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偽物令嬢にされて冷遇に文句を言ったら改善されたので本物の令嬢を探してあげました【連載版】  作者: ウナ
プロローグ

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プロローグ

プロローグを一つにまとめました


―― 九年前 王都アルジェント公爵邸 ――


静寂の産室で、公爵夫人エレオノーラの尊い命と引き換えに双子の赤子が産声を上げた。


しかし、その場に控えるメイドや乳母たちはすでに悪魔に乗っ取られていた。


彼らの真の目的は、古の『黒魔法』の素養を色濃く受け継ぐ双子の片割れを、地上を混沌に陥れるための「舞台装置」として奪い去ることだった。


悪魔に操られた乳母が赤子を連れ去る途中、妻の死を知って絶望と焦燥に駆られた公爵レオンハルトと鉢合わせてしまう。


だがその瞬間、悪魔が張り巡らせていた強力な『認識阻害結界』が作動した。


神話級の魔法によって公爵の脳は直接書き換えられ、「双子が産まれた」という事実も乳母の姿も、彼の記憶から完全に消え失せてしまったのだ 。


自分に「一人娘」が産まれたと思い込まされた公爵が産室へと向かう裏で、存在を抹消されたもう一人の赤子は、やがて来る『絶望』の種としてスラムへと送られる。


誰にも知られることなく、残酷な運命の幕が静かに上がったのであった。


―― 現在 王都アルジェント公爵邸 ――


「……何としても探し出せ。王家が来る前に、必ず」


王都の中心にそびえ立つアルジェント公爵邸。その執務室で、当主であるレオンハルトは血を吐くような声で騎士団長に命じた。


彼の最愛の末娘、リリアが何者かに誘拐され、行方不明になってから既に三日が経過していた。


公爵家の情報網を駆使しても足取りは掴めず、レオンハルトの焦燥は限界に達している。


「父上……」


傍らに立つ十五歳の長男、セオドアもまた、目の下に濃い隈を作っていた。


このアルジェントの父子にとって、リリアという少女はただの家族ではない。


九年前。レオンハルトの最愛の妻であり、セオドアの母であるエレオノーラは、自身の命と引き換えにリリアを産み落とした。


『泣かないで。この子は、私が命に代えても守りたかった、私たちの宝物よ』

『セオドア。あなたは強くて優しいお兄ちゃんになるわ。妹を守ってあげてね』


死の直前、慈愛に満ちた微笑みと共に遺されたその言葉は、残された二人にとって永遠の『愛の呪縛』となった。


妻が、母が、己の命を賭して遺してくれた宝物。それを何があっても守り抜くことこそが、亡きエレオノーラへの最大の愛の証明だったのだ。


しかし、その宝物が奪われた。さらに悪いことに、彼らには一刻の猶予も残されていなかった。


「……三日後、王太子殿下と第二王子殿下が、当家を訪問される」


レオンハルトが忌々しげに吐き捨てた。


名目は公爵家への慰問だが、真の目的は九歳になったリリアと王太子との『婚約の顔合わせ』だ。


もし今、リリアが誘拐されて行方不明だと王室に知られればどうなるか。


どれほど純潔であろうと、九歳の少女が賊に攫われたという事実は、社交界において『傷物』という致命的な烙印を押されることになる。王族との婚約はおろか、貴族令嬢としての未来が完全に閉ざされてしまうのだ。


「病に伏せているという理由で面会を遠ざけるにしても、遠目から『あそこにいる』と誤魔化せるだけの身代わりが絶対に必要だ……」


歯噛みするレオンハルトの元へ、一人の暗部がふっと姿を現した。


「閣下。スラム街の廃教会に、リリアお嬢様と同じ年頃で、銀髪の孤児がいるとの情報が」


「……連れてこい。いや、案内しろ。私が自ら赴く」


もはや、藁にもすがる思いだった。レオンハルトはただちに騎士たちを引き連れ、悪臭漂うスラムへと馬を走らせた。



石畳の冷たさが、薄いボロ布越しに肌を刺す。


ひどい頭痛と、胃袋が裏返りそうなほどの空腹感で、私は目を覚ました。


「……ここは、どこ?」


身を起こして周囲を見渡すと、そこは悪臭の漂う薄暗い路地裏だった。


自分の手を見ると、土と煤で汚れきった、骨と皮ばかりの細い子供の手。


私は『アイラ』という名前の、スラムで生きる孤児の少女だった。


――いや、本当にそうだろうか?


「……『意味記憶』はあるけど、『エピソード記憶』がない……」


ズキズキと痛む頭を押さえながら、私は無意識のうちにそんな言葉を口にしていた。


意味記憶、エピソード記憶。スラムの孤児が知るはずもない単語だ。


今の私の頭の中には、アイラとしての短くも過酷なスラムの記憶と、もう一つ、『別の誰か』の記憶が入り混じっていた。


舗装された道路、空を飛ぶ鉄の塊、四角い画面に映る映像。そして、安全で暖かな部屋と、豊富で美味しい食事の数々。


間違いなく、今のこの世界よりもずっと進んだ文明の知識が、私の脳内にインストールされている。


「なるほど。これが巷で言う『転生』とか『憑依』ってやつね」


私は冷静に自己分析を終えた。


しかし、厄介なことに、私の中にあるのは『知識(意味記憶)』だけで、『私が誰だったのか(エピソード記憶)』がすっぽりと抜け落ちていた。


名前も、どうやって死んだのかも思い出せない。ただ、美味しいものを食べるのが好きだったことと、現代社会の常識だけが残っている。


「自分が誰だったかなんてどうでもいいか。問題は、このひもじい現状をどうするかだけど……」


ぐぅぅぅ、と腹の虫が盛大に鳴る。


前世(?)の豊かな食の記憶を思い出してしまったせいで、空腹感がより一層際立ってしまった。


まずはゴミ箱を漁るか、とふらり立ち上がった、その時だった。


「――報告にあった孤児というのは、あれか」


路地裏の入り口に、不釣り合いなほど立派な服を着た男が立っていた。


銀糸の髪に、氷のように冷たい青い瞳。背が高く、ただそこにいるだけで周囲の空気を凍りつかせるような威圧感を放っている。


(えっ、なに? 私、何か悪いことしたっけ?)


身構える私をよそに、男は長い脚を動かして一瞬で私の目の前まで距離を詰めてきた。


そして、私の顔をじっと覗き込む。その冷ややかな瞳には、明確な焦燥と疑念が浮かんでいた。


「……煤と泥だらけでよく分からんな。だが、年齢と背格好は情報通りか。ええい、構わん。とりあえず連れて帰るぞ」


「えっと、おじさん、誰……?」


「連れて行け」


「は?」


男が顎をしゃくると、背後の騎士が私の両脇をヒョイと抱え上げた。


抵抗する間も、説明を求める隙もない。


有無を言わさぬ完全な強制連行。スラムの孤児に拒否権など最初から存在しなかった。



「ひぃぃ、冷たい! 痛い! もっと優しく洗って!」


数十分後。


私はどこかのお屋敷の豪華な浴室で、数人のメイドたちにタワシのようなものでゴシゴシと全身を磨き上げられていた。


ただ、彼女たちが私の頭越しにヒソヒソと交わす噂話のおかげで、私は自分の置かれた状況を大体把握することができた。


私を拾ったあの銀髪のおじさんは、この国でも有数の権力を持つ『アルジェント公爵閣下』。そして、この家には『リリア』という最近行方不明になった娘がいて、私はその身代わりとして急遽連れてこられたということだ。


高級な香油を塗りたくられ、フリルのたくさんついた上質なドレスを着せられると、私は大広間へと引きずり出された。


「……っ!」


大広間で私を待っていた公爵と、その隣に立つのが長男のセオドアだろう。


綺麗に磨かれた私の顔を見た瞬間、二人は同時に息を呑み、雷に打たれたように硬直した。


「……信じられん」


公爵の声が、微かに震えていた。


私の目鼻立ち、そして何気ない表情の中に、彼らが狂おしいほどに愛し、そして失った女性――亡きエレオノーラの面影をはっきりと幻視したのだ。


「まるで、ドッペルゲンガーです。いや……母上に、生き写しだ」


「ああ……」


食い入るように私を見つめる二人。しかし、その甘い感傷は一瞬で断ち切られた。


「……いや。似てはいても、これはただの偽物だ。リリアではない」


公爵は自らを律するように首を振ると、瞬時に氷のような冷徹な当主の顔を取り戻した。


隣のセオドアも、ハッとして表情を引き締める。


「これならば、三日後の王族の訪問も隠し通すことができるだろう。……それ以上の価値はない。おい、執事」


「はっ、ここに」


「こいつの世話は使用人に一任する。適当な部屋に置いておけ。我々はリリアの捜索に戻る」


公爵はそれだけを言い捨てると、もはや偽物の私には微塵も興味がないと言わんばかりに、振り返りもせず足早に大広間を出ていった。セオドアもまた、冷たい一瞥をくれただけで父親の後に続く。


ただの便利な道具。それが、彼らにとっての私の価値だった。


私だって、こんな氷のような親子の家族ごっこに付き合う義理はないのだから、それで十分だ。


(スラムで飢え死にするよりは、貴族の屋敷で美味しいご飯が食べられる方が百万倍マシだしね)


――しかし、その甘い期待は、数時間後の夕食であっさりと打ち砕かれることになる。


「さあ、お食事ですわよ。スラムのネズミさん」


豪華絢爛な食堂で一人ぽつんと座る私の前に、ふくよかなメイド長が嘲笑いながらお盆を置いた。


銀のお皿に乗っていたのは、カチカチに硬くなった黒パンの切れ端と、具材の影も形もない、冷めきった塩水のようなスープだった。


「……ねえ、これってどういう嫌がらせ?」


「嫌がらせだなんて心外ですわ。公爵閣下は、貴女の世話を我々に『適当に』任せると仰いましたのよ? どこの馬の骨とも知れない孤児の分際で、愛しきリリアお嬢様の身代わりとしてこの屋敷に居られるだけでも感謝していただきたいものです」


公爵と長男が私に全く無関心で、興味を失ったように立ち去ったのを見て取った使用人たちは、すぐに私を「どう扱ってもいい泥棒猫」として見下し、冷遇を始めたのだ。


ふん、と鼻を鳴らして去っていくメイド長を見送りながら、私は硬い黒パンをスープ(仮)に浸して無理やり胃に流し込んだ。


だが、ただで泣き寝入りする私ではない。


(ふざけんな。こんなもんじゃ足りないわよ)


その日の深夜、私は使用人たちの目を盗み、厨房へと忍び込んだ。


命を脅かす外敵こそいないが、毎日コソコソと泥棒みたいな真似をして食いつながなければならないのは、純粋に面倒くさかった。


(公爵令嬢としての愛や待遇なんて求めてない。でも、堂々とまともなご飯を食べられないのは絶対に許せない)


前世の豊かな食の記憶があるせいで、私の「食」に対する執着はスラム時代よりもはるかに強くなっていた。


無理やり連れて来ておいてこの待遇、絶対に文句を言ってやる。


明日の朝一番で、あの氷の公爵閣下の執務室に乗り込んで直訴してやる。


――偽物の分際だと貶されるのは我慢する。でも、私の胃袋を舐めるなよ、と。


翌朝。


私は豪華だが冷え切った自室のベッドで、昨夜厨房からくすねてきた上質なチーズをかじりながら、ふぅとため息をついた。


(……マリー姉ちゃんたち、心配してるかな)


私が突然、屈強な騎士たちに連れ去られてから三日。


私の脳裏に浮かぶのは、スラムの悪臭漂う廃教会と、そこで身を寄せ合って生きてきた『家族』たちの顔だった。


私が赤ん坊の頃に捨てられていたのを拾い、自分の食い扶持を削ってでも育ててくれた、お人好しで優しいマリー姉ちゃん。


私と一番年齢が近く、生意気だけど頼りになる七歳のリックや、その下のセナ、ポル、ベル、それに一歳でよちよち歩きのココ。


私が公爵家に連れてこられた時、もしかしたら「これで口減らしになる」と彼らの負担が減るかもしれないと、少しだけ思った。


だけど、いざ離れてみると、みんなが今日もカチカチの黒パンにありつけているか、マリー姉ちゃんが無理をして倒れていないか、気になって仕方がない。


昨日、私は自分の内側に眠る不思議な魔力に気づいた。


てきとうな紐を一本手に取って特定の相手を念じて魔力を練ると、その方向が直感的にわかる『ダウジング』のような能力だ。試しにマリー姉ちゃんやリックたちを思い浮かべてみたら、ちゃんとスラムの廃教会の方向を指し示した。みんな無事で、あの場所にいるらしい。


他にも血族の血液を媒介にした捜索魔法というのも使えるようだ、頭の中に使い方が浮かんでくる。


(早くお役御免になって帰りたいな。……あの子たちのために、厨房の美味しいパンをたくさんお土産に持って帰ってあげたいし)


そのためにも、いつまでも残飯を出されながら部屋で軟禁されている場合ではない。


「公爵閣下に直訴する」と決意したものの、私はこのバカ広い屋敷の中で彼の執務室がどこにあるのかを知らなかった。


厨房は連れてこられたときに通ったから覚えてたが。


使用人に聞いたところで、偽物の私にまともに答えてくれるはずもない。


そこで私は、マリー姉ちゃんたちの無事を確認した自分の能力を、別の目的に使ってみることにした。


昨夜の厨房探索の際、ついでに洗濯室らしき部屋からくすねておいた、真っ白な上質なハンカチを取り出す。公爵家の紋章が刺繍されたそれは、どうやら公爵閣下本人の持ち物らしい。


それに服のほつれ糸を括り付け、目の前にぶら下げた。


「ええと……公爵閣下はどこ?」


持ち主を念じながら意識を集中し、ふっと魔力を練り上げる。


すると、だらりとぶら下がっていたハンカチが、まるで目に見えない磁石に引っ張られるように、ピンと特定の方向を指し示した。


「へえ、やっぱり便利だな。これ」


私はそのハンカチが指し示す方向へと、迷うことなく歩き出した。


道中、すれ違う使用人たちが「偽物が部屋を抜け出してどこへ行く気だ」とばかりにジロジロと見てきたが、完全に無視だ。


こちとらスラムの路地裏で野良犬と縄張り争いをしてきた身である。痛くも痒くもない。


ハンカチのナビゲーションに従って進み、やがて三階の奥にある分厚いマホガニーの扉の前に立つと、警備に立っていた護衛の騎士が怪訝な顔で立ち塞がった。


「おい、偽物がここで何をしている。閣下はご多忙だ、部屋に戻れ」


「閣下ー! アイラです! お話があります!!」


騎士の制止を無視して扉越しに大声で叫ぶと、中から「……入れ」と氷のように冷たい声が返ってきた。


騎士が渋々といった様子で扉を開けると、そこには書類の山に囲まれたレオンハルト公爵閣下がいた。


銀髪に青い瞳。相変わらず、そこにいるだけで空気がピリッと引き締まるような威圧感だ。


「なんの用だ。私は忙しい」


「単刀直入に言います。私、この家を出ていきたいのですが」


「……却下だ」


書類から顔を上げた公爵様は、秒で私の提案を切り捨てた。



「あのですね、私は別に令嬢ごっこがしたいわけじゃありません。このままじゃ餓死しちゃいます」


「餓死? なにを馬鹿なことを。我が家から逃げ出したい口実か? お前は本物のリリアが見つかるまで、ここで身代わりを務める義務がある」


「口実じゃありません。せめて、まともな温かいご飯が食べたいんです。それさえ約束してくれるなら、本物のお嬢様が見つかるまで大人しく身代わりを務めます」


私の言葉に、公爵閣下のペンの動きがピタリと止まった。


その冷ややかな青い瞳が、すっと細められる。


「……まともなご飯、だと? お前は毎日、厨房の料理長が腕によりをかけた令嬢用の食事を摂っているはずだが」


「え? 昨日のお昼も夜も、カチカチの黒パンと塩水みたいなスープでしたけど?」


「なっ……!?」


ガタンッ! と、公爵閣下が勢いよく立ち上がった。


執務室の空気が、急激に冷え込んでいく。比喩ではなく、本当に室温が下がった気がした。これが高位貴族の放つ魔力というやつだろうか。


「……執事を呼べ。メイド長もだ。今すぐに」


地を這うような低い声。


呼び出されたメイド長と執事長は、部屋に入るなり公爵閣下の尋常ではない怒気を察して顔を真っ青にさせた。


「お前たち……このアイラに、一体何を食わせている」


「えっ……あ、あの、それは……スラムの孤児の胃腸には、公爵家の豊かな食事は毒かと思いまして、その、質素なものを……」


「質素、だと? 腐りかけの黒パンと塩水が、我が公爵家の『質素』なのか!? 誰がそんなことを許可した!!」


公爵様の怒声が執務室に響き渡った。


ビクッと肩を跳ねらせたメイド長たちは、その場に平伏してガタガタと震え始めた。


「貴様らは公爵家に仕えることの意味が分かっていない! たとえ偽物であろうと、今は『レオンハルト公爵の娘』として置いているのだ! それを蔑ろにすることは、私とこの公爵家への反逆と同義だと知れ!」


公爵様は、私が可哀想だから怒っているわけではない。


「公爵家の名に泥を塗ったこと」と「自分の預かり知らぬところで不正が行われていたこと」に激怒しているのだ。


だが、理由はなんであれ私にとっては好都合だった。


「お前たちはただちに降格だ。見て見ぬ振りをしていた他の使用人たちにも減給を言い渡す。今後、アイラへの待遇に一切の不備を許さん。……次に同じことが起きれば、首が飛ぶと思え」


「は、はいぃぃっ!!」


半泣きで逃げ出していくメイド長たちの背中を見送りながら、私は心の中で盛大にガッツポーズをした。


あー、スッキリした。これで今日から美味しいお肉が食べられる!


「……アイラ」


「はいっ」


公爵閣下が、ひどく疲れたようにこめかみを揉みながら私を見た。


「……私の管理が行き届いていなかったようだ。すぐに、まともな食事を用意させよう」


「ありがとうございます! ……あ、そうだ」


ホカホカのシチューと柔らかいパンを想像してご機嫌になった私は、ふと思いついて口を開いた。


「美味しいご飯のお礼に、本物のお嬢様、探してあげましょうか?」


「……なんだと?」


「私、探し物……というか『人』を探すのが得意なんです。さっきもこの部屋を探すのに使いましたし」


公爵様と、控えていた護衛騎士が胡散臭そうな目を向けてくる。


私は、執務机の上に広げられていたこの国の広域地図を指差した。


「私の能力は、血族の血を触媒にして居場所を特定します。公爵様、少し血を貸してください」


私がそう言うと、公爵様はわずかに眉をひそめたものの、無言でペーパーナイフを手に取り、躊躇いなく自身の指先を少しだけ切って見せた。娘を助けるためなら、藁にもすがる思いなのだろう。


私は背伸びをして、血が滲んだ公爵様の指を掴むと、机の上の地図の真ん中にペタリと押し当てた。


「いきますよ。【血盟探知ブラッド・サーチ】」


私が魔力を込めると、ぽっ、と地図の上に青い炎が上がった。


炎は血の滴を起点にして地図全体に燃え広がり――しかし、不思議なことに机は一切焦げない。


やがて炎が収まると、地図の大半が灰になってパラパラと崩れ落ち、ほんの一部分、国境近くの深い森のエリアだけが焼け残っていた。


「……ここです。ここに、血の繋がった娘さんがいます」


「馬鹿な……こんな魔法、聞いたことがない。地図を燃やして居場所を特定するだと?」


「疑うなら、試しにそこの護衛騎士さんの家族が今どこにいるか当ててあげましょうか?」


私は訝しげな顔をしている護衛騎士を指差した。


騎士は戸惑いながらも、公爵様に頷き返されて、素早く腰の短剣を抜くと、自らの親指に躊躇いなく刃を当てた。そして、血が滲んだ指先を私へと差し出す。


私は机の端にあった王都の詳細地図の上にその血を擦りつけ、再び魔力を込めた。


青い炎が燃え上がり、焼け残ったのは、王都の裏通りにある小さな区画だけだった。


「……えっ。こ、ここは……うちの親父が行きつけの昼飲み酒場です……!」


騎士が素っ頓狂な声を上げた。


「親父は今日非番で、朝から飲みに行くと言って家を出ました。……ま、間違いありません。この能力は本物です、閣下!!」


騎士の言葉に、公爵閣下の目の色が完全に変わった。


氷のように冷たかった瞳に、娘を救い出すという猛烈な熱が宿る。


「……すぐに騎士団を動かせ! 精鋭を集めろ!」


「はっ!」


「馬の準備もだ。私も出る!」


焼け残った国境の森の地図を乱暴に掴み取ると、公爵閣下は執務室の扉を開け放ち、廊下に控えていた執事に向かって大音声で叫んだ。


「執事!! この少女……アイラを丁重にもてなせ! リリアを見つけ出した、我が公爵家の最大の恩人だ! 彼女の望むものをすべて、最高級の待遇で与えよ!」


「は、はいぃぃっ!?」


目を丸くして平伏する執事を置き去りにし、公爵閣下は血相を変えて飛び出していった。


後に残されたのは、ボロボロになった地図の残骸と、呆然とする執事、そしてのんきに立つ私だけだ。


「……よし。おじさんたちも行ったことだし、執事さん、私は厨房に美味しいご飯をもらいに行こっと。最高のお肉、お願いね」


「か、かしこまりました! すぐに料理長に最高級の食材を準備させます!!」


私の人生における最優先事項は、何よりもまず「食」である。


見ず知らずの令嬢の救出劇は、あの過保護そうな公爵様と屈強な騎士たちに任せておけばいいだろう。


私はホカホカのシチューと分厚いお肉に思いを馳せながら、大慌てで案内を始めた執事の後に続き、足取り軽く食堂へと向かった。


公爵閣下が執務室を飛び出していってから数十分後。


私は念願叶って、豪華な食堂のテーブルで湯気を立てるクリームシチューと、ふかふかの白パンを堪能していた。


口の中に広がる濃厚なバターの香りと、とろけるような肉の旨味。スラムの泥水やカチカチの黒パンとは次元が違う。


「はぁ〜、生きててよかった……」


私が至福の吐息を漏らした、その時だった。


「貴様、父上に何を吹き込んだ!!」


バンッ! と食堂の扉が勢いよく開かれ、公爵の長男であるセオドアが血相を変えて踏み込んできた。


その後ろには、オロオロとしている使用人たちの姿が見える。


「父上が突然、近衛の精鋭騎士たちを引き連れて馬で飛び出していかれた。行き先は国境の森だと言っていたが……貴様が執務室に行ってからの出来事だ。一体何があった!」


「ああ、セオドア様。お疲れ様です」


私はシチューを掬う手を止めず、もぐもぐとパンを咀嚼しながら答えた。


「私の能力で、本物のリリアお嬢様の居場所を見つけたんです。閣下は救出に向かわれました」


「……は? 居場所を見つけただと?」


セオドアは、私が突拍子もない嘘をついていると判断したらしい。氷のように冷たい瞳に、明確な怒りが宿った。


「馬鹿なことを言うな。我が公爵家の情報網を駆使しても足取りが掴めなかったのだぞ。スラムの孤児にすぎない貴様が、どうやって……」


「信じられませんか? じゃあ、お見せしますよ。閣下の執務室の地図は燃やしちゃったんで、ちょっと劣化版の能力になりますけど」


私は手元にあった銀の細いスプーンを手に取り、そこに自分の服のほつれ糸を結びつけた。


そして、セオドアに向かって手を差し出す。


「セオドア様の髪の毛を一本、貸してください」


「……何をする気だ」


「いいから」


警戒しながらも、セオドアは自身の銀糸の髪を一本引き抜いて私に渡した。


私はその髪の毛を、スプーンに巻きつける。


「特定の家族――血縁者を探す場合、対象者と血の繋がった人間の『身体の一部』、特に血液を触媒にするのが、一番強力で正確な人探しの魔法なんです」


髪の毛を巻きつけたスプーンを糸で吊るし、私はふっと魔力を練り上げた。


すると、だらりと垂れ下がっていたスプーンが、まるで強力な磁石に引かれるように、空中でピーンと真横を向いた。


スプーンの先端が指し示しているのは、食堂の窓の外――つまり、王都から遠く離れた国境近くの森の方向だった。


「なっ……!?」


「ね? 今、お父様とリリアお嬢様はあっちの方向にいます。閣下の執務室では、血を使って地図上に直接位置を炙り出したんです。国境近くの森が残りました」


完全に物理法則を無視して宙で静止するスプーンを見て、セオドアは絶句した。


確かに国境近くの森の方角を指している。


疑念に満ちていた彼の瞳からスッと険が取れ、代わりに驚愕と、そして深い安堵の色が広がっていく。


「本当に……リリアの、居場所が分かったのか……?」


「はい。護衛騎士さんの家族の場所も当てたので、情報の整合性はバッチリです。あとは優秀な騎士様たちが助け出してくれますよ」


私がスプーンをテーブルに置くと、セオドアはしばらくの間、呆然と宙を見つめていた。


やがて彼は、ふうっと深く息を吐き出すと、私の前に歩み寄り――スラムの孤児である私に向かって、深く頭を下げた。


「……すまなかった。お前をただの身代わりの偽物だと蔑み、冷遇を放置していたこと、公爵家の次期当主として恥じ入るばかりだ。そして……妹を見つけてくれて、本当にありがとう」


さっきまでの冷酷な態度はどこへやら。妹を想う兄の、心からの謝罪と感謝だった。



――一方、その頃。


国境の深い森の奥で、レオンハルト公爵は燃え盛る怒りを静かに解き放っていた。


「ヒィィッ! バ、バケモノめ……っ!」


誘拐犯のならず者たちが、恐怖に顔を引き攣らせて後退る。


彼らのアジトであった古びた山小屋の周囲は、レオンハルトの放つ氷の魔力によって文字通り『凍結』していた。


武器を構えた盗賊たちは首から下を厚い氷に覆われ、身動き一つ取れない状態で生け捕りにされている。


「騎士団長。こいつらを決して死なせるな。厳重に地下牢へ移送しろ」


「はっ! しかし閣下、このような山賊どもを生かしておくのですか?」


「ああ。厳重な警備を敷いていた公爵邸から、ただの山賊が娘を攫えるはずがない。


必ず手引きをした内通者や、背後にいる黒幕が存在するはずだ。


……こいつらには、知っていることを全て吐かせねばならんからな」


氷のように冷酷な声で言い放ち、レオンハルトは山小屋の扉を蹴り破った。


薄暗い部屋の隅で、ボロボロのドレスを着た小さな少女が、怯えたように震えながら身を寄せている。


銀糸の髪に、青玉のような瞳。間違いない、彼の最愛の娘、リリアだった。亡き妻エレオノーラが、己の命に代えて残してくれた宝物。


「……リリア!」


「お父、様……?」


涙で顔をぐしゃぐしゃにしたリリアを、レオンハルトは力強く抱きしめた。


娘の温もりを感じ、氷の公爵と恐れられる男の目から、ひとすじの涙がこぼれ落ちる。


「よく無事でいてくれた。もう大丈夫だ。家に帰ろう」



王都へ向けてひた走る、公爵家の豪奢な馬車の中。


身を清め、温かい毛布に包まれたリリアは、安堵の表情で父親の隣に座っていた。


「お父様。あんなに遠くて深い森だったのに、どうやって私を見つけてくれたのですか?」


「ああ……実はな、ある不思議な少女が、お前の居場所を教えてくれたのだ」


「少女、ですか?」


「そうだ。スラムで拾った孤児なのだが……驚くべきことに、その少女はリリア、お前と瓜二つの顔をしていた」


レオンハルトは、身代わりとしてアイラを連れてきたこと、冷遇されていた彼女に直訴されたこと、そして彼女が『血盟探知』という見たこともない能力を使って居場所を特定してくれたことを、隠さずに話して聞かせた。


「私と、瓜二つ……」


リリアは胸元を押さえ、不思議そうに呟いた。


なぜか、その『アイラ』という少女の話を聞いた時、リリアの胸の奥でトクリと小さな鼓動が跳ねたのだ。


まるで、ずっと昔に失くしてしまった大切な半身の話を聞いているような、不思議な温かさ。


「そのアイラさんは、今もお屋敷にいるのですか?」


「ああ。私が戻るまで、留守番をさせている」


「早く会いたいです! 私の命の恩人……どんなお顔で、どんな声でお話しするのか、すごく気になります」


目を輝かせる愛娘の頭を撫でながら、レオンハルトもまた、王都の屋敷で待つアイラの顔を思い浮かべていた。


恩人であるあの風変わりな少女に、どう報いるべきか。


少なくとも、ただの身代わりとしてスラムに放り出すような真似は、絶対にできない。



それから数時間後。


レオンハルトが放った早馬が、王都のアルジェント公爵邸へと到着した。


『リリアお嬢様を無事に救出! お怪我はなし。お嬢様の体調を最優先とし、馬車にてゆっくりと帰還されるため、到着は明後日になる見込み!』


その報告がもたらされた瞬間、公爵邸は割れんばかりの歓喜の声に包まれた。


使用人たちは涙を流して抱き合い、セオドアは天を仰いで神と母に感謝の祈りを捧げていた。


そんなお祭り騒ぎの中。


私は自室に戻り、厨房からくすねておいた干し肉やパンを、手近な布袋にせっせと詰め込んでいた。


「よし、こんなもんかな」


荷造りを終え、鞄を背負って部屋を出ようとした、まさにその時。


バンッ! と再び勢いよく扉が開かれ、セオドアが立ちはだかった。


「アイラ! お前、その荷物はなんだ! どこへ行く気だ!」


「どこって、スラムに帰るんですよ。お嬢様も見つかったことですし、私の偽物としての役目は終わりですよね」


「ならん! 帰すものか!」


セオドアは血相を変え、私の前に両手を広げて退路を塞いだ。


「妹の命の恩人をスラムへ放り出すような真似、アルジェント公爵家の誇りにかけて絶対にできん! なぜ出て行こうとする! この屋敷の待遇に不満があるのか!?」


「不満はないです。ただ……」


私はふう、と息を吐いた。


「私がスラムに帰らないと、マリー姉ちゃんやリックたちが心配するんです」


「マリー? リック?」


「私のスラムの『家族』です。赤ん坊の頃に捨てられていた私を拾って育ててくれたマリー姉ちゃんと、一緒に育った孤児の仲間たち。……私がこんなに美味しいものを毎日食べてるのに、あの子たちが黒パンの端っこをかじって震えてるなんて、嫌なんです」


孤児たちは何も持たないが、お互いに助け合って生きてきた。


私が公爵家にいることで口減らしにはなったかもしれないが、やはり彼らの無事を確認し、少しでもマシなものを食べさせてあげたかった。


私の理由を聞いたセオドアは、目を見開いて硬直した。


そして、数秒ほど真剣に思案すると、ギュッと拳を握りしめた。


「……なるほど。お前が帰りたい理由はよく分かった。だが、やはりお前をスラムに帰すわけにはいかない。どうか、父上が戻るまでこの屋敷に留まってくれないか」


「でも、マリー姉ちゃんたちが」


「俺がなんとかする!」


セオドアは力強く言い切った。


「その『家族』たちの安全は、我が公爵家が保証しよう。今すぐ精鋭の騎士を数名、スラムの廃教会へ護衛として派遣する。食料と支援物資も手配させよう。だから、お前はここで待っていてくれ」


そこまで言われてしまえば、私に否やはなかった。


むしろ、スラムにいる彼らにとって、これ以上ない安全の確保だ。


「……分かりました。お言葉に甘えます」


「よし! すぐに手配してくる!」


安堵したように笑い、セオドアは足早に部屋を出ていった。


ほどなくして、アルジェント公爵家の紋章を掲げた数名の近衛騎士が、支援物資を抱えてスラムへと派遣されていくのを、私は窓から眺めていた。


(お兄様、行動が早いなぁ。……ま、これで安心して今日のお肉が食べられるね)

見ず知らずの令嬢の救出劇と、スラムの家族の保護。


私は公爵家が着々と動いていくのを見届けながら、今日の夕食のメインディッシュに思いを馳せていた。


早馬の報告から二日後。


王都のアルジェント公爵邸のエントランスは、かつてないほどの熱気と歓喜に包まれていた。


泥と埃にまみれた重厚な馬車が到着し、扉が開かれる。


降り立ったのは、レオンハルト公爵と――長旅の疲れは見えつつも、怪我一つない本物の公爵令嬢、リリアだった。


「リリアッ!」


「お兄様……!」


長男のセオドアが駆け寄り、愛する妹を力強く抱きしめる。


氷の貴公子とまで呼ばれていた次期当主が、周囲の目も憚らずに大粒の涙を流している。使用人たちもまた、ハンカチを顔に押し当てて咽び泣いていた。


(良かった良かった。感動の再会だねぇ)


私はエントランスの隅にある柱の陰から、こっそりとその光景を眺めていた。


手には、厨房からくすねたばかりの焼き立てのスコーンがある。サクサクして美味しい。


家族の輪に私みたいな偽物が混ざるのも野暮だし、スコーンを食べ終わったら適当に部屋に戻ろうと思っていた、その時だった。


「……あの。私を見つけてくれた、命の恩人の方はどこですか?」


リリアがセオドアの腕の中から顔を上げ、周囲を見回した。


「おお、そうだった。アイラ、どこだ! 隠れていないで出てきなさい」


「むぎゅっ」


公爵閣下の鋭い声に呼ばれ、私はスコーンを口に咥えたまま柱の陰から引っ張り出された。


私の姿を見た瞬間、リリアは息を呑んで目を丸くした。


輝く銀糸の髪に、青玉のような瞳。年齢も同じ九歳。


スラムの泥と煤を落とした私の顔は、目の前の本物の公爵令嬢と、まるで鏡を見ているかのように瓜二つだった。


「あなたが、私を……」


「んぐっ、ごふっ。……あ、初めまして。アイラです」


急いでスコーンを飲み込んで挨拶すると、リリアはふわりと花が咲くような笑みを浮かべ、私に向かって両手を広げて飛びついてきた。


「アイラお姉様!!」


「えっ、ちょ、お姉様!?」


初対面のはずなのに、リリアは私にぎゅっと抱きつき、私の胸に顔を擦り寄せてきた。


自分とそっくりな孤児を見て気味悪がるどころか、まるでずっと探し求めていた魂の片割れを見つけたかのような、異常なほどの親愛の情だ。


「お父様から全部聞きました! お姉様が不思議な力で私を見つけてくれたって! 私、ずっと……ずっとお姉ちゃんが欲しかったんです!」


「あ、いや。美味しいご飯のお礼にちょっと地図を燃やしただけなんで、お気になさらず……」


「お願いです、どこにも行かないでください! 一緒に、公爵家で暮らしましょう?」


上目遣いで懇願してくるリリアの頭を優しく撫でながら、公爵閣下が私の前で片膝をついた。


国で一番権力を持つと言っても過言ではない男が、スラムの孤児に向かって膝をついたのだ。周囲の使用人たちがヒィッと息を呑む音が聞こえた。


「アイラ。お前の不思議な力がなければ、リリアは二度と私の元へは戻らなかっただろう。我がアルジェント家を救ってくれた最大の恩人として、今日からお前を私の『養女』として迎え入れたい。リリアの姉として、この家で暮らしてくれないか?」


出会った初日は、亡き妻・エレオノーラの面影を見て動揺しつつも「これはただの偽物(道具)だ」と私を冷酷に突き放した公爵閣下。


だが、今の彼の瞳に冷たさは微塵もない。愛する娘を救ってくれた恩人であり、最愛の妻の面影を宿す少女を、絶対に手放すまいという強烈な意志が宿っていた。


上目遣いで懇願する可愛い公爵家の一人娘と、絶対に逃がさないとばかりに見つめてくる親バカ公爵。そして、背後で「お前が残ってくれるなら、俺は何でもする!」と謎の決意を固めているシスコンの兄。


……スラムの冷たい地面と、公爵家のホカホカのシチューと無限のお肉。


比べるまでもない。


「……三食おやつ付きで、お肉がいっぱい食べられるなら、喜んで」


私がそう答えた瞬間、リリアが「わぁぁっ!」と歓声を上げて私に抱きつき、公爵閣下とセオドアが破顔したのだった。



「――なるほど。アイラには、スラムに家族同然の者たちがいると」


「はい、父上。彼女は自分の安寧よりも、スラムに残してきた育ての親や孤児たちの安全を心配して、屋敷を出ていこうとしていたのです」


歓喜に沸くエントランスから執務室へと移動したレオンハルトは、セオドアからの報告を聞いて深く頷いた。


身代わりの道具から、公爵家の恩人、そして養女となったアイラ。さらに彼女には、レオンハルトの亡き妻・エレオノーラの面影がある。


今のレオンハルトにとって、アイラの優先順位は天を衝くほどに跳ね上がっていた。


「お前が先んじて護衛と支援物資を派遣したのは良い判断だったな、セオドア。だが、それだけでは足りん」


「と、仰いますと?」


「アイラの恩人は、我が公爵家の恩人でもある。彼女の憂いを完全に断ち切るため、私が直接スラムへ出向き、彼らを安全な場所へ迎え入れよう」


「なるほど! では、近衛騎士団を第一小隊から第三小隊まで招集します! スラムの害虫どもがアイラの家族に近づかないよう、完全武装で!」


こうして、過保護すぎる公爵親子の暴走により、スラムの廃教会へ向けて「国境警備レベル」の大名行列が出陣することになったのである。



時間を少し巻き戻そう。


セオドアが近衛騎士たちをスラムへ派遣した、あの夜のことである。


王都の裏側に位置するスラム街の廃教会では、未曾有の大パニックが起きていた。


「ひぃぃぃっ! ま、マリー姉ちゃん! なんか凄え強そうな騎士様がいっぱい来たよぉ!」


「リック、静かに! 窓から見つかっちゃうわ!」


ボロボロの修道服を着た二十歳の女性マリーは、七歳のリックやその下の幼い孤児たちを両腕に抱え込みながら、教会の隅でガタガタと震え上がっていた。


無理もない。悪臭漂うスラムの路地裏に、王家を守護するはずの『アルジェント公爵家』の紋章を掲げた完全武装の騎士たちが、ズラリと並んでいるのだから。


(ど、どういうことなの!? アイラちゃん、貴族様の屋敷でとんでもない粗相をやらかしたんじゃ……!)

連帯責任として自分たち孤児も全員処刑されるのだと絶望し、マリーが泣きそうになっていると、教会の扉がコンコンと控えめに叩かれた。


「夜分遅くに申し訳ありません。マリー殿はいらっしゃいますか」


「ひぃっ……!」


恐る恐る扉を開けると、そこには厳つい顔に無理やり愛想笑いを浮かべた騎士の隊長が立っていた。


「あ、怪しい者ではありません! 我々はアルジェント公爵家の近衛騎士。セオドア様より、皆様の護衛と支援を命じられて参りました」


「ご、護衛……?」


「はい。どうかご安心ください。アイラ様はご無事であり、公爵家にて最高の厚遇を受けておられます」


その言葉に、マリーと孤児たちはポカンと口を開けた。


「アイラちゃんが、無事……?」


「左様でございます。これはほんの気持ちですが、当面の支援物資をお受け取りください。後日、詳しい状況の説明のため、我が主人が直接こちらへ出向かれますので」


騎士はそう言って、見たこともないような大量の高級食材を教会の床にうず高く積み上げた。


アイラが無事で、しかも厚遇されている。


その事実には心の底から安堵したマリーだったが、騎士の言葉の後半に思い切り引っかかった。


「あ、あの……我が主人、とは……?」


「公爵閣下ご自身でございます」


「…………はい?」


スラムの最底辺である廃教会に、国の最高権力者である公爵本人が来る。


その事実に、マリーは別の意味で顔を真っ青にしてガタガタと震え始めた。


「そ、そんな……私たちのような平民が、公爵様をお迎えするなんて……粗相があったら今度こそ首が飛ぶわ……!」


結局、最初の勘違いパニックは解けたものの、今度は「公爵来訪」という巨大すぎるプレッシャーという形で恐怖が増幅することになったのである。


――そして、現在(早馬の報告から二日後)。


教会の周囲を護衛する騎士たちの外側から、さらに地響きのような蹄の音が近づいてきた。


『公爵閣下の、おなーりーっ!!』


その声を聞いた瞬間、マリーは「終わった」と絶望して白目を剥きそうになった。


過保護な大名行列を率いてやってきた氷の公爵を前に、震える孤児たちを抱きしめたまま、マリーはただ神に祈るしかなかった。


本物の令嬢であるリリアが無事に帰還し、私が正式にアルジェント公爵家の「養女(長女)」として迎え入れられた翌朝。


私は、お養父様(レオンハルト公爵)と共に、屋敷のエントランスからこっそりと抜け出そうとしていた。


「よし、アイラ。馬車の準備はできている。スラムの家族たちを迎えに行こう」


「はい、お父様!」


昨日、私がスラムの孤児たちを心配していることを知ったお養父様は「我が公爵家の恩人の家族を、あのような不衛生な場所に置いてはおけん。すぐに安全な場所へ移住させよう」と言ってくれた。


今朝、あまり大仰に行くとスラムの住人たちがパニックになるだろうと考え直して、お養父様と私、それに数名の護衛だけでお忍びで向かう手はずになっていた。


……はず、だったのだが。



「お待ちください、父上!! 私もアイラの護衛として同行します!」


「お義姉様! 私も行きます! お義姉様のもう一つのご家族に、ちゃんとご挨拶をしなければなりませんから!」


エントランスの重い扉を開けようとした瞬間、背後から猛烈な勢いで声が飛んできた。


振り返ると、そこには剣を腰に下げて完全武装したセオドア義兄様と、私とお揃いの上質なドレスを着て目を輝かせているリリアが立っていた。



「……セオドア、リリア。お前たちは屋敷で休んでいなさい。特にリリアは長旅から帰ったばかりで、まだ疲れが残っているだろう」


「なんのこれしき! お義姉様が育った街を、この目で見ずして何が妹ですか!」


「そうだ父上! スラムは危険な無法地帯。アイラとリリアを連れて行くのだから、万が一にも虫一匹近づけるわけにはいかんだろう。近衛騎士団の第一から第三小隊までを完全武装で招集しました!」


「……え?」


セオドア兄様の言葉に、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。


お父様が窓の外を見ると、そこには「お忍び用の馬車」ではなく、公爵家の巨大な紋章が描かれた超豪華な馬車と、その周囲をぐるりと取り囲む数十名の重装備の騎士たちの姿があった。


「あの、セオドア義兄様? スラムの害虫ギャングより、そっちの騎士団の方が百倍怖いんですけど……」


「何を言う、アイラ。お前はもう公爵家の長女なのだ。スラムの薄汚い野良犬どもに絡まれでもしたら、俺が許さん」


「……セオドアの言う通りだな。よし、お前たちも乗れ。我が娘たちに指一本触れさせるなよ!」


「ははっ!!」


結局、お養父様もあっさりと過保護モードに切り替わってしまい、私たちは「国境警備レベル」の物々しい大名行列でスラムへと出陣することになってしまった。



「ひぃぃっ! き、騎士団だぁぁっ!?」


「なんでスラムに公爵家の家紋を掲げた馬車が!?」


数十分後。


王都の裏側に位置するスラム街は、予想通り未曾有の大パニックに陥っていた。


薄汚れた路地裏を、ピカピカに磨き上げられた白馬に跨る数十名の完全武装の騎士たちが、重厚な公爵家の馬車を取り囲むようにして進んできているのだ。


スラムの住人たちは悲鳴を上げて逃げ惑うか、地面に這いつくばってガタガタと震えている。


「ちょ、ちょっとお養父様! お義兄様! みんな怯えてるから、もう少し圧を下げて!」


「少しでも怪しい動きをする者がいれば、即座に制圧しなければならんからな」


「そうだぞアイラ。俺がしっかり守ってやるから安心しろ」


馬車の窓から顔を出して抗議するも、一緒に乗り込んでいるお養父様と、馬車と並走して周囲を睨みつけているセオドア義兄様は全く聞く耳を持たない。リリアに至っては「ここが、お義姉様の故郷……!」と、謎の感動の面持ちで外を眺めている。


やがて、大名行列はスラムの奥深くにある、半ば崩れかけた『廃教会』の前に到着した。


教会の周囲には、昨夜セオドア義兄様が派遣した近衛騎士たちが、一晩中徹夜で警備に当たっていたらしく、直立不動でこちらに敬礼をしている。


教会の扉は固く閉ざされ、中からは物音一つ聞こえない。


無理もない。昨夜から騎士団に包囲され、挙句の果てに公爵本人が特大の馬車で乗り込んできたのだ。


中にいるマリー姉ちゃんたちは、今頃「絶対に処刑される」と絶望して震え上がっているに違いない。


「……私が開けます。みんな怖がってると思うから、お父様たち、なるべく優しくしてね」


私はため息をつきながら、馬車の扉を開けてひらりと地面に飛び降りた。


そして、見慣れた古ぼけた教会の扉の前に立ち、トントンと軽くノックをする。


「マリー姉ちゃん、リック。私だよ、アイラ。開けてー」


私の声に反応したのか、ギィッ……と、重々しい音を立てて扉が数センチだけ開いた。


そのわずかな隙間から、顔面を土気色にしたマリー姉ちゃんと、私の幼馴染で弟分のリックが、恐る恐る外を窺ってきた。


彼らの後ろには、少し幼い妹分のセナと弟分のポルがマリー姉ちゃんの修道服の裾をぎゅっと握りしめて震えており、さらにその奥には、さらに幼い弟分のベルと妹分のココが、怖がって身を寄せ合うように丸くなっているのが見えた。


「ア、アイラちゃん……?」


「アイラ、生きてたのか……!? いや、でも……えっ?」


「アイラねえちゃん……?」


マリー姉ちゃんやリックだけでなく、後ろに隠れていたセナやポルたちも隙間から顔を覗かせた。


全員が、私の姿を見て目を丸くし、そのまま言葉を失ってフリーズした。


無理もない。スラムで彼らと一緒に泥水と煤にまみれて黒パンをかじっていた私は今、ピカピカに磨き上げられ、極上のシルクで仕立てられたフリフリのドレスを着ている。


灰色だと思っていた髪は、アルジェント公爵家の特徴である、光り輝く『銀髪』へと変貌していたのだ。


「やっほー。なんか色々あって、公爵様の養女(令嬢)になっちゃった。みんなを迎えに来たよ!」


私が満面の笑みでそう告げると。


マリー姉ちゃんと孤児たちは、背後に控える尋常ではない威圧感のお父様と、完全武装の騎士団、そして私と瓜二つのリリアを交互に見比べ――。


「「「…………はぁぁぁぁぁっ!?」」」


スラムの半ば崩れかけた廃教会に、マリー姉ちゃんと孤児たちの盛大な絶叫が響き渡った。


無理もないだろう。


つい数日前まで一緒に残飯を啜っていた私が、いきなりピカピカの公爵令嬢(銀髪)になって、完全武装の騎士団と国の最高権力者を引き連れて帰ってきたのだから。


「ア、アイラちゃん……? 本物のアイラちゃん、なの……?」


「うん、そうだよ。とりあえず、外だと目立つから中に入ろっか」


私がそう言うと、背後にいたレオンハルトお養父様が静かに頷いた。


「そうだな。セオドア、騎士たちは外で待機させろ。あまり大勢で押し入っては、彼女たちを無駄に萎縮させてしまう」


「はっ。近衛は教会の周囲を包囲、蟻一匹通すな!」


お養父様の指示により、厳つい騎士たちは教会の外で待機することになった。


薄暗く、あちこち隙間風が吹く廃教会の中へ入ると、お養父様は教会の埃っぽい長椅子に座ることもなく、マリー姉ちゃんの前に立ってスッと頭を下げた。


「突然の訪問、驚かせてしまってすまない。私はアルジェント公爵、レオンハルト。アイラの……『養父』だ」


「こ、公爵様……っ!? ひぃぃっ、も、申し訳ございません、私のような平民がご挨拶もせずに……!」


マリー姉ちゃんが慌てて床に平伏しようとするのを、お養父様が手で制した。


そこから、私はこれまでの経緯をざっくりと説明した。


最初は行方不明の令嬢の身代わりとして連れて行かれたこと。


その後、自分の能力で本物のお嬢様を見つけ出し、お礼として公爵家の養女になったこと。


そして、今まで育ててくれたマリー姉ちゃんたちを、公爵家で保護して一緒に暮らしたいということ。


「アイラちゃんが、公爵家の令嬢に……」


「アイラすげぇ! じゃあ、毎日お肉食べ放題なのか!?」


リックが興奮気味に身を乗り出してくる。


「うん。食べきれないくらいのお肉と、すっごく甘いケーキがいっぱい出るよ」


「うおおおおっ!」


「……あの、リックさん。良ければ、私ともお友達になっていただけませんか?」


私とリックの会話に、リリアが、おずおずと混ざってきた。


孤児たちは、私と瓜二つのリリアを見て「すげぇ、アイラが二人いる!」「服がヒラヒラだ!」と目を輝かせ、あっという間にリリアを取り囲んだ。


セオドア義兄様は「リリアに、いや、二人とも気安く触るな!」と止めに入ろうとしたが、お養父様に「少し離れて見守ってやれ」と制され、ハンカチを噛み締めながら見守り役に徹していた。


子供たちがワイワイと盛り上がっている中、お養父様はマリー姉ちゃんに歩み寄り、静かな声で語りかけた。


「マリー殿。アイラがこれまで無事に生きてこられたのは、あなたが自分の身を削って育ててくれたおかげだ。公爵家を代表して、心から感謝する」


「そ、そんな……私はただ、この子が教会の前に捨てられているのを見過ごせなかっただけで……」


マリー姉ちゃんは恐縮して首を振った。


九年前。当時まだ十一歳だったマリー姉ちゃんは、この教会の前で捨てられていた赤ん坊の私を拾った。


昔はこの教会にも私たちを育ててくれた親代わりの大人がいたのだが、私が五歳くらいの時に流行り病で亡くなってしまったのだ。


それ以来、彼女は一人でスラムの孤児たちを必死に守り育ててきた。


お養父様とマリー姉ちゃんは、何やら真剣な顔で話し込んでいる。


アイラの耳には届かなかったが、その時、大人たちの間では物語の核心に迫る重要なやり取りが交わされていた。



――レオンハルトは、マリーに屋敷や仕事の条件を提示しながら、彼女の言葉の端々から誠実な人柄を推し量っていた。


過酷な環境で生き抜いてきたにも関わらず、ひどく純粋で欲がなく、ただ子供たちの幸せだけを願う母親のような女性だ。少し話しただけで、彼女がいかに得難い人材であるかがレオンハルトにはよく分かった。


「公爵様……その、お伺いしてもよろしいでしょうか」


マリーが、躊躇いがちに口を開いた。


「アイラちゃんは『養女』になったと仰っていましたが……あの子は、本当は公爵様の『実の娘』なのではありませんか?」


「……なぜ、そう思う?」


レオンハルトの目が鋭くなる。


マリーは周囲の子供たち――アイラとリリアが楽しそうに笑い合っているのを確認してから、教会の奥にある古びた木箱から、布に包まれた『何か』を取り出してきた。



「九年前、アイラちゃんを拾った時……あの子は、この布に包まれていたんです。あまりにも上等な布だったので、売ればお金になったかもしれませんが……あの子の本当の親に繋がる唯一の手がかりだと思い、今まで隠して保管しておりました」


マリーが布の包みを解く。


中から出てきたのは、長年の埃と泥で薄汚れてはいるが、最高級の絹で織られた『おくるみ』だった。


それを見た瞬間。レオンハルトの呼吸が止まった。


「これは……っ」


おくるみの隅には、レオンハルトが決して見間違えるはずのない紋章――『アルジェント公爵家』の家紋が、金糸で丁寧に刺繍されていたのだ。


それだけではない。


その刺繍の裏側には、亡き妻・エレオノーラがよく縫い込んでいた『幸運の加護を祈る魔法』の形跡があった。


彼女の優しさが込められた、間違いのない手作りのおくるみ。


アルジェントの血を引く証である銀髪と青玉の瞳。妻・エレオノーラの面影を色濃く残す顔立ち。そして、このおくるみ。


(間違いない……エレオノーラが、己の命と引き換えに産んでくれた宝物は、リリア一人ではなかった。妻は『双子』を産んでいたのだ)


しかし、レオンハルトもセオドアも、妻が双子を身籠っていたことなど一切知らされていなかった。


公爵家の奥深くで、産室の混乱に乗じて何者かがそれを隠蔽し、片割れであるアイラを密かにこのスラムへ捨てたのだ。


公爵家の中枢に、自分さえも欺くほどの『内通者』と、エレオノーラを憎む『黒幕』が存在する。


その事実に、レオンハルトの心の中で、絶対零度の怒りの炎が燃え上がった。


「……マリー殿。このおくるみのことは、アイラにはまだ秘密にしておいてくれないか」


「えっ……でも」


「アイラが公爵の血を引く双子の姉だと公になれば、あの子を捨てた犯人が、再びあの子の命を狙う危険がある。確固たる証拠を掴み、公爵家に巣食う害虫を全て駆除するまでは、アイラには『養女』として過ごさせたいのだ」


レオンハルトの決死の言葉に、マリーは事の重大さを悟り、こくりと深く頷いた。


「そして、もう一つ。あなたにお願いがある」


「私に、ですか?」


「暫くの間、公爵家でアイラとリリア専属の侍女として、彼女たちの側にいてはくれないだろうか。実子の秘密を知る共有者として、そして……純粋に、アイラたちの『母親代わり』として」


亡き妻エレオノーラがいない公爵家にとって、マリーのような欲のない愛情深い女性は非常に貴重だった。もちろん、侍女としてのマナー教育は絶対に信頼できる者に任せ、完璧に仕上げるつもりだ。


レオンハルトの真摯な頼みに、マリーは瞳を潤ませながら「私でよろしければ、喜んで」と頭を下げた。


「あの、公爵様! 俺たちも、アイラとマリー姉ちゃんと一緒に屋敷に行きたいです!」


会話が一段落したところで、リックをはじめとする孤児たちが集まってきた。


安全な平民街に家を用意するという案もあったが、彼らが出した答えは一つだった。


「アイラが一緒に住もうって言ってくれたんだ! 俺たち、屋敷で一生懸命働くから!」


必死に訴えかける子供たちを見て、レオンハルトと、いつの間にか横で話を聞いていたセオドアは顔を見合わせ、ふっと優しく微笑んだ。


(七歳のリックに、六歳のセナ、五歳のポルか。……スラムの過酷な環境を生き抜いてきたとはいえ、まだ幼い子供たちだ。我が公爵家でしっかりと教育を受けさせ、ゆくゆくはアイラとリリアに仕える立派な使用人として育て上げよう)


孤児たちを救い出し、安全な屋敷で真っ当な道へと導くこと。


それが、恩人であるアイラの『家族』に対する当然の報いだと、レオンハルトたちは純粋な善意で考えていた。


――しかし、彼らはまだ知らなかった。


スラムで培われた孤児特有の『サバイバルスキルと警戒心』を持つこの子供たちが、公爵家での教育過程で斜め上の変な方向へと成長し、のちに騎士団長や暗部の頭領から「ぜひ我が隊で引き抜きたい!」と直訴されるほどの逸材へと化ける未来を。


「分かった。お前たち全員、アルジェント公爵家で引き取ろう。これから忙しくなるぞ」


「やったーっ!!」


こうして、マリーとスラムの孤児たちは、まるごとアルジェント公爵家に引き取られることになった。


アイラの飽くなきグルメ生活と、水面下で進む陰謀の解明。


新しい家族たちを巻き込んで、公爵令嬢アイラのドタバタな日常が本格的に幕を開けるのだった。


私がスラムの家族ごとアルジェント公爵家に引き取られてから、十日が経過した頃。


お養父様の執務室に、新しい執事長が冷や汗を滝のように流しながら駆け込んできた。彼は深くお辞儀をして、震える声で報告を始めた。


「こ、公爵閣下……アイラ様たちの専属侍女となるべく教育を受けていたマリー殿ですが、本日をもって全カリキュラムを終了いたしました」


「ほう。確か、公爵家にふさわしい一流の侍女教育の期間は、最低でも半年から一年はかかると言っていたはずだが……まだ十日しか経っていないぞ?」


「それが……彼女は、教えたことを一度で完璧に吸収し、紅茶の淹れ方から各国要人の相関図暗記、果ては裏社会の毒薬の看破までマスターしてしまったのです。さらに、いざという時の護衛術の訓練では、あろうことか我が公爵家騎士団の副団長を事も無げに投げ飛ばし、気絶させました……。もはや、我々が教えられることは何もありません!」


執事長の報告に、お養父様と、傍らに控えていたセオドア義兄様は目を丸くして絶句した。


王侯貴族に仕える一流の教育をたった十日で終えただけでなく、歴戦の騎士団副団長を格闘戦で沈めるメイドなど、前代未聞の異常事態だ。


「マ、マリー……お前、一体どうやって毒の見極めや、騎士を凌駕するほどの戦闘術まで?」


「お恥ずかしい話ですが、スラムでは『いつ腐った残飯や毒入りの水に当たるか分からない』という環境でしたから。それに、子供たちを攫おうとする野盗やギャングも絶えませんでしたので……」


執事の後ろから静かに現れたマリー姉ちゃんは、ニコリと聖母のような微笑みを浮かべた。


「子供たちに害をなす輩を一人残らず『お掃除(物理)』しているうちに、少々腕力がついてしまったようですわ」


たった一人でスラムのギャングを壊滅させていたという衝撃の過去。


過酷すぎるスラムのサバイバル環境と、孤児たちを守るために培われた彼女の限界突破の精神力。それが公爵家の教育と合わさった結果、ここに誰もがひれ伏す最強の『完璧超人侍女』が爆誕してしまったのである。



「す、素晴らしいぞマリー! お前がいれば、最強の護衛として安心してアイラとリリアを任せられる!」


「身に余る光栄です、公爵様」


恭しく頭を下げるマリー姉ちゃんだったが、彼女は胸の内でそっと、遠い過去の記憶を思い返していた。


(……とはいえ、私自身もなぜこれほどまでに身体が動くのか、不思議に思うことはあります。思い当たる節があるとすれば……)


それは、マリー自身もまだすごく小さかった頃の記憶。


誰もいない廃教会で、彼女は『背中に白い羽が生えた、神々しく美しい人』に出会ったのだ。


その人はマリーの頭を優しく撫でると、「迷える子羊たちを守る力を与えよう」と囁き、マリーの胸の中に温かい『光の種』を埋め込んで去っていった。


思えば、あの不思議な出来事の直後から、彼女の中に常人離れした身体能力と規格外の才能が芽生え始めたのだ。


(あの光が何だったのかは分かりませんが……この力でアイラちゃんたちをお守りできるのなら、これ以上の喜びはありませんわ)



――そして、公爵令嬢としての生活が始まってから、一ヶ月が経過した。


「素晴らしい……! 素晴らしすぎますわ、アイラ様、リリア様! 百年に一人の神童が、お二人も同時に現れるなんて奇跡ですっ!」


屋敷の一室。


王国でも最高峰と名高いベテランの家庭教師(初老の貴婦人)が、感動のあまりハンカチで滝のような涙を拭っていた。


机に並べられた歴史、数学、そして複雑な貴族の礼儀作法に関するテスト用紙。そこには、私とリリアの答案が満点で並んでいる。


「ふふっ。お姉様、また同点ですね」


「うん。リリア、最近すっごく覚えるのが早いね」


私はニコニコと笑うリリアの頭を撫でながら、内心で首を傾げていた。


私の場合、前世の『意味記憶(現代日本の知識)』があるため、歴史や数学の概念を理解するのは大人と同等に容易い。


しかし、最近はそれ以上に頭の回転が異常に早くなっている気がした。


一度見た本の内容は写真のように脳に焼き付き、複雑なマナーも一度で体が覚える。


そして何より驚きなのが、リリアだ。


一ヶ月前までは年相応の賢さだった彼女だが、私と一緒に勉強を始めてからというもの、まるで私の思考速度に引っ張られるかのように、爆発的に学習能力が向上したのだ。


私たちはお互いの側にいるだけで、まるでパズルのピースがカチリと噛み合ったかのように、本来の力が凄まじい勢いで引き出されているような感覚があった。


(これは転生チートの効果? 何故かリリアにまで影響しているみたいだけど。まあ、勉強が早く終われば、その分おやつの時間が増えるから最高なんだけどね)


私たちがのんきにお茶請けのクッキーのことを考えていると、部屋の隅で見学していたお養父様とセオドア義兄様が、親バカ全開の顔でウンウンと頷き合っていた。



「見ろセオドア。やはり私の見込んだ通り、アイラは天才だった。そして我が愛娘のリリアも共に高みへと上っていく……アルジェント公爵家の未来は安泰だな!」


「はい、父上! アイラとリリアが並んで微笑む姿、まるで二輪の白百合! この尊い光景を後世に残すため、早急に王都一番の画家を呼びましょう!」


二人の過保護と溺愛っぷりは、日を追うごとにひどくなっている。


そんな平和で甘ったるい空間に。


「――お呼びでしょうか、アイラお嬢様、リリアお嬢様。本日のティータイムの準備が整いました」


凛とした、鈴を転がすような美しい声。


スッと背筋を伸ばし、一寸の狂いもない完璧なカーテシー(淑女の挨拶)を披露しながら部屋に入ってきたのは、漆黒のメイド服に身を包んだマリー姉ちゃんだった。


「マリー姉ちゃん……なんか、歩く時に足音すら聞こえなかったんだけど」


「ふふ、恐れ入ります。お嬢様方の優雅な学習の妨げにならぬよう、『気配遮断』の歩法を身につけましたので」


「メイドのスキルじゃないよね、それ!?」


私が思わずツッコミを入れた、まさにその時だった。


「――閣下!! 閣下はいらっしゃいますか!!」


バンッ! と音を立てて部屋の扉が開かれ、公爵家騎士団の団長と、暗部(諜報部隊)の頭領の二人が、血相を変えて飛び込んできた。


「なんだ騒々しい。私は今、娘たちの天才っぷりと、マリーの淹れた至高の紅茶を堪能しようとしていたところだぞ」


「そ、それどころではありません! 閣下、先日スラムからお連れした孤児の子供たちですが……ぜひとも! ぜひとも我が隊で引き取らせていただきたいのです!!」


二人の屈強な男たちが、お養父様の前に土下座の勢いで滑り込んだ。


「ど、どういうことだ? 彼らはまだ七歳や六歳の幼い子供だろう。使用人の見習いとして、中庭の掃除や使い走りをさせているはずだが」


「掃除などさせている場合ではありません! 七歳の少年リック! 彼は気配を完全に殺して屋敷の天井裏を音もなく駆け抜け、近衛騎士の背後を容易く取るほどの身のこなしです! 我が暗部のエースに育て上げます!!」


「いや、お待ちを頭領! 六歳の少女セナの洞察力こそ異常です! すれ違うだけで我々騎士の疲労度や隠し持っている武器を正確に見抜き、さらには五歳のポルに至っては、どんな複雑な鍵でも針金一本で開けてしまいます! ぜひとも我が部隊の特殊工作員に……!!」


鼻息荒く熱弁を振るう二人の後ろで、控えていた執事長たちベテラン使用人は、密かに遠い目をして顔を見合わせていた。


(……皆さま、なぜ驚かれているのでしょう。あの『マリー殿』にスラムの最前線で育てられた孤児たちが、ただの普通の子供であるはずがないというのに……)


使用人たちはすでに、この屋敷のヒエラルキーの頂点(物理)にマリーが君臨していることを理解しきっていたのだ。


「「我々に、あの子たちを預けてください!!」」


二人の責任者からの熱烈すぎる直訴に、お養父様とセオドア義兄様は完全にポカンと口を開けて硬直した。


「……あ、あのな。私は彼らを、ゆくゆくはアイラとリリアに仕える『真っ当な普通の使用人』として育てるつもりだったのだが……?」


お父様の戸惑う声をよそに、騎士団長と暗部頭領は「あのポテンシャルを雑用で腐らせるなど国家の損失です!」と火花を散らして睨み合っている。


どうやら、スラムで培われた子供たちの『過酷なサバイバルスキルと警戒心』は、公爵家という安全で豊かな土壌を得たことで、規格外の方向へとすくすくと育ってしまったらしい。


(……なんか、色々とヤバい家族になっちゃったな)


私は、優雅な手つきで完璧な紅茶を注ぐマリー姉ちゃんと、廊下の向こうで「天井から失礼しまーす!」と逆さ吊りで現れて使用人たちを悲鳴を上げさせているリックたちの気配を感じながら、出された絶品のショートケーキを頬張った。


美味しいご飯と、私を溺愛してくれる家族、そして最強の身内たち。


アイラの公爵家ライフは、信じられないほどの順風満帆な滑り出しを見せていた。


――この直後、この強固すぎるアルジェント公爵家の『日常』に、神話の時代から続く恐るべき陰謀の綻びが牙を剥くことになるとは、今の私たちはまだ誰も知る由もなかったのだ。


私が公爵家の養女として引き取られ、スラムの家族たちも屋敷の使用人見習い(?)として働き始めてから、さらに数日が経った頃。


公爵(お養父様)と長男のセオドア義兄様は、執務室で深く頭を抱えていた。


「……また、手掛かりはゼロか」


「はい、父上。当時屋敷にいた使用人たちを全員個別に尋問しましたが、誰一人として『アイラが産室から連れ出された時の記憶』を持っていません。魔導具による記録映像も、その日のその時間だけがすっぽりと抜け落ちています」


お父様たちが極秘裏に進めているのは、「九年前にアイラをスラムへ捨てた内通者の特定」だ。


しかし、調査は完全に行き詰まっていた。


当時の産室には大勢の侍女や医師がいたはずなのに、誰に聞いても「奥様が亡くなり、リリアお嬢様がお生まれになったことしか覚えていない」と証言するのだ。


口裏を合わせているというよりは、本当に記憶が存在しないかのような不気味さだった。


人間業とは思えない、あまりにも完璧すぎる隠蔽工作。


「クソッ……我が公爵家の懐深くで、これほどの真似ができる者がいるというのか……」


ギリッ、とお父様が奥歯を噛み締めた、その時。


「お養父様、お義兄様。お茶の時間ですよー」


私はリリアと手を繋ぎ、のんきな声で執務室の扉を開けた。


険しい顔をしていた二人は、私とリリアの顔を見た瞬間に雪解けのような笑顔になり「おお、アイラ、リリア! 今行くぞ!」と駆け寄ってきた。


私たちの後ろには、ティーセットを乗せたワゴンを完璧な所作で押すマリー姉ちゃんと、彼女の後ろをトコトコとついて歩く六歳の少女、セナの姿があった。


「セナも、最近はすっかり屋敷の仕事に慣れたみたいだね」


「はい! アイラおねえちゃん!」


セナは花が咲くような愛らしい笑顔で頷いた。


スラムで私の妹分として育ったセナは、孤児たちの中でも飛び抜けて頭の回転が早く、先日暗部の頭領から「異常な洞察力を持つ、情報収集の天才だ!」とスカウトされた逸材だ。


今は一般教養を身につけるため、私やリリアの授業を端っこで見学させてもらっている。


だが、私やマリー姉ちゃんを含め、赤ん坊の頃にスラムの廃教会に捨てられていた彼女が、なぜこれほどまでに異常な洞察力を持っているのか、その本当の「理由」を知る者は誰もいなかった。



私たちは応接スペースのソファに座り、マリー姉ちゃんが淹れた至高の紅茶を楽しんでいた。


「ふむ。今日の授業は『貴族の系譜と家族構成』だったな。二人ともよく理解できたか?」


「はい、お父様。とても分かりやすかったです!」


「私もバッチリだよ」


お父様の問いに私たちが答えると、横で控えていたセナが、こてんと首を傾げた。


そして、本当に何気ない、無邪気な疑問を口にしたのだ。


「あのね、授業で『高位貴族の赤ん坊は、乳母が育てるのが普通』って習ったんだけど……」


セナの澄んだ声が、執務室に響く。


「リリアお嬢様の『乳母』って、いないの?」


その瞬間。


ピタリと、お養父様とセオドア義兄様の動きが止まった。


紅茶を注いでいたマリー姉ちゃんや、控えの執事たちの動きも、まるで時間を止められたかのように完全に静止する。


「……乳母?」


お父様が、虚ろな声でオウム返しにした。


「……リリアの、乳母……?」


おかしい。


アルジェント公爵家ほどの家格であれば、妻が亡くなったかどうかにかかわらず、生まれた子供には必ず身元の確かな『乳母』がつけられる。それは絶対の常識だ。


だが、お養父様たちの頭の中には『リリアの乳母』という存在の記憶が、すっぽりと抜け落ちていたのだ。


それは、九年前に悪魔が公爵家に掛けた悪魔の魔法『認識阻害結界』。


アイラを捨てた事実と、それを実行した「乳母」という存在そのものを、公爵家の人間たちの認識から完全に消し去っていた完璧な隠蔽魔法だった。


余談だが、天使のハーフである恩寵を持つセナには、悪魔の術である『認識阻害』が効かなかった。


術の影響を受けていない彼女が発した、矛盾を突く無邪気な一言。


それが、強固だったはずの結界に、致命的な亀裂を生じさせたのだ。


『――パリンッ!!』


お父様とセオドア兄様の脳内で、見えないガラスが粉々に砕け散るような、甲高い音が鳴り響いた。


「がっ……! あぁぁっ!!」


「父上っ……!? ぐっ、頭が……!!」


二人は突然頭を抱え、ソファに崩れ落ちた。


周囲の執事たちも次々と膝をつき、激しい頭痛に呻き声を上げ始める。


私とリリア、そしてセナとマリー姉ちゃんだけが、突然の異常事態に目を丸くしていた。


「お養父様!? お義兄様! どうしたの!?」


「だ、大丈夫ですか!?」


数秒後。


荒い息を吐きながら顔を上げたお父様の瞳には、驚愕と、そして底知れぬ戦慄が浮かんでいた。


結界が砕け散り、塗り潰されていた『現実の記憶』が激流のように脳内に蘇ってきたのだ。


「思い、出した……! リリアが生まれた時、確かに『乳母』がいた! 古くから公爵家に仕えていた、あの女だ……!」


「なぜ……なぜ俺たちは今まで、彼女が『いない』ことに何の疑問も抱かなかったんだ!? まるで、最初から存在しなかったかのように……!」


セオドア義兄様が恐怖に顔を引き攣らせる。


そう、アイラを産室から連れ出し、スラムへ遺棄したのは、他でもないその『乳母』だったのだ。


「アイラを捨てたのは乳母だ! すぐにその女を捕らえろ!! どこにいる!!」


お父様の怒号が飛び交い、屋敷中が大騒ぎになる。


しかし、いくら探しても「乳母」の姿は屋敷のどこにもなかった。


そもそも、彼女はアイラを捨てた直後、公爵家に留まることなくどこかへ姿を消してしまっていたのだ。


では、彼女はどこへ行ったのか? なぜ、これほどまでに恐ろしい神話級の魔法(認識阻害)を使うことができたのか?


公爵家に、得体の知れない強大な陰謀の影が落ち始めていた。



一方、その頃。


王都から遥か上空、雲海のさらに上にある『天の領域』にて。


「……ん?」


神々しい白い羽を持つ一体の天使が、ふと下界を見下ろして眉をひそめた。


「今、下界で『悪魔』が張った巨大な結界が割れる気配がしたぞ……? なぜあんなところに悪魔の術が?」


本来、天使族は短命な人間たちの営みを監視することなどない。彼らが注視しているのは、あくまで宿敵である『悪魔』の動向だけだ。


しかし、結界が破れたことで漏れ出した微かな悪魔の瘴気は、彼らの注意を引くには十分すぎた。


「何か、よからぬことが起きているようだな。……少し、様子を見に行ってみるか」


こうして、セナの無邪気な一言によって砕け散った認識阻害は、図らずも神話の時代から続く因縁の相手である『天使』を、公爵家へと招き寄せることになったのである。


巨大な『認識阻害結界』が砕け散った直後。


アルジェント公爵邸の上空に、不可視の霊体として一体の『天使』が降り立っていた。


(……結界の中心はここか。微かに悪魔の瘴気が残っているが、連中の姿はないな)


神々しい白い羽を持つ天使は、空から豪奢な屋敷を見下ろし、静かに眉をひそめた。


本来、長命な天使族は、短命で脆い人間たちの営みに干渉することはない。


彼らの目的はただ一つ、宿敵である『悪魔族』の動向を監視し、滅ぼすことだけだ。


だからこそ、天使は不可解に思った。


なぜ悪魔族は、人間の貴族の屋敷などに、あのような結界を張る必要があったのか。そして、なぜ結界が破れる前に、そそくさと逃げ出してしまったのか。


(何か強大な陰謀を企てていた痕跡はあるが……全体像が見えんな。少し、この屋敷の人間たちを『視て』みるか)


天使は屋敷の壁をすり抜け、結界が破れて大騒ぎになっている屋敷の中枢――執務室へと向かった。


そこでは、公爵であるレオンハルトと長男のセオドアが、突如として蘇った「アイラを捨てた乳母の記憶」に混乱し、怒号を飛ばしていた。



(ほう。あの威圧感を放つ男……ただの人間かと思ったが、随分と古い血の末裔だな。【黒魔法使い】の血筋か)


天使の眼は、人間の魂に刻まれた血脈の歴史をも見通す。


そして、その公爵の側に寄り添っている二人の少女――アイラとリリアを見た瞬間、天使はわずかに目を見開いた。


(……驚いたな。あの銀髪の少女は、五千年前に存在した強大な【黒魔法使い】の完全な隔世遺伝。そして隣の少女は、【白魔法使い】の隔世遺伝者か。なんと稀有な……)


神話の時代において、世界を揺るがした光と闇の魔法使い。その力が、現代の双子として完璧に現出している。


天使はそこで、一つの仮説に至った。


(なるほど。悪魔どもは、あの黒魔法の隔世遺伝者アイラを絶望させて悪意に染め、世界を崩壊させる引き金にでもしようとしたか。だが……)


天使が見る限り、当のアイラは絶望するどころか、片手に食べかけのクッキーを持ちながら「お養父様、元気出して」と呑気に笑っている。


どう見ても悪意に染まる気配など微塵もない、幸せの絶頂にいる顔だ。


(……ははぁん。さては悪魔の奴ら、元凶になるはずだったあの少女のせいで計画が修復不可能なほどに破綻して、見切りをつけて撤収したというわけか)


あまりにも情けない幕引きを察し、天使は呆れ半分にため息をついた。


だが、まだ安心はできない。逃げた悪魔がどこに潜伏し、何を遺していったのかを正確に把握する必要がある。


そのためには、実体を持ってこの屋敷の権力者と直接話をした方が早そうだ。


そう考えながら視線を巡らせた天使は、双子の後ろに控えている少女――セナの姿に気づき、今度こそ心底驚愕した。


(ん? 人間の中に、天使の恩寵を持つ者がいる……? いや、ただの恩寵ではない。あの魂の気配は……間違いない、私と同じ部隊だった『あいつ』の恩寵だ。子を守るために自身の恩寵まで託したか)


それは、かつて悪魔との戦いで命を落とした、同僚の天使の気配だった。


人間に恋をして部隊を離れたあいつの遺した子供が、まさかこんな所にいようとは。


「悪魔の術を破ったのは、あの子か」


天使のハーフであるなら、この状況を説明するのにうってつけの相手だ。


(よし。早急に肉体を得て、あの娘に接触しよう)

天使は執務室を離れ、屋敷の廊下を滑るように移動した。


適当な動物か何かに受肉しようと考えていた天使だったが、廊下の隅でせっせとモップ掛けをしている一人のメイドを見つけ、ピタリと止まった。


(おや。あの人間、魂に悪魔の残り香が濃くこびりついているな)


そのメイドは、最後まで公爵家に監視役として残り、つい最近になって撤退した『悪魔の器』にされていた人間だった。


悪魔は目的のために表層に出る時だけ彼女の肉体を操っていたため、彼女自身には悪魔に憑依されていた時の記憶がない。


今は「最近、よく夢遊病みたいに記憶が飛んでたけど、治ってよかったわー」などとのんきに考えながら、ごく普通にモップを掛けている。


(ちょうどいい。悪魔が長年馴染ませた肉体なら、私が無断で入っても負荷は少ないだろう。少し体を借りるぞ、人間)


天使はスッとメイドの背後に立ち、その体の中へと光のように溶け込んだ。



「ふんふーん、今日も床がピカピカ……あれっ?」


モップを掛けていたメイドは、突然、春の日差しのような心地よい暖かさに全身を包まれた。


と同時に、抗いがたい猛烈な眠気が襲ってくる。


「ふぁぁ……なんだか、すごく、眠……い……」


彼女はゆっくりと壁に寄りかかり、そのまま目を閉じた。


悪魔に九年間も体を勝手に使われていた不憫なメイドは、解放されたのも束の間、今度は天使に乗っ取られ、深い深い眠り(まどろみ)の中へと落ちていったのである。


――そして数秒後。


壁に寄りかかっていたメイドが、パチリと目を開けた。


その瞳の奥には、神々しい金色の光が宿っている。


「よし、馴染んだな。悪魔の瘴気も私の光で浄化しておいてやろう。我ながら完璧な受肉だ」


天使(メイドの姿)は、パタパタとメイド服の埃を払い、満足げに頷いた。


そして、先ほど目星をつけていた少女――セナの元へと歩き出す。


執務室の騒ぎが一旦落ち着き、セナが一人で廊下に出てきたタイミングだった。


「やあ。同胞の娘よ」


天使は、メイドの姿のまま、セナの前にスッと立ち塞がった。


「え? あなたは……お掃除係の……」


突然声をかけられ、不思議そうに見上げてくるセナ。


その頭を、天使はかつての同僚を慈しむように、優しく撫でた。


「驚かせてすまない。私は、君の父親と同じ部隊に所属していた『天使』だ。この屋敷で起こった悪魔の陰謀を解明するため、君と、この屋敷の主人レオンハルトの力を貸してほしい」


ここに、神話の時代から続く因縁の『天使』と、悪魔の陰謀を(無自覚に)粉砕したチート令嬢たちの、前代未聞の邂逅が果たされようとしていた。


「……てんし?」


神々しい金色の瞳を光らせるメイドの顔を見上げて、セナはこてんと首を傾げた。


「あのね、おそうじのひと。あたま、うっちゃったの?」


「……む?」


「てんしさんとか、あくまさんとか、むずかしいことよくわかんない。マリーねえちゃんに、おでこ冷やしてもらったほうがいいよ?」


セナは本気でメイドを心配していた。


スラムで育った彼女は、『天使』という存在自体をおとぎ話の住人だと思っており、ましてや自分の父親がそれだなどとは夢にも思っていないのだ。


壮大なカミングアウトを完全にスルーされ、天使は少しだけ呆けた顔になった。


「あ、いや。私は頭を打ったわけでは……」


(天使の父親と人間の母親の事は知らないのか?)


「でも、このおやしきで『一番えらいひと』にあいたいなら、おしえてあげる!」


セナはメイド(天使)の手をぎゅっと引くと、トコトコと廊下を歩き出した。


いくら天使と人間のハーフとはいえ、中身は無邪気な六歳の子供である。天使は少しだけ苦笑すると、大人しくセナに手を引かれて歩いていった。



「――まだ『乳母』は見つからんのか!!」


執務室では、レオンハルトの怒号が響き渡っていた。


記憶が蘇り、アイラを捨てた犯人が「乳母」だと判明したものの、彼女の行方は杳として知れない。


公爵家の情報網をフル稼働させても、屋敷内はおろか王都のどこにも痕跡がなかった。


「こうしゃくさま、セオドアさま。なんか、おそうじのひとが『おはなしがある』って」


ピリピリとした空気の執務室に、セナがのんきな声で扉を開けて入ってきた。


その後ろには、見慣れない……いや、屋敷のどこかでモップ掛けをしているのを見たことがあるような、地味なメイドが立っている。


「なんだ、今それどころでは……」


レオンハルトが苛立たしげに視線を向けた瞬間、彼の背筋に強烈な悪寒が走った。


そのメイドは、ただ静かに立っているだけだ。しかし、彼女の瞳の奥で揺らめく金色の光と、そこから放たれる『人間ではない上位存在の威圧感』は、歴戦の猛者であるレオンハルトやセオドアを本能的に竦み上がらせるのに十分すぎた。


「貴様……何者だ。ただのメイドではないな」


レオンハルトが腰の剣に手を掛け、セオドアも前に出る。


しかし、天使は薄く微笑んだだけで、ゆったりと口を開いた。


「警戒には及ばない、古い血の末裔よ。私は『天使』。そこのセナの父親の同僚であり、君たちに少しばかり厄介な真実を伝えに来た存在だ」


「て、天使だと……?」


おとぎ話の存在を名乗るメイドに、レオンハルトたちは絶句した。


天使は、ソファで不思議そうにクッキーをかじっているアイラと、その隣にいるリリアを一瞥し、そして執務室全体に響く厳かな声で語り始めた。


「端的に言おう。君たちが探し回っている『乳母』は、もうこの屋敷にはいないし、生きてはいない。九年前、そこの銀髪のアイラを遺棄した直後、偶然通りかかった天使に見つかり、肉体ごと消滅させられたからだ。そのような事件の後始末をしたと、同僚の誰かが部隊長に報告していた記憶がある。たしか九年前だったか」


「なんだと……!? では、彼女にアイラを捨てるよう指示した黒幕は誰だ!」


「人間の中に黒幕などいない。その『乳母』に憑依していたのは末端の下級悪魔で、指示を出したのは別の高位か中位の悪魔だろう」


天使の言葉に、執務室は水を打ったような静寂に包まれた。


公爵家の権力争いなどではない。神話の時代から続く、天使と悪魔の代理戦争。


事のスケールの大きさに、レオンハルトたちの思考が完全に停止する。


「悪魔は、公爵家が持つ【黒魔法使い】の隔世遺伝……アイラの力を利用し、彼女を絶望させて世界を崩壊させようと企てた。そのためにアイラを捨て、屋敷の者たちに『認識阻害結界』を張った」


「アイラの力を……」


「そうだ。本来なら、あの子はスラムで、あるいはこの屋敷で冷遇され、これから絶望に続く負の感情を育てていくところだったはずなのだ」


天使はそこで、深い深いため息をついた。


「だが、悪魔の計画は完全に破綻した。私が来る前の君たちのこれまでの会話の内容から、身代わりとして連れてこられたアイラが自らの能力で妹を見つけ出し、君たちから全力で溺愛され始めたことで、彼女を『絶望』させるなど到底不可能になってしまったからだ」


「えっ、私?」


突然話を振られ、私は自分を指差した。


「左様。悪魔は事の顛末を見届けるためか予定通りに計画を進めるために、私が今使っている『このメイド』の肉体に潜んでいた。しかし、アイラの想定外な行動に計画の修復は不可能だと悟り、見切りをつけて撤退したようだ。」


つまり。


私が「まともなご飯が食べたい!」と直訴し、お礼にチート能力でリリアを見つけ出したあの一連の行動が、結果的に『悪魔の世界崩壊計画』を粉砕し、世界を救っていたということらしい。


「……私の食欲が、世界を救った……ってコト!?」


「そうなるな。……感謝するぞ、チート令嬢」


天使は少し疲れた顔で頷いた。


レオンハルトとセオドアは、あまりにも斜め上すぎる真実に、完全にポカンと口を開けて硬直していたが――数秒後、レオンハルトの瞳に、絶対零度の怒りの炎が宿った。


「……話のスケールが大きすぎて、正直なところ全てを理解できたわけではない。だが、一つだけ確かなことがある」


地を這うような、恐ろしいほどの怒気を孕んだ声。


「相手が神話の悪魔だろうが人間だろうが、私には関係ない。我が愛娘を産室から攫い、スラムの泥水の中へ九年間も捨て置いた外道を……この私が、決して生かしておくものか」


「父上のおっしゃる通りだ。アルジェント公爵家の全てを懸けて、その逃げた悪魔どもを追い詰める!」


セオドアもまた、剣の柄を強く握りしめて強烈な殺気を放っていた。


「人間の法で裁けない相手だというのなら、我々自身の手で償わせるまでだ。奴らが消滅する瞬間をこの目で確かめなければ、絶対に腹の虫が治まらん!」


「……ふむ。我が子を想う人間の執念とは、恐ろしいものだな。だが、頼もしい限りだ」


天使は微かに口角を上げると、何もない虚空へと手を差し入れた。


まばゆい光と共に引き抜かれたのは、神々しい白銀の輝きを放つ両刃の直剣だった。


「ならば、これを貸し与えよう。かつて我々が悪魔を討ち果たすために用いた『天使の剣』だ。これならば、人間の身であっても悪魔を宿主ごと断ち斬り、完全に消滅させることができる」


「……ありがたく、借り受ける!」


レオンハルトは迷うことなくその天使の剣を受け取り、さらなる怒りと闘志の炎を燃え上がらせた。


頼もしすぎる戦力を得た公爵親子の姿に満足そうに頷くと、天使は改めて私とリリアを見回した。


「さて。逃げた悪魔を討つにしても、奴らがどこに潜み、何を遺していったのか、そして何を企てていたのかを正確に把握する必要がある。……どうやらこの二人は、捜索や探索に特化した力を持っているようだな。公爵よ、調査にお前たち家族の力を貸してほしい」


天使はそう言うと、ソファに座るリリアの元へと歩み寄った。


「リリア・アルジェント。君は母親から【白魔法使い】の隔世遺伝を強く受け継いでいる。アイラの『人を探す力』と対をなす、『物を探す力』を」


「私に……お姉様と同じような力が?」


「ああ。少し、手伝わせてもらうぞ」


天使が、リリアの銀色の髪にそっと触れた。


瞬間、リリアの体が淡い白い光に包まれる。彼女の中に眠っていた白魔法の魔力が、天使の光に呼応して活性化し、溢れ出してきたのだ。


「あっ……なんだか、頭の中が、すごくクリアに……」


光が収まると、リリアの青玉の瞳が、今まで以上に透き通った輝きを放っていた。


「よし。これで、古の魔法使いが使っていた力の一部を持つ双子の助手の完成だ。人間ではこういう仕事を行う職業を探偵と言うらしいな。『探偵バディ』の完成と言ったところか」


天使は満足そうに頷き、そして私とリリアを交互に見つめた。


「さあ、始めようか。悪魔がこの屋敷に遺した痕跡を辿り、公爵家にかけられたすべての謎を暴く、お前たち姉妹の『探偵の仕事』を」


人探しの姉と、物探しの妹。


神話スケールの陰謀を(無自覚に)粉砕した最強の双子による、公爵家の謎解きが、今ここに幕を開けたのだった。


天使(メイドの姿)の言葉に、執務室の空気は一気に活気づいた。


自身に【物探しの能力】が目覚めたと知ったリリアは、青玉の瞳をキラキラと輝かせながら、自分の両手を不思議そうに見つめている。


「私にも、お義姉様みたいに凄い力があるなんて……! これで、少しはお義姉様のお役に立てますよね!?」


「もちろん。頼りにしてるよ、リリア」


私が頭を撫でてやると、リリアはえへへと嬉しそうに笑った。



そんな尊すぎる光景に、レオンハルトお養父様とセオドア義兄様は「おお……我が天使たちよ……(物理的に天使がいる前で)」と感涙に咽び泣きそうになっているが、今はそれどころではない。


「さて、天使さん。逃げた悪魔を見つけるための調査だけど、具体的にどうするの?」


「うむ。まずは手がかりだが……実は、私が今受肉しているこのメイドの体は、逃げた悪魔が長年『監視役の器』として使っていたものだ」


天使の言葉に、お父様たちの表情がハッと引き締まる。


「なるほど! では、その体に残る悪魔の瘴気や残滓を辿れば、奴らの行き先や居場所が分かるのではないか!?」


「流石は上位存在だ、素晴らしい着眼点……」


お養父様とセオドア義兄様が身を乗り出して称賛する中。


天使は、なぜかスッと視線を泳がせ、気まずそうに頬を掻いた。


「いや……それがだな。受肉した際、悪魔の瘴気が酷く不快だったもので。つい癖で、一切の残滓を残さずピッカピカに浄化してしまったのだ」


「証拠隠滅しちゃってるじゃん!」


神話の存在とは思えないほどの堂々としたポンコツ発言に、私は思わず全力でツッコミを入れてしまった。


お父様たちも「えっ、浄化……?」とポカンと口を開けて硬直している。


「あ、案ずるな! 魂の残滓は消えたが、この肉体が物理的に行った『行動の記憶』はまだ筋肉や脳細胞に刻まれているはずだ! それを読み取れば、悪魔がこの屋敷で何をしていたかが分かる!」


天使は慌てたように言い訳をすると、コホンと咳払いをして目を閉じた。


そして、メイドのこめかみに指を当て、微かな光を放ちながら記憶の深淵へとダイブしていく。


――悪魔は目的のために表層に出る時だけ、このメイドの体を操っていた。彼女が「夢遊病」だと思っていた間の無意識の行動記録を、天使の力で強引に引き出そうというのだ。


やがて、天使の指先から放たれた光が、空中にぼんやりとした映像ホログラムのようなものを映し出した。


「おお……見えたぞ。これは、恐らく数週間前の深夜の記憶だ」


映像の中に映し出されたのは、ランプ一つ持たずに暗い屋敷の廊下を歩く『このメイド自身』の目線だった。その目線は人間の動きとは到底おもえない移り変わりをしていた、完全に悪魔に操られていることがわかる。


やがて彼女(悪魔)が向かったのは、普段は鍵が掛けられ、誰も寄り付かない屋敷の最奥――『旧館の地下書庫』だった。


「あの地下書庫か。古い文献が積んであるだけで、今は誰も使っていないはずだが……」


お養父様が眉をひそめる。


映像の中の悪魔は、埃まみれの書棚の奥にある隠しレンガを取り外し、その中に『黒い小箱』のようなものを隠した。


「何かを隠したな……。待て、まだ続きがある」


小箱を隠し終えた悪魔に、ぬらりと一つの影が近づいてきた。


深々とフードを被った、大柄な『男』の姿だ。


天使の強大な力は、その記憶から当時の音声すらも完全に復元し、執務室に響かせた。


『首尾はどうだ?』


『はっ。命じられた通り、王都の地下に関する手配書と、例の陣の配置図でございます』


『ご苦労。あの忌々しい供物アイラのせいで本来の計画は破綻してしまったが……ただで退く我々ではない。最後に特大の置き土産をしてから撤収するとしよう』


男から恭しく羊皮紙の束を受け取ると、メイドの部屋まで移動して視界が暗転した。


「……映像はここまでだ。この直後、悪魔は表層から引っ込み、メイドは自室のベッドで目を覚ましたようだ」


空中の光が弾けて消え、天使が目を開けた。


「私が読み取れたのはここまでだ。だが、これで明確な手がかりが二つできたな。地下書庫に隠された『黒い小箱』と、悪魔と接触していた『フードの男』だ」


「その男が悪魔に協力していた内通者、あるいは別の悪魔の宿主というわけだな」


お養父様が、貸し与えられた『天使の剣』の柄を強く握りしめる。


「すぐに騎士団を地下書庫へ向かわせよう。壁を全て破壊してでも、その小箱を探し出す!」


「いえ、お父様! それだと、もし箱に罠が仕掛けられていた時に危ないです」


逸るお養父様を止めたのは、リリアだった。


彼女は一歩前に出ると、ふんすっと鼻息を荒くして胸を張った。


「その『黒い小箱』の探索、私にお任せください! 今の私なら、きっと見つけ出せる気がします!」


「おお……リリア! なんと頼もしい! だが、暗く埃っぽい地下書庫などに愛娘を行かせるわけには……!」


「リリア一人じゃないよ。私も一緒に行くし」


私も立ち上がり、リリアの隣に並んだ。


フードの男の捜索には『血盟探知』が使えるかもしれないが、それには相手の血などの触媒が必要だ。まずは地下書庫にある「黒い小箱」を見つけ出し、そこに残された手がかりから男を特定するのが筋だろう。


「よし。探偵バディの初仕事だね」


「はい、お義姉様! 私、頑張ります!」


「うむ。私も同行しよう。何が出てきても、私が消し炭にしてやるから安心するがいい」


天使も偉そうに胸を張って追従する。


こうして、世界を救った最強のマイペース令嬢、神話の能力に目覚めた妹、そして(ちょっとポンコツな)本物の天使という異色の探偵チームが、公爵家の奥深くへと足を踏み入れることになったのだった。


「ここが旧館の地下書庫か……ひどい埃だな。アイラ、リリア、ハンカチでしっかり口を覆っておきなさい」


「はい、お養父様」


お父様の過保護な指示に従いながら、私たちは旧館の地下深くにある薄暗い書庫へと足を踏み入れた。


カビと古い紙の匂いが立ち込める室内には、天井まで届く巨大な本棚がズラリと並び、数え切れないほどの古文書や魔導書が乱雑に詰め込まれている。



「ここのどこかに、あの『黒い小箱』が隠されているはずだが……映像では壁のレンガを外していたな」


「しかし父上、この書庫の壁は全てレンガ造りです。しかも本棚の裏となれば、一つずつ確認するのは骨が折れますぞ」


壁を埋め尽くす本棚を見上げ、お養父様とセオドア義兄様が眉をひそめる。


確かに、これでは力任せに探そうにも時間がかかりすぎる。


「ふふん、そこで私の出番というわけだな!」


偉そうに腕を組んで前に出たのは、メイドの姿をした天使だった。


「私の神聖なる光で、この書庫全体をスキャンして……」


「天使さん、ストップ。メイドに残ってた悪魔の瘴気ごと証拠隠滅させたの忘れたの? 下手に天使の力なんて使ったら、中の手掛かりごと箱が消し飛ぶかもしれないでしょ」


「むっ……た、確かに。物質の残滓まで浄化してしまう恐れはあるな」


私の的確なツッコミに、天使は気まずそうにスッと引き下がった。この天使、威厳があるのかポンコツなのかよく分からない。


「お父様、お兄様。私にやらせてください」


おずおずと、しかし決意を秘めた声で一歩前に出たのは、リリアだった。


「私の【物探しの能力】なら、きっとあの箱を見つけられるはずです。……お義姉様、お兄様に食堂で見せたという、スプーンと糸を今も持っていたら、貸していただけませんか?」


「これ? うん、いいよ」


私が便利なので持ち歩いてた物を、ポケットから取り出した『ダウジングセット(スプーン+糸)』を渡すと、リリアはそれを両手でぎゅっと握りしめた。


「お義姉様が人を探す時は、血を触媒にしていましたよね。でも、物探しの場合はどうすればいいんでしょうか」


「んー、ダウジングの場合は、探したい対象を『強くイメージする』のがコツかな。さっき天使さんが見せてくれた映像の、あの黒い小箱の形、色、質感を、頭の中に鮮明に思い浮かべて、そこに魔力を流し込む感じ」


「イメージ……魔力を流し込む……やってみます」


リリアは目を閉じ、静かに深呼吸をした。


彼女の脳裏に、先ほどの映像――悪魔が隠した、禍々しい装飾の施された『黒い小箱』が鮮明に描かれていく。


「……見つけ出して。【白魔法ホワイト・サーチ】!」


リリアが凛とした声で紡ぐと同時に、彼女の体から淡い純白の光が溢れ出した。


私と瓜二つの顔で、私と同じようにダウジングを行う姿。それはまさしく、対となる双子の魔法使いの共鳴だった。


リリアの手から垂れ下がっていたスプーンが、カチリ、と微かな音を立てて動き出す。


そして、まるで透明な糸で引っ張られるかのように、空中でピーンと真っ直ぐに特定の方向を指し示した。


「……あそこです! 奥から三番目の本棚の後ろ!」


リリアが目を開け、力強く指差す。


その言葉に、セオドア義兄様が瞬時に動いた。分厚い本が詰まった重い本棚を、鍛え上げられた腕力で軽々と引きずり出す。


現れた埃まみれのレンガ壁。その一部に、確かにわずかな隙間があった。


「ここだな……!」


お養父様が短剣の柄でレンガを叩き、慎重に引き抜く。



すると、ぽっかりと空いた空洞の中に――映像で見たものと全く同じ、禍々しい装飾の『黒い小箱』が鎮座していたのだ。


「おおおっ! 本当に見つけたぞ! でかしたリリア!」


「リリア! 天才だ、我が妹ながら誇らしい!」


「えへへ……お義姉様の真似をしただけです」


親バカ二人組が歓喜の声を上げる中、照れくさそうに笑うリリアの頭を、私はわしゃわしゃと撫で回した。


「すごいすごい! これで手掛かりゲットだね。……で、中には何が入ってるの?」


お養父様が慎重に小箱を机の上に置き、セオドア義兄様が警戒しながら蓋を開ける。


罠は仕掛けられていなかった。


箱の中にあったのは、黒く変色した魔導具の破片(恐らく通信に使った後、証拠隠滅のために壊したものだろう)と、数枚の『羊皮紙の切れ端』だった。


「これは……配置図の控えか? 何かの陣を描いたようだが、大部分が燃やされていて判別できん」


「父上、こっちの羊皮紙には何やら文字が……いや、これは『契約書』のようですね」


セオドア兄様がピンセットでつまみ上げた羊皮紙の切れ端には、悪魔の文字らしきものと、その末尾に『赤黒い染み』のようなものが付着していた。


「血判、だな。悪魔と契約を交わした、あのフードの男の血だろう。署名ごと燃やそうとしたようだが、急いでいたのか完全に燃え尽きずに残ってしまったらしい」


「……血、ですって?」


その言葉に、私は思わずニヤリと笑みを浮かべた。


リリアもパッと顔を輝かせ、私を見る。


「お義姉様! これって……!」


「うん。探し物の次は、人探しの出番だね」


私は、お義兄様の手にある羊皮紙の切れ端を指差した。



「血が残ってるなら、私の【血盟探知】が使える。これを使えば、今度はあの『フードの男』が今どこにいるか、一発で炙り出せるよ!」


私の言葉に、お父様とセオドア兄様は獰猛な笑みを浮かべた。


そして天使もまた、深く頷いて称賛の言葉を口にする。


「妹が『物』を見つけ出し、姉がそこから『人』を追う。見事な連携だ。古の魔法使いの力、しかと見せてもらったぞ」


こうして、リリアのダウジングによって見つけ出された小さな手掛かりは、私への完璧なパスとなった。


逃げた悪魔に協力する内通者――フードの男の特定に向けて、探偵姉妹の追跡劇はさらに加速していくのだった。


地下書庫から執務室へと戻った私たちは、早速、リリアが見つけ出した『血判付きの契約書』を使って人探しを開始した。


机の上に王都の詳細な地図を広げ、その中央に羊皮紙の切れ端を置く。


「いくよ。【血盟探知ブラッド・サーチ】」


私が魔力を込めると、ぽっ、と青い炎が燃え上がった。


炎は羊皮紙の血の染みを舐めとるようにして燃え広がり、地図全体を包み込む。


やがて炎が収まると、灰になった地図の中で、ほんの一部分――王都の一等地にある広大な屋敷の区画だけが焼け残っていた。


「……ここか。王都にあるアルジェント公爵家の『分家』の屋敷。当主は……バルドか!!」


焼け残った場所を見た瞬間、レオンハルトお養父様がギリッと奥歯を噛み締めた。


バルド・アルジェント。お父様の従弟にあたる人物であり、公爵家の分家当主として、かねてより本家の権力や財力に強い執着を見せていた男だ。


地下書庫の映像に映っていた、悪魔と接触していた『フードの男』の正体。


「セオドア! 第一小隊と第二小隊を直ちに分家へ向かわせろ! 屋敷を完全に包囲し、ネズミ一匹逃がすな!」


「はっ!」


「バルド本人は、この私が直々に捕縛する!」


天使の剣を腰に帯びたお父様の瞳には、絶対零度の怒りが宿っていた。



突入劇は、あっけないほど一瞬で終わった。


屋敷の包囲に気づき、隠し通路から逃げ出そうとしていたバルドは、先回りしていたお養父様とセオドア義兄様によって一瞬で取り押さえられた。


豪華な絨毯の上に無様に引き倒されたバルドは、恐怖に顔を引き攣らせていた。


「レ、レオンハルト義兄上! 誤解です、私は何も……!」


「黙れ。旧館の地下書庫にあった貴様の血判付きの契約書は、すでに回収済みだ。我が愛娘たちを陥れようとした罪、万死に値すると思え」


お養父様の冷徹な声に、バルドはヒッと喉を鳴らした。


そこに、メイドの姿をした天使が歩み寄り、バルドを見下ろした。


「人間よ。あの下級悪魔と契約し、何を企んでいた?」


「あ、悪魔だと……!? 私はただ、あのローブの魔術師に『レオンハルトを失脚させる方法がある』と持ちかけられただけで……!」


追い詰められたバルドは、震える声で事の顛末を自白し始めた。


彼の目的はただ一つ、アルジェント公爵家の『当主の座』を奪うことだった。


九年前。エレオノーラ(私の実の母)が双子を産んだ際、内通者であった乳母をそそのかし、産室の混乱に乗じて片割れである私をスラムに捨てさせた。


そして最近になり、残ったリリアを誘拐させることで、お父様を絶望させて完全に失脚させ、自らが当主の座に収まろうと企んだのだ。


「あの魔術師(悪魔)は、私に公爵の座を約束してくれたのだ! エレオノーラばかりを愛し、分家である私を冷遇し続けた貴様が悪いのだ、レオンハルトォッ!!」


床に押さえつけられながらも、バルドは血走った目で喚き散らした。


しかし。その醜い言い訳を聞いていた天使は、心底呆れたように深い深いため息をついた。


「……愚かだな。人間よ、お前はただの舞台装置、安い捨て駒に過ぎなかったのだぞ」


「なに……?」


「悪魔が人間のちっぽけな権力争いなどに興味を持つわけがないだろう。奴らの真の目的は、古の魔法使いの力を持つこの娘……アイラだ」


天使の言葉に、お養父様たちだけでなく、私とリリアも息を呑んだ。


「悪魔の計画はこうだ。まず、古の黒魔法の力を持つアイラをスラムの泥水の中で育て、絶望の種を植え付ける。そして、リリアが誘拐されたタイミングで、あわよくば公爵家が彼女を『身代わりの偽物』として拾うよう誘導する。……ここまでは、奴らの計算通りだったのだろうな」


天使は私を指差した。


「本来ならば、アイラはこの公爵家で偽物として徹底的に冷遇され、最後は何か無実の罪を着せられて、無惨にも『処刑』される予定だったのだ」


「……アイラを、処刑だと?」


お父様から、恐ろしいほどの殺気が膨れ上がった。


「そうだ。五千年ほど前にも、奴らは同じようなことをしでかした。特定の人間を『役者』や『舞台装置』に仕立て上げ、地獄の門を開ける手法だ。まずは役者を徹底的に疲弊させ、そこから決定的な挫折と憎悪、絶望を与える。人間の場合なら、愛する家族を目の前で惨殺する、とかな。そして負の感情がピークに達したところで役者を殺させ、その魂を触媒にして、周囲に集まり死を待ち望む人間たちのドロドロとした負の感情を吸収・増幅させるのだ」


天使の語る悪魔の計画の全容に、その場にいた全員が戦慄した。


「強大な負の感情の連鎖は、地上と地獄を繋ぐ『ゲート』を開く。門が開けば、地獄から無数の亡者と悪魔が溢れ出し、この美しい地上は永遠の混沌に飲み込まれていたはずだった。悪魔どもにとっては使い古された手段だが、それゆえに確実性があると思っているのだろう。あの時は我々天使も対応に遅れをとり、全面戦争にまで発展したからな……全く、忌々しい記憶だ。……お前の下らない野心は、その世界を滅ぼすためのただの着火剤に過ぎなかったのだよ、バルド」


「そ、そんな……私が、利用されていた、だと……?」


自らの愚かさと、悪魔の恐ろしすぎる思惑を知らされたバルドは、完全に生気を失って床に崩れ落ちた。


……なるほど。スラムで飢え死にしそうになり、公爵家でも残飯を出されたあの時、もし私が世界を呪って絶望していたら、そのままバッドエンドに直行していたというわけだ。


「だが、計算外だったことがただ一つ」


沈痛な空気が流れる中、天使は呆れ半分、感心半分といった様子で私を見た。


「絶望と憎悪に染まるはずだった『起点トリガー』が、美味しいご飯を出されただけで攫ったリリアを見つけ出してしまった。リリアを攫ったまでは奴らの計算通りだったが、身代わりとして連れてこられたアイラがあっさりリリアを見つけ出し、結果として家族から全力で溺愛され始めてしまった。毎日ホカホカのシチューとケーキを頬張り、家族の愛に包まれて幸福の絶頂にいるような娘を使って、どうやって地獄の門を開けというのだ」


「ははっ、食欲が世界を救ったってわけですね!」


私がえっへんと胸を張ると、お養父様とセオドア義兄様は毒気を抜かれたように脱力し、そして心の底から安堵したように息を吐き出した。


「……本当に、お前がいてくれてよかった。アイラ」


「アイラお義姉様……っ」


リリアが私の腕にぎゅっと抱きついてくる。私はその頭をよしよしと撫でた。


「バルド。貴様の罪は、王家の法廷にて裁かせてやる。一生、冷たい牢獄の中で己の愚かさを悔いるがいい」


お養父様が冷酷に言い放ち、騎士たちがバルドを引きずっていく。


これで、公爵家を脅かしていた内通者は排除され、事件は解決したかに見えた。


――しかし。


「喜ぶのはまだ早いぞ、人間ども」


天使は、地下書庫で見つけた『配置図の控え』の羊皮紙を見つめながら、鋭い声を上げた。


「……地下書庫の映像で、悪魔はこう言っていたな。『最後に特大の置き土産をしてから撤収するとしよう』と。奴らがこの王都の地下に、一体何を仕掛けていったのか。それを探し出し、破壊するまでが我々の仕事だ」


悪魔の置き土産。


世界崩壊の計画を諦めた奴らが、最後に遺していった最悪の呪い。


最強の探偵バディと化した私たち双子姉妹の、本当の『謎解き(ミッション)』が、今始まろうとしていた。


バルドの屋敷を制圧した私たちは、リリアの【物探しの能力】を頼りに、屋敷の地下深くへと続く隠し階段を下りていた。


辿り着いたのは、冷たい石壁に囲まれた広大な地下祭壇。


その中央では、床一面に赤黒い血で禍々しい魔法陣が描かれ、ローブを深く被った『男』が呪文を詠唱していた。


「――チッ。バルドの奴、時間稼ぎにもならなかったか」


私たちの足音に気づいたローブの男が、ゆっくりと振り返る。


その瞳は漆黒一色に染まり。ただそこにあるだけで、吐き気を催すようなおぞましい魔力が周囲の空気を歪ませている。


「貴様が……九年前から我が公爵家に寄生していた悪魔か」


「いかにも。私はこの計画の立案者にして、高潔なる中位悪魔だ」


レオンハルトお養父様が『天使の剣』を抜き放ち、静かな怒りを含んだ声で問うと、悪魔は不敵に笑った。


「本来ならば地獄の門を開くはずだったが……忌々しい供物アイラのせいで計画は狂った。だが、ただでは帰らん。この地下祭壇に描いた『置き土産(暴走陣)』が起動すれば、王都の地脈が逆流し、この街は丸ごと吹き飛ぶ!」


「そんなこと、させるわけがないだろう!」


セオドア義兄様も剣を構え、殺気を放つ。


しかし、相手は神話の時代から生きる中位悪魔。しかも人間の肉体を盾にしている以上、無闇に斬りかかれば「無辜の人間を殺した」という罪悪感が剣の冴えを鈍らせる恐れがあった。


だが、そんなお父様たちの微かな気負いを、メイドの姿をした天使があっさりと払い除けた。


「公爵よ、ためらう必要はない。あの憑依体は既に生命活動を停止している……魂を喰い尽くされた、ただの動く死体だ」


「……なんだと?」


「私はこれより、奴がこの肉体を捨てて逃げ出さないよう、祭壇の周囲に『魂の結界』を張る。結界の維持に集中するため、私自身は攻撃に参加できない。……討伐は、人間である君たちに任せたぞ」


天使が両手を広げると、神々しい光の壁がドーム状に広がり、地下祭壇を完全に包み込んだ。


これで悪魔は、あの死体の肉体ごと滅ぼされるしかない状況に追い込まれた。


「……感謝する、天使よ。相手がただの動く屍であるならば、私の剣に微塵の迷いも生じない」


お養父様の青い瞳から、一瞬にして感情が消え去った。



残ったのは、我が子を泣かせ、王都を脅かす絶対悪を断ち斬るという、冷徹な『処刑人』としての意志のみ。


「セオドア、行くぞ!」


「はっ!」


お養父様とセオドア義兄様が、同時に床を蹴って悪魔へと肉薄する。



歴戦の騎士である二人の踏み込みは、瞬きする間もない神速だった。左右から挟み込むように、必殺の刃が振り下ろされる。


――しかし。


「無駄だ。人間ふぜいが、私に触れられると思うな」


悪魔が両手を軽く前に突き出した、その瞬間。


ドゴォォォンッ!!

目に見えない巨大な壁が激突したかのような衝撃音が響き、お養父様とセオドア義兄様の体が、それぞれ左右の石壁に向かって猛烈な勢いで吹き飛ばされた。



「ぐはっ……!?」


「父上っ!」


壁に激突し、床に崩れ落ちる二人。


斬撃はおろか、二人が纏っていた魔力ごと、不可視の力で強引に弾き返されたのだ。



「念力か!」


咳き込みながら立ち上がったお父様が、鋭く相手の能力を看破する。


悪魔の能力は『念力』。直接触れることなく対象を吹き飛ばし、あるいは押し潰す力。見えない力による防御と攻撃を兼ね備えた、極めて厄介な能力だった。


「アイラお義姉様! お父様たちが……っ!」


「大丈夫。二人はあんな攻撃じゃ倒れない。でも……」


私は柱の陰から戦闘を見守りながら、前世の知識(ゲームのボス戦のギミック)とスラムでの経験を総動員して、悪魔の動きをじっと観察していた。



(同時に攻撃した時、あいつは『両手』を二人の方向に向けていた。ってことは……)


お養父様と義兄様が立ち上がり、再び悪魔に挑みかかる。


しかし、正面から突っ込めば見えない壁に弾かれ、背後に回り込もうとしても、悪魔が手のひらを向けた瞬間に凄まじい力で壁に叩きつけられてしまう。


「はははっ! 脆い! 人間とはこれほどまでに脆弱な生き物か!」


悪魔の嘲笑が響く中、私は確信を得た。


「お養父様! お義兄様!」


私は声を張り上げ、二人に叫んだ。


「あいつの『念力』、強大だけど……力を使う時、必ず手のひらを向けてる! 『一方向』にしか強い力を出せないみたいだよ!」


私の叫びに、お養父様とセオドア義兄様がハッと顔を見合わせた。


全方位の無敵バリアではない。意識を向けた方向への強力な『指向性』の念力。ならば、同時に複数の方向から完璧なタイミングで死角を突けば、必ず隙が生まれる。


「……なるほど。よく見てるな、アイラ」


「流石は俺の妹だ。……父上、作戦は決まりましたね」


セオドア兄様が口の端の血を拭い、ニヤリと笑った。


「私が正面から突っ込み、奴の意識(念力)を完全に引きつけます。父上は、その隙に」


「……死ぬ気でいけよ、セオドア」


「当然です。我が妹たちの平和な日常のためならば、この命など安いもの!」


言葉を交わしたのは一瞬。


直後、セオドア義兄様が床を爆砕するほどの踏み込みで、単騎で悪魔の正面へと特攻を掛けた。


「愚かな! 単独で私に勝てるはずが……ッ!」


悪魔が義兄様に向けて両手を突き出し、最大の念力を放つ。


見えない大質量の壁が兄様を捉え、その体をミシミシと軋ませながら後方へと吹き飛ばそうとする。


だが。


「おおおおおおおっ!!妹を思う兄の力を舐めるなあぁぁぁぁ!!!」


セオドア義兄様は、己の魔力の全てを防御と足裏に集中させ、床の石畳を削りながら、その強烈な念力に『逆らって』前に進み続けたのだ。


驚異的な執念。まさに、妹を守る最強のシスコンの面目躍如である。


「な、なんだこの人間は……っ! なぜ吹き飛ばない!?」


悪魔が焦燥に駆られ、両手を使い全ての意識と念力を正面のセオドア義兄様に集中させた。


――その瞬間。


悪魔の真上、いつの間にか天井の梁に跳躍していたレオンハルトお養父様が、音もなく落下してきた。



「――チェックメイトだ、悪魔」


声に反応し、悪魔が上を見上げた時には遅かった。


お養父様の手に握られた『天使の剣』が、白銀の眩い光の軌跡を描きながら、悪魔の脳天から股下までを一刀両断に振り下ろされた。


「ギァァァァァァァァァァッ!!」


肉体が両断されると同時に、天使の剣の神聖な浄化の炎が、内側に潜んでいた悪魔の魂を直接焼き尽くしていく。


断末魔の叫びは一瞬でかき消え、動く死体だった男の体は灰となって崩れ落ちた。


残ったのは、主を失い魔力が霧散していく地下祭壇の魔法陣だけ。


「……ふぅ」


静寂が戻った祭壇の中央で、お養父様は剣を振り下ろした姿勢のまま、ゆっくりと息を吐いた。


壁際で膝をつき、荒い息をしているセオドア義兄様と無言で視線を交わし、互いの無事を確かめ合う。


「……見事だ。まさか、現代の脆弱な人間の身でありながら中位悪魔を討ち果たすとはな」


結界を解いた天使が歩み寄り、心底感嘆したように拍手を送った。


神話の存在である悪魔を、人間の力と知恵、そして家族の連携で退治するという、歴史に刻まれるほどの偉業。


「お養父様! お義兄様!」


「お怪我はありませんか!?」


私とリリアが慌てて二人に駆け寄る。


「ああ、大丈夫だ。……アイラ、お前の助言のおかげで助かった。よくあの一瞬の隙を見抜いたな」


「いやー、美味しいご飯のためなら、観察眼も冴え渡るってもんですよ」


「ははっ、お前らしいな」


煤だらけになったお養父様が、私の頭を優しく撫でる。


こうして。


世界崩壊の危機から始まり、王都を吹き飛ばす爆弾まで仕掛けられていた神話スケールの陰謀は、私たちアルジェント公爵家の『家族の絆』によって、ついに完全なる終幕を迎えたのだった。


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― 新着の感想 ―
アイラが“これが双子のシンクロってやつ?”と内心で思っている描写があります。 彼女自身は拾われの孤児設定で本人には血縁関係が明かされてはいなかったと思うのですけど(血縁関係を察したマリーへは公爵直々に…
三日後に来るはずの王家の二人はどしたの?
前半でインパクトがないと難しい、読むのが大変になる、あきさせない工夫がしてあって面白い
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