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偽物令嬢にされて冷遇に文句を言ったら改善されたので本物の令嬢を探してあげました【連載版】  作者: ウナ
魔女編

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魔女編8

――教国復興作戦決行の、三日前。


ダイダロス王国での劇的な一夜が明け、帝国の残党が仕組んだ野望を物理的に粉砕したアイラは、エイレーンと共にデブリスコスモ王国の王宮へと無事に帰還を果たしていた。


テオドール国王やクレメンテ宰相に事の顛末を報告し、彼らが安堵の胸を撫で下ろすのを見届けた後、アイラはすぐさま次の行動に移るべく、王宮の中庭に降り立った。


春の穏やかな日差しが肌を優しく撫で、どこからか飛んできた小鳥のさえずりが静かな庭園に心地よく響き渡っている。


アイラは周囲に人の気配がないことを確認すると変装を解き、光り輝く銀色の髪と青玉の瞳を持つ、十二歳ほどの少女の姿へと戻った。


「さて、ダイダロス王国の脅威は去ったけれど、根本的な問題はまだ手付かずのままだわ」


アイラは、春の風に揺れる真紅の薔薇の甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、ぽつりと独りごちた。


神聖エルミナ教国の地下に巣食っていた帝国の亡霊たちはお掃除したが、肝心の『教国そのもの』は、信仰の中心である神聖魔力を失い、腐敗しきった状態のままである。


教国の上層部はダイダロス王国に媚びへつらい、民衆は飢えと不安に怯えながらその日暮らしを強いられているという惨状は、地下の施設を破壊しただけでは決して解決しない。


可愛い子孫であるリアスティエーゼの故郷を、このまま無惨な姿で見捨てておくという選択肢は、アイラの中には存在しなかった。


「教国の問題は、もともと天使たちの領分よね。ちょっと上に直接文句……じゃなくて、相談しに行きましょうか」


アイラは、黒魔法使いの杖を虚空へと掲げ、果てしなく高く澄み渡る青空へとその意識を向ける。


彼女の指先から放たれた純白の魔力が、空間を穏やかに、しかし確実に切り裂いていき、パリンッというガラスが割れるような澄んだ音と共に、天界へと通じる光のゲートが現出した。


躊躇うことなくその光の渦へと飛び込むと、アイラの体はふわりとした心地よい浮遊感に包まれ、次の瞬間には、下界とは全く異なる清浄な空気に満ちた空間へと降り立っていた。


足元には、どこまでも続く真っ白な雲海が広がり、その上を歩くたびに、まるで極上の真綿を踏みしめているような柔らかく反発力のある感触が足の裏に伝わってくる。


見上げれば、太陽が存在しないはずの空全体が、温かく優しい黄金色の光に満ち溢れ、どこからともなく天上の賛美歌のような微かな調べが風に乗って鼓膜を震わせた。


「肺の奥まで真っ白に染め上げられそうなほど、純度の高い静寂と清冽な空気に、かえって目眩がしそうだわ」


アイラは、下界の濁った空気に慣れきってしまった己の肺の奥底まで浄化されるような感覚を味わいながら、雲海の上に建つ白亜の宮殿へと向かってゆっくりと歩き出した。


宮殿の壮麗なアーチをくぐり、水晶でできた柱が立ち並ぶ広間へと足を踏み入れると、そこにはすでに、アイラの訪問を察知していた懐かしい顔ぶれが揃って待ち受けていた。


「ふははは! アイラよ、よくぞ来た! お主がここへ来るということは、もしや下界の『極上のスイーツ』を持参したということじゃな!?」


銀色の鈴を転がすような声と共に、純白のドレスに身を包み、背中に真っ白な二枚の羽を生やした美しい少女が、パタパタと小走りで駆け寄ってきた。


彼女は、かつて神聖ルシエラ教国の教皇であり、死後に天使へと転生を果たした、食いしん坊で尊大な天使セレスである。


「久しぶりね、セレス。天使になっても、その相変わらずの食欲と元気さは健在みたいで安心したわ」


アイラが優しく微笑みながらセレスの頭を撫でると、彼女は鼻息を荒くして青い瞳を爛々と輝かせた。


「霞や光、たまの神酒ばかりで、私の胃袋はとっくに干からびて砂漠化しておるのじゃ! もはや味覚という機能が退化しそうで恐ろしいわ! 私は地上の美味い飯が食いたいんじゃぁぁっ!! 早く私にお主のアイテムボックスの中身を捧げるのじゃ!」


「アイラお義姉様、お久しぶりですわ」


地団駄を踏んで騒ぐセレスの後ろから、落ち着いた足取りで歩み寄ってきたのは、アイラの義妹であり、かつて教国の聖女候補でもあったセナだった。


彼女もまた、清らかな白い法衣を纏い、その慈愛に満ちた微笑みは、まさに聖女と呼ぶに相応しい気品を漂わせている。


「セナも元気そうで何よりよ。相変わらず、セレスの面倒をしっかり見てくれているみたいね」


「ええ、もう慣れっこですから」


セナがクスクスと鈴を転がすように笑うと、その隣から、深いため息と共に、ひどく疲労困憊したような擦れ声が響いた。


「本当に、セナちゃんがいなかったら、私はとっくに過労で倒れてるわよ……」


アイラが声の主へと視線を向けると、そこには、天使シュシュエルの器である人間の少女、エマが幽鬼のようにふらふらと立っていた。


彼女の顔色は土気色で悪く、目の下にはくっきりと濃い隈が刻まれており、その佇まいは、数日徹夜で激務をこなした直後の文官のようにボロボロだった。


「あら、エマじゃない。……って、どうしたのその顔。それに、ここは天使の領分なんだから、シュシュエルが表に出てくるべきじゃないの?」


アイラの率直な疑問に、エマは再び重いため息を吐き出し、水晶のテーブルに置かれた椅子にどさりと崩れ落ちるように腰を下ろした。


「シュシュエル様は今、絶賛事後処理に追われていて、かなり疲れているの、とても表に出られる状態じゃないのよ。だから、人間の人格である私が代わりに応対しているの」


「事後処理?」


アイラが首を傾げると、エマはジロリと恨めしそうな視線を、隣で「飯、飯じゃ」と騒いでいるセレスへと向けた。


「この食いしん坊天使が、また天界の食料庫を無断でつまみ食いしようとして結界を誤作動させて、大騒動を起こしたのよ。その収拾をつけるために、シュシュエル様が各所へ頭を下げて回っている最中なの」


「ええい、少し神酒ネクタルの味見をしようとしただけで、大袈裟な防衛システムを作動させおってからに! 天界は飯に対する融通が全く利かんのじゃ!」


セレスがプクッと頬を膨らませて文句を言うと、エマはバンッと力任せにテーブルを叩いた。


「少しじゃないわよ! 天界の防衛システムが作動して、危うく雷が落ちるところだったんだから! セレス様が騒動を起こして、シュシュエル様が収拾にあたるっていうのが、最近の完全なルーチンワークになっちゃってるのよ!」


エマの悲痛な叫び声が、静寂に満ちた天界の広間に虚しく響き渡る。


「天使が過労死するかもしれないなんて、下界の神話のどこを探しても書いてないわよ……もう本当に嫌、私も有給休暇が欲しいわ……」


エマがテーブルに突っ伏して本気で泣き言を漏らし始めたのを見て、アイラは苦笑いを浮かべながら、空間収納からダイダロス王国の王都で買っておいた極上のチョコレートケーキを取り出した。


「まあまあ、エマ。甘いものでも食べて落ち着きなさいな。もちろん、セレスの分もあるわよ。シュシュエルにもよろしく伝えておいてちょうだい」


「おおっ! これじゃ、これじゃあ! 濃厚なカカオの香り……アイラ、よくやったぞ!」


「ううっ……アイラ様、ありがとうございます……糖分が五臓六腑に染み渡ります……」


セレスが歓喜の声を上げてケーキに飛びつき、エマも涙目で頬張り始めたのを確認し、アイラは表情をスッと引き締めて、本題に入るべく居住まいを正した。


「さて、冗談はこれくらいにしておきましょう。私が今日ここに来たのは、あなたたちに現在の『神聖エルミナ教国』についての情報を共有し、相談に乗ってもらうためよ」


アイラの口から出たその国の名前に、セレスとセナの表情からスッと笑みが消え、エマもケーキを食べる手を止めて真剣な眼差しを向けた。


天界の清浄な空気が、ほんのわずかに緊張で張り詰めるのを感じながら、アイラはダイダロス王国での出来事と、分身たちが集めてきた教国の凄惨な真実を、静かに語り始めた。


「今の教国は、かつての神聖ルシエラ教国とは全くの別物よ。神聖魔力を持たない者ばかりになった教国は、アウストラル帝国の残党たちに乗っ取られていたの」


アイラの言葉に、セナがハッと息を呑んで胸元をきつく握りしめた。


「帝国の、残党……。あの大戦争を引き起こした者たちが、教国を隠れ蓑にしていたというのですか」


「ええ。彼らは教国の地下で、死者を冒涜するような生けるゾンビ合成獣キメラの製造を行い、ダイダロス王国を裏から操って、再び世界を戦争の炎で包もうと企んでいたわ」


「なんじゃと……! 神聖なる我が教国の地下で、そんなおぞましいことをしでかしておったのか……!」


セレスもまた、かつての教皇としての怒りと責任を感じているのか、青い瞳を鋭く細めて獣のように低く唸った。


「それに、彼らは私の愛する子孫であるアルジェントの血を引く者を『悪魔の血』と呼んで、理不尽に迫害し続けていたの。……これに関しては、個人的に絶対に許せなかったから、昨日の夜のうちに、彼らの研究施設ごと残らず物理的に消し炭にしてきたけれどね」


アイラが事もなげに恐ろしい事後報告をすると、エマが目を見開いてむせたように咳き込んだ。


「ゲホッ、ゴホッ! ちょ、アイラ様!? またそんな大規模な破壊活動を一人でやってきたの!?」


「お掃除よ、ただの消毒。これでダイダロス王国が世界統一に動くことはなくなったし、帝国の亡霊たちも完全に沈黙したわ」


アイラは、エマの驚愕を冷たいハーブティーを飲むように涼しい顔でスルーし、言葉を続けた。


「でも、私が破壊したのはあくまで地下の腐敗した根っこの部分だけ。残された教国には、今や指導者も、信仰の核となる神聖魔力も存在しないわ。このまま放置すれば、あの国は完全に崩壊して、無実の民草が路頭に迷うことになる」


アイラの指摘に、その場にいる全員が重い沈黙に包まれた。


帝国の残党が消え去ったとしても、天使から光の種を与えられなくなった教国は、もはや宗教国家としての体を成していないのだ。


「本来なら、神の教えを説く国がどうなろうと、人間の問題は人間が解決すべきよ。でも……私には、リアスティエーゼという教え子がいる」


アイラは、北の大地で健気に氷の魔法の訓練に励んでいる銀髪の少女の顔を思い浮かべ、瞳を和らげた。


「あの子に、故郷が崩壊したなんて悲しい報告はしたくないの。だから、教国を復興させたい。……天使であるあなたたちに、その手助けをしてほしいのよ」


アイラの真っ直ぐな視線を受け止め、セレスは力強く頷いた。


「アイラの気持ち、よく分かるぞ。私も、かつて自分が治めていた国が、あのようなふざけた亡霊どものせいで無様に終わってしまうのは、絶対に我慢ならんのじゃ!」


セレスがそう言うと、エマが顎に指を当てて、少しだけ困ったような表情を浮かべた。


「でも、天使は基本的に地上に、つまり人間の歴史に直接干渉することは稀なのよ。天界のルールとして、完全に禁止されているわけじゃないけれど、過度な干渉は避けるべきだっていうのが共通認識だから」


「過度な干渉は避けるべき、ね。魔女の掟と同じようなものかしら」


アイラが納得したように頷くと、エマは肩をすくめた。


「ええ。悪魔が絡んだ事案なら、聖戦を起こさせたりと大っぴらにはっちゃけることもできるみたいだけれど、今回はあくまで人間の国同士のゴタゴタだし、しかも帝国の残党はアイラ様がすでに更地に変えちゃった後だしね」


「殆どの天使が、禁止されてはいないけれど、わざわざ人間に干渉しようとは思わないってことね。人間がどうなろうと、天界には関係ないもの」


アイラが現実的な視点で分析すると、セナが静かに、しかし力強い声で口を開いた。


「ですが、現在のエルミナ教国は、単なる人間の国ではありません。神話にもある通り、あそこは天使たちの父である神を祭り、昔、天使が直接人間に助言を与えつつ建国された、特別な国のはずです」


セナの言葉に、セレスも深く頷いて同意した。


「セナの言う通りじゃ。教国は、天使と人間の絆の象徴として生まれた国。だから、私たちが手を差し伸べる正当な理由は十二分にあるはずじゃぞ」


二人の強い決意の眼差しを見て、アイラは唇の端を吊り上げて、ニシシと悪戯っぽく笑った。


「決まりね。天界の堅苦しいルールがなんだっていうの。私たちで、あの腐りきった教国をもう一度、一から綺麗に復興させましょう」


アイラの言葉に呼応するように、天界の空を覆っていた黄金色の光が、さらに一段と強く、温かく輝きを増した。


「ふははは、やるぞ! 私は元教皇として、もう一度あの国に豊穣と、極上の飯と笑顔を取り戻してやるんじゃ!」


セレスが両手を握りしめて意気込むと、セナも優しく微笑んでアイラを見た。


「私も微力ながら、全力でお手伝いさせていただきます。お義姉様」


「ちょ、ちょっと待ってよ! 私、まだシュシュエル様に許可を取ってない……!」


エマが慌てて制止しようとしたが、アイラは彼女の肩をポンと軽く叩いて、極上の笑顔を向けた。


「大丈夫よ、エマ。面倒な物理的なお掃除は全部私がやるから、あなたたちは少しだけ『天使としての奇跡』を演出してくれればいいの。それに、仕事が終わったら、また絶品スイーツを山ほどご馳走してあげるわ」


「スイーツ……山ほど……」


エマの目が、疲労と甘いものへの欲求でぐるぐると回り始め、やがて完全に陥落したように深くため息を吐いた。


「……分かったわよ。シュシュエル様には、私から上手く説明しておくわ。過労死しない程度に、協力させてもらうわね」


「言質とったわよ。さすがはエマね、話が早くて助かるわ」


アイラは、完璧な協力者たちを得て、満足げに立ち上がった。


「それじゃあ、さっそく具体的な復興プランを練りましょうか。帝国の残党が消えて指導層が空っぽになった今の教国に、どうやって新しい信仰と秩序をもたらすか」


天界の白亜の宮殿で、最強の魔女と、元教皇の天使、天使のハーフ【ネフィリム】、そして苦労天使の器という、かつてないほどに異色で強力なメンバーによる、一国の復興会議が幕を開けた。


彼女たちの決意は、冷たい闇に沈んでいた教国に、再び温かく清らかな光をもたらすための、確かな第一歩となるのだった。


天界の白亜の宮殿は、太陽が存在しないにもかかわらず、どこからともなく降り注ぐ黄金色の光によって常に温かく照らされていた。


微かに聞こえる天上の賛美歌が、水晶でできた柱の間を抜けて心地よく響き渡り、肺の奥まで浄化されそうなほど清冽な空気が広間を満たしている。


しかし、その神聖極まりない空間の中央に置かれた水晶のテーブルでは、最強の魔女と天使たちという異色の面々が、極上のチョコレートケーキをつつきながら、人間の国の政治と宗教という極めて泥臭い話題について議論を交わしていた。


「それにしても、天使のルールって本当に曖昧なのね」


アイラは、空間収納アイテムボックスから取り出した淹れたての紅茶を優雅に啜りながら、呆れたようなため息を漏らした。


「干渉は禁止されていないけれど、基本的には何もしない。……それって、ルールじゃなくてただの怠慢じゃないの?」


アイラの辛辣な言葉に、人間の器であるエマはケーキの最後の一口を名残惜しそうに飲み込み、大きく肩をすくめた。


「アイラ様の言う通りよ。天使は基本的に、人間に対して干渉することを嫌うの。完全に禁止されているわけじゃないけれど、自分たちから進んで歴史に介入しようとする天使は、今の天界にはほとんどいないわね」


エマの言葉の裏には、彼女の中に眠る本物の天使、シュシュエルの意思が微かに反映されているようだった。


「でも、例外はあるんでしょう?」


アイラが首を傾げると、エマは深く頷き、真剣な表情でテーブルに身を乗り出した。


「ええ。唯一、天使たちが目の色を変えて大っぴらに干渉してくるケースがあるわ。……それは、『悪魔』が絡んだ事案よ」


エマの言葉に、隣でケーキのおかわりを要求していたセレスの動きがピタリと止まり、天使のハーフであるセナも少しだけ顔を強張らせた。


「悪魔の存在や、彼らが人間界に及ぼす影響に対しては、天界は極めてヒステリックに反応するの。そういう時は、『聖戦だ!』『浄化だ!』って、大義名分を掲げて思いっきりはっちゃけることができるみたい」


「なるほどね。悪魔という絶対的な敵がいる時だけは、重い腰を上げてヒーローごっこをするわけね」


アイラは、ティーカップの縁を指先でツーッと撫でながら、冷ややかな笑みを浮かべた。


「……でも、それ以外の、人間同士の争いや国の興亡、飢餓や疫病なんかには、一切見向きもしない。人間がどうなろうと、知ったこっちゃないというスタンスってわけだ」


その身も蓋もない真実に、セナは悲しげに瞳を伏せ、祈るように両手を組み合わせた。


「天使の方々にとって、人間の寿命や国の歴史など、瞬きをするほどの短い時間に過ぎないのでしょう。だからこそ、いちいち感情移入して干渉していたら、彼ら自身の存在が揺らいでしまうのかもしれません」


セナの言葉を聞きながら、アイラは魔女としての自分自身の在り方を振り返っていた。


(人間のことが知ったこっちゃない……それは、私たち魔女も同じね)


アイラは、異次元の魔女の世界で過ごした果てしない時間を思い出し、ほんの少しだけ瞳の奥に孤独な影を落とした。


魔女たちもまた、永遠とも呼べる時間を生きる存在だ。


人間の国が栄えようが滅びようが、それは庭の隅でアリの巣が作られては壊れるのを眺めているのと大差ない。


魔女の掟でも『人間界への過度な干渉は辞めましょう』と推奨されているが、それも決して絶対の禁止事項ではなく、「どうせすぐに死ぬ人間に関わっても面倒なだけだから、適当に放っておきなさい」という、極めて冷淡な無関心から来るものだった。


「天使も魔女も、結局は同じね。次元が違う存在からすれば、地上の出来事なんてどうでもいいのよ」


アイラが自嘲気味に呟くと、セレスがバンッと水晶のテーブルを両手で叩いて勢いよく立ち上がった。


「馬鹿を言うでない! 少なくとも私は、教国で生きる民草のことがどうでもいいなどと、一瞬たりとも思ったことはないぞ!」


セレスの青い瞳には、元教皇としての強い責任感と、人間に対する深い愛情が炎のように燃え上がっていた。


「私は天使になったが、元は人間じゃ。それに、美味い飯を作ってくれるのはいつだって人間じゃろうが! 人間が滅んでしまえば、誰が私に極上のスイーツや肉を捧げてくれるというのじゃ!」


「ふふっ。前半は格好良かったのに、後半で結局食欲に帰結するところがセレスらしいわね」


アイラが吹き出すと、ピンと張り詰めていた空気が少しだけ緩み、エマも呆れたように苦笑いをした。


「でも、セレス様の言う通りよ。生粋の天使たちは人間に無関心でも、元人間のセレス様や、天使のハーフであるセナちゃんは違う。だからこそ、私たちが動く意味があるのよ」


エマの言葉に、セナも静かに、しかし力強く頷いた。


「ええ。教国は今、帝国の亡霊たちによって神聖魔力を失い、信仰の土台から腐敗してしまっています。このままでは、罪のない人々が苦しむことになります。どうか、お義姉様の力をお貸しください」


「言われるまでもないわ。可愛いリアスティエーゼの故郷でもあるし、私に任せておきなさい」


アイラは、頼もしい天界の身内たちの顔を見渡し、黒魔法使いの杖を指先でクルクルと回しながら極めて悪辣な笑みを浮かべた。


「天使が人間に干渉するのが禁止されていないなら、やりようはいくらでもあるわ。それに……『悪魔が絡んでいれば大義名分が立つ』んでしょう?」


アイラのその言葉に、エマがハッとして目を見開いた。


「まさか、アイラ様……何か企んでる?」


「企むだなんて人聞きが悪いわね。ただの『プロデュース』よ」


アイラは、椅子に深く腰掛け直し、足を組んで策謀家の顔になった。


「私が昨夜、教国の地下で物理的にお掃除してきた帝国の研究施設。あそこでは、死体を繋ぎ合わせた合成獣キメラや生けるゾンビが作られていたわ」


アイラがそう言うと、セナが顔を青ざめさせ、セレスも不快そうに眉をひそめた。


「それって、まさに生命に対する冒涜であり、悪魔の所業そのものじゃないかしら?」


アイラがニシシと笑うと、エマは完全にアイラの意図を理解し、ポンと手を打った。


「なるほど! 帝国の残党がやっていた非道な研究を、『教国に巣食っていた悪魔の仕業』ということに仕立て上げるのね!」


「ご名答。悪魔が教国を裏から支配し、神聖魔力を奪って国を腐敗させていた。そして、その悪魔の気配を察知した天界から、かつての教皇であるセレスが天使として降臨し、悪魔を浄化して再び奇跡をもたらした……どう? 完璧なシナリオでしょう?」


アイラの提案した壮大で劇的なマッチポンプ(悪魔の部分は事実だが)のシナリオに、セレスは目を輝かせて歓喜の声を上げた。


「ふははは! それは素晴らしいぞ、アイラ! 私が光り輝く姿で空から舞い降り、『悪魔は去った! 恐れることはない!』と宣言すれば、民草は歓喜の涙を流して私を崇め奉り、極上の供物を山のように捧げてくれるに違いない!」


「セレス様、目的が完全に供物にすり替わってますよ……」


セナが優しくたしなめるが、セレスの鼻息は荒くなる一方だった。


「それに、天界の面倒な連中に対する言い訳としても完璧ね。『悪魔がいたから干渉しただけです』って言えば、シュシュエル様も上層部に報告書の言い訳が立つわ」


エマも、事後処理の負担が減ることに気づき、アイラのシナリオに全面的な賛意を示した。


「決まりね。それじゃあ、役割分担よ」


アイラは、空間収納から真っ白な羊皮紙と羽ペンを取り出し、テーブルの上でサラサラと作戦の概要を書き留め始めた。


「まず、セレスは教国の大聖堂の上空に派手に顕現してちょうだい。そのための『光の演出』や『悪魔の浄化の痕跡』は、私が前もって黒魔法と白魔法の合わせ技で作っておくわ」


「任せておけ! この純白の羽と神々しいオーラで、下界の者どもを平伏させてやるわ!」


セレスが自信満々に胸を張る。


「そしてセナ。あなたが真っ先に『光の種』を受け取る神官の役目よ」


アイラが指名すると、セナは困ったように微笑んで静かに首を横に振った。


「お義姉様。私は天使のハーフですから、純粋な人間の代表として奇跡を受け取る役には向いていません。人間たちに『天界の身内の自作自演だ』と疑われる可能性がありますし、そもそもハーフの私には光の種が定着するかも分かりません」


「ああ、そっか。セナは半分天使だもんね。天国にいるセリアを呼び戻すわけにもいかないし……」


アイラは顎に指を当てて、少しだけ考え込んだ。


セレスが降臨し、悪魔を浄化したとしても、その奇跡を受け取り、人間たちの新たな信仰の柱となる『純粋な人間の神官(聖女)』が地上にいなければ、教国はまたすぐに腐敗してしまう。


「つまり……新しい『聖女候補』を、地上の人間の中から見つけないといけないってことね」


アイラが結論を口にすると、天界のメンバーたちは顔を見合わせて深く頷いた。


「まあ、その辺りは私が教国に潜入して、適当に素質がありそうな子をスカウトしてくるわ。舞台のセットアップと一緒にね」


「分かりました。裏方の情報操作と結界の管理は、私とシュシュエル様に任せてちょうだい」


エマの力強い言葉に、アイラは満足げに頷いた。


「教国が復活し、奇跡の光に包まれたという事実をダイダロス王国に見せつけることで、彼らの侵略の意志も完全にへし折ることができるわ。……それに、リアスティエーゼにも、ちゃんと真実を伝えてあげなくちゃいけないしね」


アイラは、北の大地で待っているであろう教え子の顔を思い浮かべ、優しく微笑んだ。


「彼女はもう、『悪魔の血』なんていう理不尽な呪いから解放されたんだって。堂々と胸を張って生きていいんだってことを、私の口から直接言ってあげたいの」


アイラのその言葉に、広間にいた三人は、誰もが温かい感動の眼差しを向けた。


「アイラは、本当に優しいのじゃな。……よし! そうと決まれば、さっそく準備に取り掛かるぞ!」


セレスが気合いを入れて羽を羽ばたかせると、天界の広間に心地よい風が巻き起こった。


「ええ。作戦決行は、私が下界での準備と『聖女候補』のスカウトを終えた三日後の正午。教国の大聖堂の上空で会いましょう」


アイラは立ち上がり、黒魔法使いの杖を虚空へと掲げた。


「それじゃあ、私は一旦下界へ戻るわ。エマ、美味しいケーキの差し入れ、また持ってくるからね」


「待ってるわよ! 絶対に忘れないでね!」


エマの切実な叫び声を背に受けながら、アイラは空間に開いた光のゲートへと飛び込んだ。


――作戦決行まで、あと三日。北の大地。


眩い光のトンネルを抜け、アイラが再びデブリスコスモ王国の王宮、その人気のない中庭へと降り立った時、時計の針はすでに正午を回っていた。


春の柔らかな日差しを浴びながら、アイラは大きく伸びをした。


(テオドール様たちへのダイダロス王国での報告はもう済ませてあるし、教国の復興劇は魔女としての私の個人的な趣味プロデュースよ。これ以上、彼らを巻き込む必要はないわね)


エイレーンを含め、地上の人間は天界の存在など知る由もないのだ。


余計な情報を与えて混乱させるよりも、どこからともなく起きた『奇跡』として外から眺めてもらう方が、彼らにとっても都合が良いだろう。


アイラは、王宮のバルコニーからこちらに向かって優雅に手を振っているエイレーンとアイリーンの姿を遠目に見つけると、楽しげにウィンクを返し、黒魔法使いの杖を振るった。


「【空間転移テレポート】」


パリンッという音と共に、アイラの姿はデブリスコスモの王宮からふっとかき消えた。


アイラが降り立ったのは、猛烈な吹雪が吹き荒れていた数日前とは打って変わり、穏やかな春の陽光が降り注ぐ北の大地、ドミニケル公爵邸の裏庭だった。


雪解けが進み、顔を出した黒い土からは、生命力に溢れた若草の瑞々しい匂いが漂ってくる。


アイラは、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、城塞の地下にある訓練場へと足音を忍ばせて向かった。


(さて、私の可愛い教え子は、ちゃんと留守番できているかしら)


地下へと続く石段を下りていくと、そこからは、鋭く空気を切り裂く氷の魔法の音と、荒い息遣いが聞こえてきた。


「【氷結アイス・メイク】……【氷柱の城壁アイス・ウォール】!!」


リアスティエーゼの澄んだ声と共に、地下空間の中央に、分厚く強固な氷の壁が一瞬にして具現化した。


その魔力の密度と展開速度は、アイラがダイダロス王国へ向かう前よりも、さらに一段と洗練され、力強さを増していた。


「素晴らしいわ、リアスティエーゼ。私がいない間も、サボらずに特訓していたのね」


アイラが拍手をしながら訓練場に姿を現すと、リアスティエーゼは氷の壁を霧散させ、驚きと喜びで青玉の瞳を大きく見開いた。


「アイラ様!! お帰りなさいませ!」


彼女は、弾かれたようにアイラの元へと駆け寄り、その場に膝をついて恭しく頭を下げた。


「ふふっ、ただいま。随分と早く戻ってきちゃったけれど、お土産はちゃんと買ってきたわよ」


アイラが空間収納から、王都の超高級店で買ったチョコレートケーキの箱を取り出して見せると、リアスティエーゼは顔をパァッと輝かせた。


「ありがとうございます……! ですが、アイラ様がご無事でお戻りになられたことが、私にとって何よりの喜びです」


彼女の心からの安堵の言葉に、アイラは優しく微笑み、リアスティエーゼの肩に手を置いて立たせた。


「リアスティエーゼ。あなたに、大事な話があるの」


アイラの声のトーンが真剣なものに変わったのを感じ取り、リアスティエーゼも表情を引き締め、姿勢を正した。


「ダイダロス王国での潜入調査で、全ての謎が解けたわ。あなたが何故『悪魔の血』と呼ばれて迫害されていたのか。そして、教国が何を企んでいたのかもね」


アイラは、リアスティエーゼの青玉の瞳を真っ直ぐに見据え、静かに、しかしはっきりとした言葉で真実を紡ぎ始めた。


教国を乗っ取っていたのが、かつてアルジェントアイラたちによって滅ぼされたアウストラル帝国の残党であったこと。


彼らが、自分たちの帝国を灰燼に帰した銀髪の魔女を恐れ、憎むあまりに、その血を引くリアスティエーゼを迫害し続けていたこと。


そして、その帝国の亡霊たちの野望は、アイラ自身の手によって完全に、そして物理的に粉砕されたこと。


真実を聞かされるにつれ、リアスティエーゼの瞳からは大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。


「そう、だったのですね……。私は、悪魔の血なんかじゃなかった。ただ、彼らの逆恨みの対象になっていただけ……」


彼女は、両手で顔を覆い、しゃくり上げながら泣き崩れた。


ずっと自分を縛り付けていた「忌み子」という呪いが、今、完全に解け去ったのだ。


「もう泣かなくていいわ。あなたを虐めていた悪い連中は、私が残らず消し炭にしてあげたから。あなたはもう、誰の目も気にすることなく、堂々とこの銀色の髪に誇りを持って生きていいのよ」


アイラは、泣きじゃくるリアスティエーゼを優しく抱きしめ、月明かりを紡いだようなその銀髪を何度も何度も撫でた。


「アイラ様……ありがとうございます……っ、本当に、ありがとうございます……!」


リアスティエーゼの温かい涙がアイラの肩を濡らすのを感じながら、アイラは魔女としての冷徹な仮面の下に隠された、家族に対する深い愛情を改めて噛み締めていた。


(この子の涙を拭うことができただけでも、今回のはっちゃけたお掃除には十分な意味があったわね)


しばらくして、泣き疲れて落ち着きを取り戻したリアスティエーゼに、アイラはハンカチを手渡しながら、これからの計画について告げた。


「さて、過去の呪縛が解けたところで、次は未来の話よ。……三日後、あなたの故郷である教国に、奇跡が起きるわ」


「えっ……? 奇跡、ですか……?」


目を赤く腫らしたリアスティエーゼが、不思議そうに首を傾げる。


「ええ。腐敗した教国を元の清らかな国に戻すために、私がちょっと大掛かりな『奇跡の舞台』をプロデュースすることにしたの。ただ、ちょっと予定外に、新しい『聖女候補』を見つけてこないといけなくなっちゃったけどね」


「アイラ様が、国を救う奇跡を……?」


アイラがニシシと悪戯っぽく笑うと、リアスティエーゼはアイラの規格外すぎる魔法の力と行動力に、ただただ圧倒されて口をパクパクとさせるしかなかった。


まさかそれが、天界の者たちと結託した壮大な自作自演だとは思いもよらないだろう。


「ディーンには内緒にしておいてね。三日後、私と一緒に教国の空に奇跡が起きるのを、特等席で見せてあげるから」


「はい……! 何が起こるのか全く想像もつきませんが、アイラ様がそう仰るなら、きっと素晴らしい奇跡が起きるのですね」


リアスティエーゼの顔には、もう過去の陰りは一切なく、これからの未来への期待と、アイラに対する絶対的な信頼の光だけが輝いていた。


「ええ、任せておきなさい。この名探偵アイラ様が、最高のハッピーエンドを演出してあげるんだから!」


アイラは、決意を新たに胸を張り、三日後に控えた極秘のビッグプロジェクトに向けて、密かに魔力の波長を研ぎ澄まし始めていた。


それは、地上の誰にも真実を知られることなく執り行われる、魔女による最高に痛快な世界救済のエンターテインメントの幕開けであった。


――作戦決行の二日前、夕刻。教国スラム街。


重苦しい灰色の雲が、神聖エルミナ教国の王都の空をどんよりと覆い隠していた。


冷たい隙間風が、朽ちかけたレンガ造りの建物の間をすり抜け、アイラの亜麻色に変装した髪を無遠慮に揺らす。


鼻を突くのは、下水と腐った野菜が混ざり合ったような、貧困と絶望特有の饐えた匂いだ。


アイラは、みすぼらしい旅のローブのフードを深く被り、泥濘んだ石畳を音もなく歩きながら、周囲の情景を静かに観察していた。


教国の中枢を裏から支配していた帝国の亡霊たちが、アイラの手によって一夜にして物理的に消し炭にされてから二日が経過している。


指導層である枢機卿や高位の神官たちがダイダロス王国への使節団として出向いた先でパニックに陥り、地下の軍事研究施設が跡形もなく消滅したことで、この王都の行政と治安は完全に機能不全に陥っていた。


「配給はまだか! もう三日もまともなものを食っていないんだぞ!」


「神官様たちはどこへ行ったんだ! 悪魔の呪いだ、これは悪魔の呪いに違いない!」


広場の方からは、飢えと不安に駆られた民衆たちの怒声と悲痛な叫び声が、不協和音となって絶え間なく響いてくる。


アイラは、その惨状を冷徹な魔女の瞳で見つめながら、小さく息を吐き出した。


天使の加護を失い、帝国の残党に都合よく利用されていたこの国は、見せかけの信仰という薄皮が一枚剥がれただけで、これほどまでに脆く崩れ去るのだ。


(やはり、根本的な治療が必要ね。……そのためには、新しい信仰の柱となる『聖女』の存在が不可欠だわ)


アイラは、天界での会議で決まった『奇跡のプロデュース』の重要なキャストを探すため、魔力探知の網を街の隅々へと広げていった。


彼女が探しているのは、膨大な魔力を持つ戦闘要員ではない。


天使が直接与える『光の種』をその身に宿し、民衆を導くための清らかで強靭な精神の器を持つ、純粋な人間の少女だ。


アイラは、大通りから外れた、さらに環境の悪いスラム街へと足を踏み入れた。


かつてアイラ自身も、前世の記憶を思い出す前は、似たようなスラムの路地裏で泥水を啜って生き延びていた栄養失調児だった。


だからこそ、こういう場所にこそ、逆境の中で磨かれた本物の原石が転がっていることを、彼女は痛いほどよく知っているのだ。


ぬかるんだ路地を奥へと進んでいくと、崩れかけた教会の廃墟の陰から、微かな子供のすすり泣く声が聞こえてきた。


アイラが気配を消して近づくと、そこには薄汚れたボロ布を纏った数人の幼い孤児たちが、身を寄せ合うようにして震えていた。


その中心で、一人の少女が、熱を出して苦しそうに咳き込む小さな男の子を、必死に抱きしめている。


「大丈夫よ、トミー。神様は、きっと私たちを見捨てたりしないわ」


少女の声は、長引く飢えと寒さでひどく掠れていたが、その響きには不思議なほどの温かさと、芯の強さが宿っていた。


アイラは、フードの奥で青玉の瞳を細め、その少女をじっと観察した。


年齢は、今のアイラと同じ十二、三歳といったところだろうか。


泥と煤にまみれてはいるが、色素の薄い金色の髪と、新緑の森を思わせる澄んだ翠の瞳を持っている。


(……見つけたわ)


アイラの魔力探知が、少女の体の奥底に眠る、極めて純度が高く、清らかな魔力の波長を正確に捉えていた。


それは、帝国の残党たちが教国に撒き散らした淀んだ魔力とは対極にある、透明な湧き水のような魂の輝きだった。


「でも、クロエお姉ちゃん……お腹が、空いて……」


男の子が弱々しい声で呟くと、少女――クロエは、自分の懐から、泥にまみれた小さなパンの欠片を取り出した。


それは、どこかの残飯を拾い集めてきたのか、カチカチに硬く、とても人間の食べるものとは思えない代物だった。


しかし、クロエはそれを自分の口に入れることなく、優しい手つきで細かく砕き、男の子の口へと運んでいく。


「ほら、お食べ。これを食べれば、きっと元気になるから」


極限の飢えに自らの腹の虫が悲鳴を上げているにもかかわらず、クロエはただ慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、小さな命を繋ごうとしていた。


その自己犠牲の精神と、絶望の中でも決して失われない純粋な祈りの姿は、まさに『聖女』と呼ばれるに相応しい資質である。


アイラは、かつての自分の義妹であるセナが、スラムで貧しい人々を助けていた姿をクロエに重ね合わせ、フッと口角を上げた。


(ああ、そうだ。あの日もこんな風に、冷たい雨の降る路地裏で、泥だらけの小さな手を懸命に伸ばしている少女がいたわね)


かつて、貧民街でセナを見つけ出し、温かいスープを与えた日の記憶が、鮮烈な色彩と匂いを伴ってアイラの脳裏に蘇る。


あの時、孤独だったアイラは、彼女を救うことで、自分自身の空虚に開いた穴をも埋めようとしていたのかもしれない。


残酷な運命に翻弄され、愛する家族をすべて救うことは叶わなかった前世の悔恨が、チクリと胸の奥を刺した。


しかし、目の前で必死に小さな命を繋ごうとしているクロエの震える背中は、過去の悲劇を塗り替えるかのように、力強い生命の輝きを放っている。


アイラは、過去の幻影を振り払うように瞬きをし、慈愛に満ちた眼差しで少女を見つめた。


「……合格よ」


アイラは、気配を消す魔法を解き、静かな足取りで彼らの前へと姿を現した。


突然現れたフードの人物に、子供たちはビクッと肩を震わせて怯え、クロエは咄嗟に子供たちを庇うように両手を広げた。


「だ、誰ですか……! 私たちには、奪われるようなものは何もありません!」


警戒心に満ちた翠の瞳で見据えられ、アイラはフードをゆっくりと下ろし、変装を解いて本来の光り輝く銀髪と青玉の瞳を露わにした。


暗く沈んだ路地裏に、アイラの放つ圧倒的な美しさと魔力の余波が、まるで月明かりが差し込んだかのような幻想的な輝きをもたらす。


「奪いに来たんじゃないわ。与えに来たのよ」


アイラは、空間収納アイテムボックスから、出来立ての温かい肉入りのスープが入った寸胴鍋と、柔らかな白いパンが山積みになった籠を取り出し、子供たちの前にドンッと置いた。


途端に、立ち上る濃厚な肉とスパイスの香りが路地裏に充満し、子供たちの目が信じられないものを見るように釘付けになる。


「な、これは……魔法、ですか?」


クロエが呆然と呟くと、アイラはニシシと悪戯っぽく笑い、木の器にスープをたっぷりと注いで彼女に手渡した。


「魔法の国から来た、気まぐれなお姉さんの奢りよ。さあ、遠慮せずにたくさん食べなさい」


子供たちは、クロエの顔を一度伺ってから、彼女が小さく頷くのを見るや否や、我先にとスープとパンに群がった。


「美味しいっ! こんな温かくて美味しいお肉、初めて食べた!」


「パンがふわふわだよぉ!」


涙を流しながら無我夢中で食事を貪る子供たちを見つめながら、アイラはクロエの隣にしゃがみ込んだ。


「あなたも食べなさいな。自分が倒れてしまったら、この子たちを守れないわよ」


アイラに促され、クロエは震える手でスープの器を受け取ると、一口すすって、ポロポロと大粒の涙を零した。


「ありがとうございます……っ、本当に、ありがとうございます……!」


冷え切った体に染み渡るスープの温かさが、彼女の張り詰めていた緊張の糸を解きほぐしたのだろう。


アイラは、クロエの泥だらけの金髪を優しく撫でながら、静かに問いかけた。


「あなたの名前は?」


「クロエ、です」


「そう、クロエ。あなた、神様を信じているの?」


アイラの唐突な質問に、クロエはスープを飲む手を止め、不思議そうに翠の瞳を瞬かせた。


「……はい。今の教国は、偉い神官様たちが富を独占し、私たちのような貧しい者には決して奇跡を見せてはくれません」


クロエの視線が、遠くに見える壮麗な大聖堂の尖塔へと向けられる。


「それでも、私は信じています。神様や天使様は、決して私たちを見捨てたわけじゃない。いつか必ず、本当の光がこの国に降り注ぐ日が来ると……そう祈り続けることしか、私にはできないから」


その言葉には、誰かに教え込まれた狂信ではなく、自らの魂の底から湧き出るような純粋な信仰心が宿っていた。


(完璧ね。この子なら、セリアと同じように、立派に『光の種』を芽吹かせることができるわ)


アイラは、クロエの資質を確信し、満足げに一つ頷いた。


「その祈り、ちゃんと天に届いているわよ。……ねえ、クロエ。あなたがその手で、この国に本当の光をもたらしてみる気はないかしら?」


「え……? 私が、ですか?」


クロエは、目を丸くして自分の泥だらけの手を見つめた。


「そうよ。明後日の正午、あの大聖堂の前の広場に行きなさい。そこで、あなたがずっと信じていた『奇跡』が起きるわ。そして、あなたは新しい聖女として、その奇跡を受け取るの」


アイラの言葉は、まるで予言のように力強く、そして確信に満ちていた。


「聖女……私のような、スラムの孤児が……そんな大層な……」


「出自なんて関係ないわ。神様は、心根の美しい者を選ぶのよ。あなたには、その資格が十分にあるわ」


アイラは立ち上がり、再びローブのフードを深く被って、銀色の髪を隠した。


「スープとパンは、空間収納の魔法袋ごと置いていくわ。明後日まで、しっかり食べて体力をつけておきなさい。……期待しているわよ、クロエ」


アイラは、去り際に護衛として分身をクロエの影に潜り込ませた。


食料を狙ってくる他のスラムの住人から守るためだ。


「あっ、待ってください! あなたは一体……」


クロエの制止の声を背中で受け流し、アイラは路地裏の闇の中へと音もなく歩き出す。


(本当に、あの日のセナそっくりね。……あの温かいスープの味が、あの子の凍えた心を守ってくれますように)


アイラは口元に優しい笑みを浮かべ、闇の中へと溶け込んでいった。


(これで、キャストのスカウトは完了。あとは、最高の舞台を用意するだけね)


アイラは、足取りも軽く、夜の帳が下り始めた教国の中心地、大聖堂へと向かって歩き出した。


――作戦決行の二日前、深夜。大聖堂。


深夜の大聖堂は、まるで巨大な墓標のように冷たく、不気味な静寂に包まれていた。


指導層がいなくなったことで、警備の衛兵たちもまともに機能しておらず、アイラは【透明化インビジブル】の魔法を使うまでもなく、いとも簡単に大聖堂の最奥部へと侵入を果たした。


月明かりだけが差し込む、ステンドグラスに彩られた広大な礼拝堂。


かつては数え切れないほどの信徒たちが祈りを捧げたであろうその場所には、今は埃とカビの匂い、そして帝国の残党たちが残していった淀んだ魔力の残り香だけが漂っている。


「さてと。大道具と照明のセッティングを始めましょうか」


アイラは、黒魔法使いの杖を祭壇の前に突き立て、精神を極限まで集中させた。


「天界の連中を納得させるための『悪魔の痕跡』と、セレスが降臨した時に一番派手に輝く『光の浄化の演出』……両方を同時に仕掛けるわよ」


アイラの足元から、禍々しい漆黒の魔力と、神聖な純白の魔力が、まるで二匹の龍が絡み合うようにして床の石畳へと染み込んでいく。


闇の瘴気が這いずり回るための『偽の魔導回路』を敷設し、そのわずか数ミリ下に、臨界点ギリギリまで神聖魔力を充填した『浄化の起爆剤』を埋め込む。


これは、高度な黒魔法と白魔法を同時に、かつ完璧に制御できなければ不可能な、魔女にしか許されない贅沢な光と影の二重奏アンサンブルであった。


「……ふぅ。こんなところかしら」


数時間の精密な作業を終え、アイラは額の汗を拭って満足げに仕掛けを確認した。


肉眼では何も見えないが、魔力探知を行えば、おぞましい悪魔の気配と、それを今にも食い破らんとする圧倒的な光のエネルギーが、大聖堂の床下にパンパンに詰まっているのが分かる。


「完璧な舞台装置だわ。これなら、セレスが派手に顕現した瞬間に、教国中を覆い尽くすほどの光の柱が立ち上がって、一瞬で全ての瘴気を浄化する最高の演出になるはずよ」


アイラは、祭壇に背を向け、大聖堂の高い天井を見上げた。


三日後、この空を割って、食いしん坊の天使が降臨する。


そして、あの純粋な少女クロエが光の種を受け取り、教国は帝国の呪縛から完全に解き放たれるのだ。


「楽しみね。ダイダロス王国の連中が、この奇跡を見てどんな顔をするのかも含めて、最高のエンターテインメントになりそうだわ」


アイラは、誰もいない大聖堂でニシシと悪党のように笑い、再び闇の中へとその姿を消した。


あとは、運命の日の幕が上がるのを、特等席で待つだけである。


――作戦決行の当日、正午。大聖堂前広場。


神聖エルミナ教国の王都の中心にそびえ立つ大聖堂の前の広場は、今にも爆発しそうな異様な熱気と群衆の怒号に包まれていた。


分厚い灰色の雲が空を塞ぎ、昼間であるにもかかわらず薄暗い街には、何日も風呂に入っていない人々の汗の匂いと、行き場のない絶望から来る埃っぽい空気が充満している。


「神官どもはどこへ消えた! 腹が減って死にそうなんだ!」


「悪魔の呪いだ! 教国は神に見捨てられたんだ!」


指導層が突如として姿を消し、配給も完全にストップしたことで、飢えと恐怖に駆られた民衆の不安はついに限界点に達しようとしていた。


誰もが血走った目で周囲を睨みつけ、ほんの些細な諍いが暴動の引き金になりかねない、まさに火薬庫のようなピリピリとした空気が肌を刺す。


そんな広場の喧騒を遥か眼下に見下ろす、大聖堂の向かいに立つ高い時計塔の屋根の上。


周囲の景色に完全に溶け込む【認識阻害ハイド】の結界が張られたその特等席で、アイラは空間収納アイテムボックスから取り出した焼きたてのキャラメルポップコーンを優雅に齧っていた。


「アイラ様……下の人々は、あんなにも苦しんでおられます。本当に、このまま見ていて良いのでしょうか」


アイラの隣で身を縮めているリアスティエーゼが、広場から響いてくる悲痛な叫び声を聞きながら、青玉の瞳を痛ましげに揺らした。


彼女の銀色の髪を撫でる風は酷く冷たく、まるで教国の死期を予感させるかのように肌を刺す。


(私にもっと力があれば。かつて彼らに石を投げられた忌み子であっても、あの凍えるような絶望から彼らを救い出せるような、温かい光の魔法が使えたなら)


リアスティエーゼは、己の無力さに唇を強く噛み締め、手すりを握る両手を白くなるまで震わせていた。


「大丈夫よ、リアスティエーゼ。夜明け前が一番暗いのと同じで、奇跡のありがたみを引き立たせるためには、一度ドン底まで絶望してもらう必要があるのよ」


アイラは、甘いポップコーンの香りを漂わせながら、悪びれる様子もなくニシシと笑った。


「それに、ほら。広場の隅を見てごらんなさい」


アイラが指差した先、怒れる群衆から少し離れた大聖堂の石段の影に、身を寄せ合うようにして座っている幼い孤児たちの集団がいた。


その中心で、泥だらけの金髪を揺らしながら、ひときわ熱心に両手を組んで空に祈りを捧げている少女――クロエの姿がある。


彼女の周囲だけは、怒号と絶望の渦の中にあっても、まるでそこだけ清らかな泉が湧いているかのように、静かで澄んだ空気を保っていた。


「あの子が、この国の新しい信仰の柱になる『聖女』よ」


アイラの言葉に、リアスティエーゼは驚いたように目を瞬かせ、食い入るようにクロエの姿を見つめた。


「あのような、幼いスラムの少女が……?」


「そうよ。神様は出自なんて気にしないわ。必要なのは、どんな絶望の中でも他者を慈しみ、光を信じ続けることのできる、絶対に折れない強靭な心根だけなの」


アイラが静かに語り終えると同時に、正午の到来を告げる大聖堂の巨大な鐘が、重々しい音を立てて王都中に鳴り響いた。


ゴォォォン……ゴォォォン……。


その鐘の音が三度鳴り終わった瞬間、広場の空気が急激に凍りついた。


アイラが密かに鳴らした指先の音に呼応して、大聖堂の地下深くから、地鳴りのような低い振動が街全体を揺るがせたのだ。


「な、なんだ!? 地震か!?」


群衆がパニックに陥りかけたその時、大聖堂の白亜の壁の隙間から、まるで生き物のように蠢くドス黒い瘴気が、シューシューと音を立てて噴出し始めた。


「ひぃっ!? な、なんだあの黒い霧は!」


硫黄と腐肉を混ぜ合わせたような、鼻が曲がるほどの強烈な悪臭が広場を一瞬にして包み込む。


アイラが【暗黒物質ダークマター】を駆使して造り上げた、帝国の残党たちの非道な研究を象徴する『偽の悪魔の瘴気』だ。


偽物とはいえ、大魔女が本気で創り出した魔力の塊であるため、そのおぞましさと恐怖の煽り効果は絶大だった。


「あ、悪魔だぁぁっ! やっぱり教国は悪魔に呪われていたんだ!!」


「逃げろ! 飲み込まれたら魂まで喰われるぞ!」


先ほどまで暴動を起こしかけていた民衆たちは、得体の知れない黒い瘴気を前にして完全に戦意を喪失し、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始めた。


阿鼻叫喚の渦と化した広場の中で、ただ一人、クロエだけが逃げることなく、怯える弟や妹たちをその細い腕で庇いながら、真っ直ぐに大聖堂を見据えて祈り続けていた。


「神様……どうか、どうか私たちをお救いください……!」


クロエの掠れた、しかし強い祈りの声が、大気の震えとなってアイラの魔力探知網に触れた。


「よし。役者は揃ったし、舞台も十分温まったわね。……さあ、最高のエンターテインメントの始まりよ」


アイラが黒魔法使いの杖を天に向かって高く掲げた、まさにその時だった。


空を重く覆い尽くしていた灰色の雲が、まるで巨大な見えない剣で切り裂かれたかのように、真っ二つにパカンと割れた。


「……えっ?」


逃げ惑っていた民衆たちが、頭上から突如として降り注いだ眩い光に足を止め、呆然と空を見上げる。


雲の裂け目から差し込んだのは、太陽の光とは全く異なる、温かく、そして圧倒的に清らかな黄金色の光だった。


どこからともなく、幾重にも重なる美しい天上の賛美歌が響き渡り、硫黄の悪臭は瞬く間に甘い百合の花の香りへと塗り替えられていく。


黄金の光の道筋を通って、空の彼方からゆっくりと降下してくる一つの影があった。


純白のドレスの裾を風に翻し、背中に生えた真っ白な二枚の羽を優雅に羽ばたかせながら、この世のものとは思えない神々しい美貌を持った少女が、空中に顕現したのである。


「て、天使様だ……!」


誰かが震える声で叫ぶと、広場にいた何万という民衆が一斉にその場に跪き、信じられない奇跡を前にして平伏した。


時計塔の上で見ていたリアスティエーゼもまた、息を呑んで両手を口元に当て、空に浮かぶ天使の姿に釘付けになっている。


「恐れることはない、下界の者どもよ! この地に巣食っていたおぞましき悪魔は、この天使セレスが完全に浄化してくれようぞ!」


セレスの凛とした、しかしどこか威厳に満ちた(そして美味しい供物を期待している)声が、不思議なほどはっきりと教国中の人々の耳に届いた。


その宣言と同時、アイラは大聖堂の地下に仕込んでおいた【光の極大陣ホーリー・マトリクス】の起爆スイッチを、魔力で完全に押し込んだ。


カッ!!


大聖堂の地下から、天を衝くような凄まじい純白の光の柱が、轟音と共に一気に立ち昇った。


それはまるで、地上に巨大な太陽が生まれたかのような、目が眩むほどの圧倒的な光量の爆発だった。


「おおおおおっ……!!」


光の柱から放たれる極大の神聖エネルギーの波動が、広場に渦巻いていた黒い瘴気を瞬時に喰い破り、塵一つ残さず蒸発させた。


瘴気だけではない。


その光を浴びた人々の体に残っていた疲労や、軽微な病、そして心の中に巣食っていた飢えによる絶望感までもが、春の陽だまりのような温かさによって優しく溶かされていく。


光の奔流が収まると、そこには黒い雲一つない、果てしなく高く澄み渡るような青空が広がっていた。


「ああっ……神よ、天使様……!」


「奇跡だ、本物の奇跡が起きたんだ!」


民衆たちは歓喜の涙を流し、互いに抱き合いながら、空に浮かぶセレスに向かって狂信的なまでの祈りの声を上げ始めた。


セレスは、眼下で自分を崇め奉る数万の群衆を見下ろし、内心で「これで極上のスイーツと肉が選び放題じゃ!」とヨダレを垂らしそうになるのを必死に堪えながら、優雅に羽ばたいて広場へとゆっくりと舞い降りた。


彼女が降り立ったのは、石段の影で祈り続けていたクロエの目の前だった。


「て、天使様……」


クロエが震える声で呟き、恐れ多くて目を伏せようとした瞬間、セレスの温かく柔らかい手が、彼女の泥だらけの頬を優しく包み込んだ。


「顔を上げるのじゃ、幼き娘よ。汝のどんな絶望にも屈しない清らかな祈りは、確かに天の我らの元まで届いておったぞ」


セレスが慈愛に満ちた(ように見える)微笑みを浮かべると、クロエの翠の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。


「今日より、汝がこの国を導く新たな『光の器』じゃ。……さあ、受け取るが良い!」


セレスがクロエの胸にそっと手を当てると、彼女の手のひらから、眩いばかりの純白の光の球体が生まれ、クロエの体の中へとスッと吸い込まれていった。


天使から直接与えられる神聖魔力の源、『光の種』である。


「あっ……温かい……」


クロエの体が、淡い金色のオーラに包まれ始めた。


長引く飢餓でやせ細っていた彼女の頬に赤みが戻り、泥と煤にまみれていた金色の髪が、まるで洗い立ての絹糸のように美しく輝き始める。


そして、クロエの体から溢れ出した温かい光の波紋が、周囲の孤児たちや、怪我をして倒れていた人々を包み込み、その傷や病を瞬く間に癒やしていった。


「見よ! 新たな聖女の誕生じゃ!」


セレスが高らかに宣言すると、広場を埋め尽くした民衆から、大地を揺るがすような割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。


「聖女様万歳! 天使様万歳!」


「神は、神は我らを見捨ててはいなかったのだ!」


クロエは、自分の中から湧き上がる得体の知れない、しかし果てしなく温かい力に戸惑いながらも、癒やされて笑顔を取り戻した弟たちの顔を見て、涙と共に強く、強く頷いた。


新たな信仰の柱が立ち、帝国の亡霊たちの呪縛から完全に解き放たれた、かつての名を取り戻した『新生神聖ルシエラ教国』の、真の復活の瞬間だった。


「……素晴らしい、です。本当に、絵本の中の奇跡を見ているようです」


時計塔の屋根の上で、リアスティエーゼはポロポロと感動の涙を流しながら、眼下で繰り広げられる聖なる儀式を特等席で見つめていた。


かつて、自分を「悪魔の血」と呼び、石を投げつけてきた教国の人々。


彼らが今、光にすがりつき、顔をくしゃくしゃにして歓喜の涙を流している。


その姿を見ても、リアスティエーゼの心に不思議と憎しみは湧き上がってこなかった。


(アイラ様が、こんなにも美しい光で、彼らの心を洗ってくださったから……)


ただ、愛する教え子の故郷というだけで、これほどまでに壮大で温かい奇跡を用意してくれたアイラの優しさに、胸が一杯になっていた。


「ええ。大成功ね。これでもう、この国が間違った道に進むことはないわ」


アイラは、自らがプロデュースした壮大で劇的なマッチポンプが完璧に機能したことに満足し、残っていたキャラメルポップコーンを口の中に放り込んだ。


天使の降臨と、新たな聖女の誕生。


これほどまでに派手で決定的な奇跡を見せつけられれば、ダイダロス王国も迂闊にこの国に軍事侵攻しようなどとは考えなくなるだろう。


もし手を出せば、それこそ天界を敵に回して『聖戦』を引き起こす大義名分を与えることになりかねないからだ。


「リアスティエーゼ。あなたの故郷は、もう暗い地下室の匂いなんてしない、光に満ちた国に生まれ変わったのよ」


アイラが優しく頭を撫でると、リアスティエーゼはアイラの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


「はいっ……! アイラ様……本当に、本当にありがとうございます……!」


彼女の過去の傷を完全に癒やし、忌み子という呪いを解き放つための、魔女による世界救済のエンターテインメント。


下界の人間は誰一人としてこの奇跡の裏側を知ることはないが、アイラにとっては、教え子の流した涙の数だけやりがいのある、最高のお仕事であった。


『アイラ、聞こえる?』


不意に、アイラの脳内に直接、念話の声が響いた。


大聖堂の裏手にこっそりと控えていたはずの、エマの声だ。


(ええ、バッチリ聞こえてるわよ。そっちの状況はどう?)


アイラが念話で返すと、エマの呆れたような、しかしどこか楽しげな声が返ってくる。


『セレス様が、しばらくこの新生神聖ルシエラ教国に残って、クロエちゃんの指導をするって言い出したの。新しい聖女を一人前の神官に育て上げるまで、自分が直接教えを叩き込むんですって』


眼下を見下ろせば、セレスが群衆に囲まれながら、クロエの肩を抱いて何事かを熱心に語りかけているのが見える。


彼女の手には、しっかりと供物のパンや果物が握りしめられていたが、その表情はかつての教皇としての責任感に満ちていた。


『全く……天界でもこれだけ真面目に働いてくれれば良いものを』


その時、エマの念話の波長が一瞬だけ変わり、厳格で威厳のある声――本物の天使シュシュエルの声が混ざって、深い深いため息を漏らした。


『あ、ごめんなさい。シュシュエル様が愚痴を言って、また奥に引っ込んじゃったわ』


すぐに器であるエマの声に戻り、彼女が苦笑いしている気配が念話越しにはっきりと伝わってくる。


アイラも、シュシュエルの日頃の苦労を察して、思わずフッと苦笑いを漏らした。


『ふふっ、仕方ないですね。私とエマさんも、セレス様のお目付け役として、しばらく一緒に下界に残ることにしました。教国の立て直しには、まだ時間もかかるでしょうから』


続いて聞こえてきたセナの言葉に、アイラはさらに目を細めた。


(そう。なら、あなたたちもたまには下界の空気と美味しいご飯を、ゆっくり楽しんでいきなさいな。またスイーツの差し入れを持って遊びに来るわ)


『はい、お待ちしておりますわ。お義姉様』


(そういえば、セナ。教国のスラムでね、あなたみたいな子を見つけたわよ。あの子ならきっと、立派な光の器になるわ)


アイラの報告に、念話の向こうでセナが嬉しそうに息を呑む気配がした。


『私のような子、ですか? ふふっ、それはとても楽しみですわ。私がかつてお義姉様に救っていただいたように、今度は私が、その子をしっかりとお導きしますね』


セナの頼もしい返答に、アイラは心底安心したように微笑んだ。


「アイラ様? どうかされましたか?」


一人でクスクスと笑っているアイラを見て、リアスティエーゼが不思議そうに首を傾げる。


「ううん、なんでもないわ。友達が、もう少しここでアフターケアを頑張ってくれるそうだから、安心しただけよ」


アイラは、眼下でセレスが嬉々として群衆から果物やパンを受け取っている姿を呆れたように一瞥すると、立ち上がって黒魔法使いの杖を振るった。


「さあ、帰るわよ。ディーンが心配して、雪だるまになっちゃう前にね」


パリンッ、という音と共に光のゲートが開き、二人は完全に浄化された教国の空から、自分たちの帰るべき温かい北の城塞へと向かって、静かに姿を消した。


アイラたちが北の大地へと帰還したのと時を同じくして、デブリスコスモ王国の王宮では、教国の王都から緊急の早馬で届けられた信じられない報告に、テオドール国王やエイレーンたちが息を呑んでいた。


「教国の上空に天使が降臨し、悪魔の瘴気を一掃した、だと……?」


「ええ。しかも、新たな聖女が誕生し、エルミナ教国はかつての『神聖ルシエラ教国』としての名を完全に復活させたというのです」


報告書を読み上げるクレメンテ宰相の手は、畏怖の念から微かに震えていた。


エイレーンは、窓の外に広がる澄み渡った青空を見上げ、自身の胸元をギュッと押さえた。


(あれは間違いなく、アイラ様が仕組んだこと。彼女はたった一人で、あの腐敗した国を丸ごと救済してしまったのですね)


ダイダロス王国としては、完全に天使の加護下に入り、熱狂的な信仰を取り戻した新生神聖ルシエラ教国に手出しなどできるはずもない。


もし軍を動かせば、それこそ天界を敵に回す大義名分を与えることになりかねないからだ。


こうして、アイラの華麗なプロデュースにより、ダイダロス王国の教国侵攻作戦は完全な白紙撤回を余儀なくされ、世界を巻き込む大戦の火種は、誰に知られることもなく完全に鎮火されたのであった。

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