八月三十二日の返却日
彼女はいつも、八月三十二日にだけ本を返しに来る。
潮見町立図書館の貸出票にその日付を書けるのは、たぶん僕だけだった。市役所はこの日を「予備日」と呼ぶ。台風や事故や、あるいはもう少し見栄の悪い事情で町が困ったとき、八月の終わりに一日だけ余白を差し込むのだ。
もちろん、そんなことを町内放送で言ったりはしない。大半の住民にとって、八月三十一日の次はふつうに九月一日で、そのあいだに挟まった一日は朝になればきれいに忘れられる。忘れないのは、たまたま時計塔の振り子を直に見た人間か、僕みたいに体のどこかが少しだけ壊れている人間だけだった。
僕は高校二年の夏、熱を出して夜中にふらつき、学校の裏山にある時計塔の前で倒れた。以来、予備日を忘れなくなった。便利かと言われると、別にそんなことはない。世界に知られていない祝日が増えたところで、時給は増えない。だから僕は、その誰のものでもない日に図書館のカウンターに座って、返却期限の狂った本の相手をしている。
彼女が最初に来たのは、三年前の八月三十二日だった。
「返却をお願いします」
細い指先でカウンターに置かれたのは、『気象観測入門』だった。高校生が借りるには渋すぎる本で、面白がって借りるにはあまりに実用書だった。
「延滞はしていませんよね」
「していたとしても、今日の遅刻は今日で回収されるでしょう」
「便利な考え方だ」
「この町は便利な考え方で成り立ってるんじゃないですか」
そのとき初めて、彼女もこちら側の人間なのだとわかった。予備日を知っている人間は、だいたい二種類に分かれる。黙り込むか、少しだけ意地悪になるかだ。彼女は後者だった。
白瀬透子、と名乗った。涼しそうな名字と、妙にまっすぐな目をしていた。白い半袖のブラウスはきちんとアイロンがかかっていて、でもスカートの裾だけ少し濡れていた。たぶん海沿いを歩いてきたのだろう。潮見町では、考えごとをする人間はだいたい海へ行く。山は答えを持っていそうに見えるけれど、実際には何も返してこないからだ。
「探しているものがあるんです」と透子は言った。
「本?」
「新聞」
「予備日の?」
「十年前の八月三十二日の分」
僕は貸出票から顔を上げた。
予備日の記録は、残らないことになっている。少なくとも表向きは。町が余白を持つためには、その余白がなかったことになっていなければ困る。ずいぶん勝手な話だが、制度というのは概して勝手なものだ。
「どうしてそんなものを?」
「兄が、その日にいなくなったんです」
彼女はそう言って、それ以上は説明しなかった。説明したくないというより、説明してもどうせ信じてもらえないと知っている人の顔だった。僕はカウンターの上の返却印を見つめた。八月三十二日。赤いインクで押したその日付は、いつ見ても少しだけ現実に対して礼儀が悪い。
「閉館後なら、地下の郷土資料室を見られる」
「鍵、ありますか」
「図書館で働いてるからね。一応」
透子は少しだけ笑った。最初に彼女が見せた感情らしい感情だった。
郷土資料室は、図書館の地下でいちばん空気の動かない場所にある。古い新聞、漁協の会報、商店街の三十周年記念誌、誰も読まない議会録。町の記憶はだいたい埃の匂いがした。立派でも貴重でもないが、なくなると妙に困る種類の紙ばかりが、無数の棚に押し込まれている。
「兄は高校三年の夏にいなくなりました」と透子は言った。脚立の上からファイルを取る僕の背中に向けて、静かに話す。「表向きは家出。学校にも、市役所にも、そう処理された。でも兄は、何かを見つけていた。予備日がどうやって作られているか」
「作られている、か」
「自然現象じゃないんでしょう、これ」
僕はファイルを抱えたまま振り返った。
「台風とか地震よりは、よほど役所っぽい」
透子は頷いた。妙に納得した顔だった。
新聞の縮刷版は見つからなかった。十年前の八月三十一日と九月一日のあいだには、綺麗な空白があるだけだった。かわりに見つかったのは、閉架資料のいちばん奥、議会資料と予算書の束に紛れていた薄い青色のバインダーだった。
表紙に、こう書かれていた。
未来保全条例施行準備資料
「嫌な題名ですね」
「まともなことをするなら、こんな名前にはしない」
中身はもっと嫌だった。予備日の運用条件、対象災害、記録保持者の選定。そして、費用の欄。
予備日維持コストは、当該年度における町内高校三年生の未確定進路可能性をもって充当する。
透子はしばらく黙っていた。
「進路可能性って、お金みたいに払えるんですか」
「行政文書の上では払えるらしい」
「ひどい」
「大人は未来って言葉を、自分より若い誰かの可処分資産だと思ってるところがある」
自分で言ってから、少しだけ気分が悪くなった。正しいことはたいてい、言った人間の口も汚す。
バインダーには統計資料もあった。町内の高校で行われた進路希望調査の集計だ。年度ごとの「未記入」率が、予備日実施の年だけ不自然に跳ね上がっている。
十年前、十八パーセント。
七年前、二十五パーセント。
三年前、三十二パーセント。
だんだんと綺麗に、将来の欄だけが空白になっていく。
僕はその数字に見覚えがあった。高校三年のころ、進路希望調査の紙を前にして、ずいぶん長く鉛筆を止めていた記憶がある。何も思い浮かばなかったのだ。好きなものも嫌いなものもあったはずなのに、それを未来に結びつける回路だけが、丸ごと抜け落ちていた。
当時の僕は、自分が怠け者なんだと思っていた。たいていの大人は、そう説明した。考えが足りない、危機感がない、もっと真剣に将来を見ろ。けれど違ったのかもしれない。見ろと言われる前に、こちらの未来は少しずつ持ち出されていたのだ。
透子がバインダーのあいだから一枚のメモを引き抜いた。手書きだった。几帳面な字で、走り書きのくせに妙に読みやすい。
予備日は最初、人を救うために使われた。二回目からは町を守るために使われた。三回目からは、大人の説明を間に合わせるために使われる。
署名は、白瀬晴人。
「兄の字です」
「優秀そうだ」
「嫌味っぽいところも、よく似てます」
そのあとに続く一文を読んで、透子は息を止めた。
時計塔を止めるなら、次の予備日が最後の機会だ。潮見の未来は、もうあまり残っていない。
僕はバインダーを閉じた。
「次の予備日がある?」
「あるんでしょうね。だから兄は書いた」
資料の最後のページに、今年の実施予定が付いていた。理由は濁してあったが、要するに台風前の防潮堤補修が間に合わないらしかった。検査のための数字も、工事も、謝罪も、全部が足りていない。だから一日借りる。
便利な考え方だ。たしかに。
「兄は、どこへ行ったと思う?」
と僕は訊いた。
透子は少し迷ってから言った。
「日付の向こう側」
言葉としては馬鹿げているのに、この町では妙に正確に聞こえた。
夕方、僕たちは裏山の旧気象観測所へ行った。今は使われていない白い建物で、壁の塗装は潮風に削られ、アンテナだけがまだ空を向いていた。予備日の夕方になると、ここではときどき古い無線が入る。普通の日には沈黙したままの機械が、存在しない日にだけ妙に饒舌になるのだ。
透子は観測室の埃を指でなぞった。
「兄が最後に来た場所です」
「知ってたの?」
「なんとなく。いなくなる人は、だいたい最後に高いところへ行くから」
その偏見がどこまで統計的に正しいのかは知らないが、少なくともこの町では当たっている気がした。
古い受信機の電源を入れると、最初は砂嵐の音しかしなかった。外では海風が窓を鳴らし、遠くで時計塔の鐘が曖昧に鳴った。午後六時。存在しないはずの時刻が、やけに几帳面に進んでいく。
やがて、ノイズの向こうから男の声がした。
『これを聞いてるなら、まだ間に合うかもしれない』
透子の肩が震えた。僕は何も言わなかった。
『白瀬晴人です。予備日は制度だ。奇跡なんかじゃない。最初の一回だけは、たしかに必要だった。十五年前の台風で、港の連絡船が転覆した。あの日、一日あれば二百人以上が助かった。だから町は時計塔を使って、八月の終わりに余白を作った』
ノイズが一瞬強くなる。晴人の声は続いた。
『でも、人を救う仕組みは、すぐに責任を遅らせる仕組みに変わる。防潮堤の点検漏れ。補助金の帳尻。観光イベントの事故。選挙の失言。全部、予備日に押し込まれた。町は綺麗になった。正確には、汚れを若い連中の未来で拭き取ってきた』
透子が受信機に触れそうになって、やめた。壊したら、本当にそこで終わってしまいそうだったからだろう。
『透子。君は忘れていい。忘れないでいることは、正しいことじゃない。たまたま傷になるだけだ。時計塔を止めてくれ。次をやれば、この町の高校生はたぶんもう、将来を将来として考えられなくなる』
そこで一度、録音は途切れた。砂嵐が戻る。もう終わりかと思ったとき、最後に別の声音で、少しだけ柔らかく付け足された。
『それから、図書館にいる変なやつを頼っていい。あいつは退屈そうに見えるけど、たぶん退屈してるだけで、悪いやつじゃない』
僕は透子を見た。
透子も僕を見ていた。
「兄は人を見る目が雑ですね」
「優秀そうだって言ったのを撤回する」
透子は笑った。声に出して笑うのを、僕はその日初めて聞いた。笑い終わったあと、彼女は窓の外を見た。海の方から、黒い雲が寄ってきていた。
「止めましょう」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないから、今のうちに簡単そうに言っておきます」
正しいと思った。
時計塔の扉は、予想していたより簡単に開いた。施錠されていなかったのではなく、この町の大人たちが、自分たちのやっていることは結局誰にも見つからないと信じていたのだろう。秘密というのは、守るものというより、見つからないと高を括るものだ。
内部はひどく古く、鉄の階段が夜気を含んで冷えていた。上では大きな振り子が規則正しく揺れている。存在しない一日を刻むには、ずいぶん律儀な機械音だった。
制御盤の横に、市役所の腕章が置いてあった。誰かが来ていたらしいが、今はいない。おそらく下で台風対策の連絡でもしているのだろう。町を守るという言葉は便利だ。何かを奪う側は、いつもその言葉を好む。
透子が制御盤のカバーを外した。中には紙束が詰め込まれていた。進路希望調査票だった。何十枚、何百枚。建築士、看護師、船乗り、イラストレーター、教師、水産試験場、東京の大学、どこか遠い街の専門学校。そして「未定」。どれもこれも、誰かが一度は本気で見た未来だ。
「最悪だ」
僕は言った。
「はい」
それだけだった。怒鳴る気にもなれないほど、仕組みが下劣すぎた。
振り子の根本には停止レバーがある。晴人のメモに、引く方向まで書いてあった。親切な兄だ。少しだけ、会ってみたかったと思う。
「止めたら、どうなると思う」
「たぶん、ろくでもないことと、まともなことが一度に起きます」
「雑だな」
「町の未来よりは正確です」
透子はレバーに手をかけたまま、ふと僕の方を見た。
「明日、私、たぶん全部忘れます」
「僕も一部は怪しい」
「だから今のうちに言っておくんですけど」
彼女はほんの少し考えて、言葉を選んだ。
「あなたと話すの、好きでした」
予備日の記憶は、だいたい湿った紙みたいに曖昧なのに、その一言だけは妙に鮮明だった。僕はたぶん、そのとき何か気の利いたことを言うべきだったのだろう。小説ならそうする。現実の僕は、図書館で棚の隙間に挟まった栞を見つける以外、機転らしい機転を発揮したことがない。
だから、正直に言った。
「僕もだよ」
透子は頷いて、レバーを引いた。
時計塔が、止まった。
最初に起きたのは静けさだった。次に、風。制御盤に詰め込まれていた紙束が一斉に舞い上がり、開いた窓から夜へ飛び出した。白い鳥みたいに見えたのは、一瞬だけだ。すぐにそれらはただの紙に戻り、けれど落ちながら、町のあちこちへ散っていった。
どこかで誰かが、将来のことを急に思い出すのかもしれない。急に絵を描きたくなるのかもしれないし、船に乗りたくなるのかもしれない。進学先の名前が、ようやく頭の中の霧から出てくるのかもしれない。
それで十分だった。
透子がよろめいた。僕は咄嗟にその手を掴んだ。冷たかった。
「大丈夫?」
「たぶん。少し、輪郭が薄いです」
「詩的だな」
「困ってるんです」
それでも彼女は笑った。
「本、貸してください」
「今?」
「明日の私に、道しるべが要るので」
僕はポケットに入っていた図書館の貸出票を取り出した。こんなときまで職務に忠実なのは、良いことなのか悪いことなのか、よくわからない。観測室から持ってきていた薄い本がある。『海辺の気圧配置』。誰が読むんだこんな本と思っていたが、少なくとも今日の役には立つ。
貸出票の裏に、僕は短く書いた。
九月一日に返してください。カウンターにいる人は、たぶん信用していい。
透子はそれを見て、少しだけ眉をひそめた。
「たぶん?」
「断言すると怪しいから」
「そういうところが、たしかに悪くないです」
彼女は本を抱えたまま、僕の手を一度だけ強く握った。
「明日、はじめましてをやり直しましょう」
そう言って、彼女は階段を下りていった。途中で振り返ったかどうかは、覚えていない。たぶん覚えていなくていい類の記憶だった。
九月一日、図書館は普通に混んでいた。
夏休みの最終日に借りた本を慌てて返しに来る小学生、宿題の調べ物をしに来た中学生、冷房だけ目当てで新聞をめくる老人。世界は驚くほど平然と続いていた。潮見町の海も、防潮堤も、商店街のくたびれたアーチも、昨日までと何ひとつ変わらない顔をしている。
ただ、高校の前を通ったとき、掲示板の進路希望欄が妙に賑やかだった。建築、海洋学、看護、デザイン、公務員、食品開発。びっしりと、具体的な言葉が並んでいた。未定、の二文字はほとんど見当たらなかった。
僕はその前で少し立ち止まった。自分が何をしたいのか、突然ひとつ思い出しかけた気がした。防潮堤の設計でも、橋でも、観測施設でもいい。とにかく、誰かの未来を盗まずに町を守る方法は、たぶんある。ないなら作るべきだ。そういう種類の考えが、ようやく僕の中にも戻ってきていた。
午後三時すぎ、カウンターに一冊の本が置かれた。
『海辺の気圧配置』。
顔を上げると、透子が立っていた。昨日と同じ白いブラウスではなく、薄い青のカーディガンを羽織っている。たぶん普通の九月一日だからだろう。彼女は僕を見て、少しだけ首をかしげた。
「返却をお願いします」
昨日と同じ言葉だった。けれど声音は少しだけ遠い。僕は本を受け取り、表紙のあいだから貸出票を抜いた。昨日の僕の字の下に、別の筆跡が増えていた。
九月一日の私へ。この人に名前を聞いて。たぶん大丈夫。少なくとも退屈はしない。
僕は笑いそうになるのをこらえた。
透子は不思議そうに僕を見た。
「何か変でしたか」
「いや。貸出票の字が、きみらしいと思って」
「私、書いたんですか」
「たぶん」
彼女は少し考えて、それから言った。
「じゃあ、名前を聞いてもいいですか」
窓の外では、九月の光が海から図書館の床へ細く伸びていた。存在しない一日はもうどこにもない。時計塔は沈黙している。町はようやく、自分の時間だけで進みはじめたのだと思う。
僕は名乗った。
透子はそれを一度口の中で繰り返した。
「はじめまして」
「たぶん、そうでもない」
彼女は意味がわからないという顔をしたあとで、なぜか少しだけ笑った。
その笑い方に、僕は見覚えがあった。
だからたぶん、大丈夫だと思った。




