枯れ井戸スコープ
畜生以下なのはどちらか。
棍棒で殴られた無惨な頭でおれは考えた。
血が出ているのか、殴打された部分に抜けるような感覚を覚える。髪の間を掻き分け、こめかみに液体が伝っていく気配があった。
ちくしょう。どいつもこいつも。
路地裏の壁に手をついて歩みを進める。
どこも汚ねえ壁だ。舌打ちしたくなる。
親の顔も名前も知らず、生まれた時から物乞いで、虫やカラスに混じってゴミを漁り、腐りかけの残飯を糧に生きている。
家畜の方がまだマシというほかない。
頭の方から力が抜けていき、視界が歪む。
開けた先には井戸があった。
水だ。力を振り絞って駆け寄り、覗く。
底が乾ききっているのが辛うじて見えた。
それは枯れ井戸だった。
顔を下に傾けるだけでくらくらしてくる。
朦朧とした意識に行く末を委ね、目を閉じかけたその時──。
笛の音。
底の方から、楽の調べが聞こえてきた。
咄嗟に目を開くと、先ほどまで暗い円筒でしかなかった井戸の底に、金持ちの宴会めいた賑わいが見えた。
おれの頭がおかしくなったのか?
芋売りの親父に殴られたせいで、ついに幻が見えるようになったようだ。
忌々しさと腹立たしさに顔が歪む。
底に広がる光景の中にいる奴らの様子が楽しげなのも気に食わない。
いっそのこと押し入って、掻き乱してやろうかと身を乗り出そうとした瞬間、それらは跡形もなく霧散した。
おれの意識もそこで途絶えた。
◇
不本意だったが、この場所は穴場だった。
人が来ない。獣が来ない。屋根がある。
おれが求める条件を満たしており、汚いことには変わらないが、不躾な干渉をされない自由さがある。
そしてもう一つ──。
頭が治っても、井戸は夢を見せ続けた。
唾をかけたくなるような歪な世界だ。
虫唾が走る気味悪さだった。
ある時は澄んだ霊泉。
ある時は天の宮で踊る姫。
ある時は月明かりに輝く雪原。
日毎に手を替え品を替え、おれの前に異界の存在を出現させる。
盗みを働いた日にも、雨水を別の乞食に分けてやった日にもそれは平等に現れた。
目を奪われる。
美しいと思った。
こんなことは初めてだった。
ふいに、おれをうみ出し、産み落とした二人の人間のことを考えた。
おれが生まれる前に死んだ人間達。
往々にして、死人には何かしらの美談がつきものだが、彼らへの称賛の声は聞いたことがない。
そればかりか、おれの影に奴らの存在が掠めるだけで罵詈雑言が飛び交うものだから、ろくでもない人間だったことは間違いない。
唇を噛む。
クソ野郎。クソ野郎。
どいつもこいつも死ね。
村の水が枯れ始めたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
正確には井戸だ。
生活の要である村の井戸が渇水しているらしい。おれには関係のないことだった。
おれの生活用水は甕かめに貯めた雨水であり、井戸の水など分けてもらったことがない。
寺の坊主でさえ無視を決め込む始末だ。
食物も育たず、家畜も飢え、病で道端に転がる人間を見て、おれはほくそ笑んだ。
村全体が痩せていくにつれ、食うものがないので、当たり前におれも痩せ細っていく。
最近は井戸を覗き込んでばかりいる。
村が死のうがどうでもいいことだ。
おれが死のうがどうでもいいことだ。
地の底には夢幻の世界があり、おれの精神を清々しく洗った。
井戸の傍に敷いた筵むしろの上で目が覚める。
かすかに水音が聞こえた──気がした。
井底せいていから響いたと見たおれは首を伸ばして覗き込み、顔を顰しかめた。
闇に映し出された夢──それはこの井戸から、こんこんと水が湧き出る光景だった。
冷えた風に顔を撫でられる。
これは予言だと、おれは直感した。
頭に血が上り、沸騰したように熱い。
裏切るのか? おれを?
それなら何のために夢を見せた?
──いや。
たとえ近い将来、湧き水が出て井泉せいせんになったとしても、誰にも伝えなければいい。
そう考えることで、おれはひとまず溜飲を下げた。
めまいに耐えながら路地裏を歩く。
ろくに物を口にしていないせいで、体に力が入らず、足がよろめく。
軽いものが足に引っかかる。
それは人間だった。
女が目を閉じて、浅く息をしている。
腕の中には乳飲み子がおり、泣き喚く力さえ失っているのか、じっと押し黙っている。
この女には見覚えがあった。
おれみたいな物乞いには目もくれなかった畜生だった。
いつも澄ましていたくせに、今ではうらぶれた路地裏で死を待つことしかできない。
ざまあみろ。
そう言いかけて、女に抱かれた赤子と目が合う。丸い目がこちらを覗いている。
濁りのない瞳の黒さはあの井戸の底を思わせた。暗闇の中に突如として現れた、万華鏡のごとき刹那の極彩色──。
その目の内に、おれは無限の世界を垣間見た。
嫌な考えが頭をよぎる。
女の肩を揺さぶり、井戸の方向を指差してやろうかと──ぞっとしない冗談だ。
反吐が出る。
足に力を込め、おれは決死の思いでその場を立ち去った。
ちくしょう。
おれにどうしろと言うのか。
人助けをしろ?
何のために。
あの女も、村の奴らも、一度でもおれに残飯以外のものを投げて寄越したことがあったか?
出来立ての飯を。水を。
手を差し伸べてきたことはあったか?
どいつもこいつも──
おれを助けてはくれなかっただろ。
おれは立ち止まり、ただ地面を眺めた。
とっくに路地は抜けており、隣には、疲労に満ちた顔で天を仰ぎ、神に祈りを捧げている真っ最中の見知らぬ爺がいた。
殺すか、生かすか──。
爺の掠れた呟きが耳に届く。
おれは天を見上げた。
背後から、赤子の泣き声が遠く聞こえた。
もう全てがうんざりだ。
おれは何も手にすることができない。
せっかく美しいと思ったのに。
おれだけのものだと思ったのに。
生きて、生かさなければならないのか?
その先には何がある?
一体、どんな景色が──。
おれは目を伏せ、隣を見やった。
今にも召されそうな表情の爺の背中を叩き、その垢だらけの耳元に天啓を囁いた。
◇
村人達が井戸から水を汲んでいく様子を、おれは影から黙って眺めた。
つまらないことだ。
今や好ましいと思えるものなど何もないように思えた。
どこからか現れた爺がおれに声をかけ、水桶やら柄杓やらを手渡してきた。
おれの姿を見咎める者はいなかった。
用を済ませた人々が散った後、おれは汲み上げた水を柄杓で掬った。
日の光に照らされたそれは、いつか見た霊泉のように清らかに、涼しげに光っている。
美しい施しだった。
空の青を映して揺らめく清水をしばらく眺めたのち、おれはそっと口をつけた。




