に硬貨を入れ、ボタンを押す。それを繰り返した。
「どうぞ」
彼女は真っ赤な炭酸飲料の缶を僕に手渡してきた。僕は意味が分からず、受け取ろうとしなかったが
「昨日のお礼です。それに、もう買っちゃいましたから」
僕はその缶を受け取り、礼を言った。彼女は気にしないように言っていたが、シャー芯のお返しにしては高価すぎる気がしたのだった。近くの椅子に座り、缶を開けると炭酸が弾ける音がした。彼女は僕の隣に座り、また炭酸の音をさせてから飲みだした。
彼女もまた受験生で、僕と同じ地方の大学を志望していたのだった。彼女の志望大学の方がいくらか高いレベルであったことは間違いなかったが。彼女も近所に住んでおり、この図書館で勉強しているのだった。ジュースを飲み終えるまで二人で会話をし、しかし、それで終わりだった。僕たちはまたそれぞれに必要なものを持って来て勉強を始めるのだった。
その次の日も、また次の日も僕は彼女と図書館で会った。結局夏休みの間、僕たちはその図書館で毎日会うことになった。僕が休憩所でジュースを買おうとしているときに彼女がやって来て一緒に話をしてから勉強に向かうこともあった。しかし、僕は次第に勉強に集中する時間が短くなっているようだった。
夏休みも最終日のあの日、いつものように図書館に行き勉強をした。さすがに毎日勉強しただけに、昔のように宿題に追われることは無かったものの、僕は昔とは違う焦りを感じていた。まるで集中することなく、ぼうっと閉館時間までノートを書いていた僕は、時間が来るとすぐに彼女を探した。彼女は自転車に荷物を積み込み、鍵を回している最中だった。僕は彼女のもとに駆け寄り、話しかける。
「今日もお疲れ様でした」
彼女は振り返りまぶしそうに僕を見た。丁度、夕日が彼女の顔に当たるように射していたのだった。僕は少し角度を変えるように移動して話を続けた。
「もし良ければ、メルアド、交換しませんか」
僕は詰まりそうになりながら何とか伝える。彼女は躊躇うことも無くスマホを取り出し、その場でアドレスを交換した。彼女は笑顔で別れを告げ自転車を漕いで行った。僕と家の方向は逆だった。
僕はどうやら彼女に恋をしているようだと気付いたのはその頃だった。夏休みが終わると彼女に会うことは無くなったが、僕は頻繁に彼女にメールをしていた。その中で僕たちは様々なことを話した。
彼女は甘いものが好きで、辛いものが苦手なこと。本を読むのが好きなこと。部活は吹奏楽部に入っていること。僕の弟と同じ高校に通っていること。本当にいろいろなことを話した。僕はメールを送っては返信を待ち望んでいた。彼女の返信を待つ時間が多くなるにつれて僕の恋心も大きくなっていた。
暑かった気温が下がり、過ごしやすくなってきた頃、弟が忙しくしていた。弟は吹奏楽部でフルートを演奏しており、その演奏会があるからと練習に励んでいるのだった。三年生の最後の演奏会になるのだとかで、今まで良くしてくれた先輩たちのために絶対に成功させたいらしかった。毎朝、弟は早くに家を出て朝練をしていた。その甲斐もあってか演奏会は上手くできたと言っていた。
外はどんどん寒くなり、いよいよ受験の日がやって来た。僕はこの結果が良ければ、彼女に告白しようと思っていた。だが、試験の手ごたえはかんばしくなく、結局落ちてしまった。彼女は無事合格。僕が落ち込んでいると、彼女はまた来年だよ、と励ましてくれた。家族も次、頑張れと言ってくれた。僕はいつまでも落ち込んでいられないと、また勉強を始めた。
その年は、弟も受験の年だった。偶然にも弟は僕と同じ大学を受験するようだった。二人で勉強に励んだが、いかんせん弟は高校生なので、普段は学校に行っている。僕は毎日図書館に行っていた。もう彼女と会うことのない図書館だったが、いつも彼女が座っていた席に座って勉強すると捗る気がした。
僕の模試の結果はどんどん良くなっていった。弟も順調と言っており、複雑ながらも二人とも合格するだろうと考えていた。
彼女もメールでいつも応援してくれて、近くに行ったら一緒にご飯を食べようなどと約束まで取り付けてもらい頑張った。
その年の受験は上手くいき、確実に合格しただろうと思っていた。しかし、どこかで解答をずらしていたのか、結局その年も不合格だった。吹く風が冷たく、雪が僕に吹き付けていた。一緒に結果を見に行った弟は向こうでガッツポーズをしていた。僕はこれで何か良いものを食べろと金を与え、先に一人で電車に乗った。家に着いても誰もおらず、一人で泣いていた。
彼女にメールを送ろうと思いケータイを探していると、小さなガラステーブルの上に弟のスマホを見つけた。朝、僕があんまりせかしたものだから忘れてしまったのだろう。僕は普段なら全く考えない事だが、弟のスマホに手を伸ばしてしまった。今思うと、あのスマホだけは見てはいけなかったのだろう。パスワードも生年月日で、簡単に開いてしまった。丁度その時、弟のスマホにメールの着信があった。そのメールを開いてみると、差出人は彼女だった。
『結果はどうでしたか。合格していることを望んでいます。どうか私の近くに来てくださいね』
その内容を見たとき、僕は全て把握した。僕は弟のことを彼女に話していないし、弟も話したとは考えづらい。恐らく偶然だろう。だが、同じ高校で、同じ部活の先輩後輩。知り合いの可能性を考えておくべきだったのだ。そして二人はすでに知り合いとは言えない仲まで発展しているのだろう。
それに気づいたとき、僕は何を考えたのか、今でははっきり思い出せない。いや、もうどのような方法でここまで来たのかも覚えていない。足元の身を切るように冷たい水が今では心地よく感じる。こここそ僕が本来いるべき場所だったのだ。家から大分離れた場所にある川まで来ていた。体すべてがその冷たさを求めるように深く深くへと足が進んでいく。水が僕の体を切り裂き、僕の吐き出す泡をすぐに掻き消してくれた。