第8章:リュシアン
早朝の森は、青白い霧に包まれて幻想的だった。
けれど、今の私にはその霧が、追い詰めてくる死神の吐息のように感じられた。草を踏みしめる音が、静寂の中で不自然に大きく響く。私は肩にかけた鞄の紐を強く握りしめ、迷うことなく北の湿地へと急いだ。
昨日の、あの場所。
シダの葉を掻き分けて辿り着いた湿地には、昨日と同じように「ルナ・エッジ」が、夜明け前の薄明かりの中で静かに咲いていた。
「……おはよう」
誰に言うでもなく、私はその花の傍らに座り込んだ。湿った土の冷たさが、スカートを通して肌に伝わる。ここなら、もし誰かが近づけば、乾いた小枝を踏む音でわかるはずだ。私は膝を抱え、ただじっと、森の呼吸に耳を澄ませた。
(お願い……誰も来ないで。何も起きないで)
祈るような気持ちで目を閉じた、その時だった。
「っ……あ……!」
突然、胸の奥底を灼熱の杭で貫かれたような、凄まじい衝撃が走った。これまで感じていた微かな熱とは、次元が違う。血管の中に沸騰した鉛を流し込まれたような、暴力的なまでの激痛。
「う、あぁっ……!」
私はたまらず地面に突っ伏し、胸元を掻きむしった。息ができない。肺が、心臓が、魂の根元が、目に見えない誰かの手に握りつぶされていく。
(熱い……熱い、リュシアン様……!?)
その痛みは、紛れもなく彼から流れてくるものだった。けれど、かつて王城で感じていた高慢な苛立ちではない。そこにあるのは、底知れない、どろりとした狂気と渇望。そして、引き裂かれるような、悲鳴にも似た飢えだ。
絆の糸が、千切れそうなほどピンと張り詰め、私の意識を無理やり一つの方向へと向かせる。震える顔を上げ、私が這い出してきたシダの茂みの方を凝視した。
ガサリ。
乾いた音がした。続いて、重い足取り。草木をなぎ倒し、迷うことなくこちらへ向かってくる、迷いのない、けれどどこか危うい足音。
「……あ」
茂みが左右に割れ、そこから一人の男が姿を現した。
銀色の髪は、かつての神々しいまでの輝きを失い、泥と木の葉に汚れて乱れている。上質な外套はボロボロに裂け、その隙間から見える肌には、幾筋もの切り傷が刻まれていた。何より、その顔。氷のように整っていた美貌は、病的なまでにやつれ、頬はこけ、目は血走っている。
「……み、つけ……た……」
その声は、地を這う獣の唸り声のようだった。リュシアン。私の番であり、私の支配者であり、私の恐怖そのもの。
彼は、立っているのもやっとという様子で、肩を激しく上下させていた。その瞳の奥には、以前のような冷徹な理知は微塵も残っていない。ただ、焼けつくような飢餓感と、私を逃がさないという執念だけが、暗い炎となって揺らめている。
「リュシアン様……どうして、ここまで……」
私の声は、震えて形にならなかった。彼は一歩、また一歩と、ふらつく足取りで私に近づいてくる。その一歩ごとに、私の胸の痛みは増していき、頭の中が真っ白になるほどの魔力の奔流が流れ込んでくる。
「……貴様が……消えてから……一時も、凪が……訪れない……」
彼は這うようにして私の目の前まで来ると、力なくその場に膝を突いた。地面を掴むその指先は血に滲み、爪は割れている。あの、誰の手も借りずに世界を支配していた皇子が、今、私の足元で惨めなほどに崩れ落ちている。
「熱い……体が、焼ける……。あの……忌々しい歌を、歌え……。私を……鎮めろ……つむぎ……っ!」
差し出された手は、震えていた。私を捕らえようとする指先が、空を切り、私のスカートの裾を必死に掴む。
(この人は……私を追って、一人でこの森を……?)
リュシアンは、私の足元で嗚咽のような呼吸を漏らした。体から漏れ出る魔力の余波が、周囲の草花をじりじりと枯らしていく。私のすぐそばにあるルナ・エッジさえも、その熱に晒されて萎れかけていた。
「……いや」
私は、反射的に膝を引いた。ここでこの熱を鎮めてしまえば、私はまた、あの暗い石牢へ、リュシアンの所有物へと戻ることになる。
「嫌だ……リュシアン様……私は、もう……」
「……逃がさん……」
リュシアンが、ガクガクと震える手で、私の手首を掴んだ。その握力は異常なほど強く、骨が軋む音を立てる。
「……逃げられると、思うな……。貴様は……私の……唯一の……」
言いかけて、彼は激しく咳き込んだ。口元から、どろりとした鮮血が溢れる。彼の魔力が、内側から彼の身体を破壊し始めているのだ。
絆を通じて流れ込んでくるのは、もはや言葉では言い表せない絶望だった。孤独、苦痛、そして——私を失ったことへの、耐え難い喪失感。
(喪失感……?)
あり得ない、と思った。彼は私を道具としか見ていなかったはずだ。なのに、どうして、これほどまでに悲鳴を上げている私の魂は、彼の悲しみに共鳴してしまうのか。
「リュシアン様……離して……!」
火事場の馬鹿力だったのかもしれない。私の腕が、衰弱していたリュシアンを突き飛ばした。リュシアンは力なく地面に手をつき、肺から絞り出すような喘鳴を漏らしながら、絶望に染まった瞳で私を仰ぎ見た。
「待て……行くな、つむぎ……っ!」
その声を背中で聞きながら、私は振り返ることもせず、茂みの奥へと駆け出した。足元の泥が跳ね、スカートの裾がシダの葉に引っかかる。それでも止まれなかった。止まれば、あの冷たい鎖が再び私の心臓を縛り上げる。
(逃げなきゃ……どこでもいい、あの人の手の届かないところへ!)
朝霧が視界を遮り、どこを走っているのかも分からない。シダの群生が壁のように行く手を阻む。私は無我夢中で、青々と茂る葉を掻き分けた。
その時だった。
「あっ――」
不自然に開けた茂みの先、私の右足が虚空を蹴った。シダに隠されていたのは、道ではなかった。長年の雨で削られ、崩れやすくなっていた崖の縁。視界が急激に傾き、足元がバラバラと崩れ落ちる。
(あ……)
落ちる。そう悟った瞬間、時間は引き延ばされたようにゆっくりと流れた。下を見れば、鋭い岩肌と激流を立てる小さな川が、私を飲み込もうと待ち構えている。死だ。
「……つむぎ!!」
鼓膜を突き破るような絶叫。それは、これまで私を震え上がらせてきた冷酷な皇子の声ではなかった。剥き出しの戦慄と、何かに必死に抗うような、悲鳴に近い叫び。
次の瞬間、視界が激しく回転した。崖の縁が崩れ、重力に魂まで持っていかれそうになった私の体を、固い、鋼のような腕が腰を。もう片方の手が私の後頭部を、壊れ物を包むようにして、強引に抱き寄せた。鼻腔を突くのは、雨に濡れた森の匂いと、鉄のような生臭い血の香り。リュシアンの胸板に顔を埋める形になり、私の視界は彼のボロボロになった外套の黒に塗りつぶされた。
「離すな……っ! 掴まっていろ!!」
耳元で、彼の喘ぐような、けれど有無を言わせぬ怒号が響く。落ちている。私たちは今、確実に死の淵へと落下している。内臓が浮き上がるような、あの気味の悪い浮遊感。けれど、不思議なほど恐怖はなかった。自分を拘束するこの腕の力が、あまりに強く、あまりに必死だったから。
(どうして……?)
なぜ、自分の身を投げ出してまで、私を庇うように抱きしめるのか。
ドォォォォン!!
鼓膜が圧迫され、全身を巨大な槌で殴られたような衝撃が走った。冷たい。痛い。水だ。私たちは、崖下の濁流へと叩きつけられたのだ。
一瞬で肺の中の空気が押し出され、冷や水が鼻と口に流れ込んでくる。上下の感覚を失い、激しい水流に木の葉のように翻弄される。けれど、私の腰に回された腕だけは、決して解けなかった。
意識が遠のき、泡となって消えていく。水中で、あの銀色の髪が、まるで命を宿した糸のように揺れているのが見えた。リュシアンは、激痛に顔を歪めながらも、私を水面に押し上げようと必死に手足を動かしている。その傷だらけの体から、真っ赤な血が糸を引いて流れては、濁流に溶けて消えていく。
(死んじゃう。このままじゃ、リュシアン様が死んでしまう……)
どれほど流されただろうか。岩に体を打ちつけられ、そのたびにリュシアンが呻き声を上げながら私の盾になった。やがて、水流が僅かに緩やかになった場所で、私たちは中州のような砂利の堆積した岸辺へと打ち上げられた。
「……カハッ! げほっ、ごほっ……!!」
泥水を吐き出し、私は震える腕で地面を這った。肺が焼けるように痛い。全身の関節がバラバラになったような感覚。けれど、私のすぐ隣で横たわっている影を見て、心臓が凍りついた。
「リュシアン様……?」
リュシアンは、仰向けに倒れたまま動かなかった。銀髪は泥と砂にまみれ、白い肌はいたるところが紫に変色し、深い切り傷からは絶え間なく血が溢れている。
「リュシアン様! 目を開けて! リュシアン様!!」
返事はない。けれど、私の胸の奥にある絆が、狂ったように脈打っていた。それは、かつて感じたことのないほど、悲痛で、熱い律動。
(……熱い。リュシアン様が、燃えている……)
魔力の暴走だ。私を助けるために無理をして、さらに落下の衝撃と怪我が重なり、リュシアンの器はもう限界を迎えている。内側から溢れ出す銀色の魔力が、彼の皮膚を焼き、陽炎のように立ち上っている。
「死なないで……! 私を捕まえに来たんでしょう!? だったら、起きてよ!」
私は彼の頬を叩き、その冷たい肌を温めようと必死に擦った。あんなに恐ろしかったはずの男。私を石牢に閉じ込め、道具として扱い、絆を断ち切ろうとした残酷な皇子。なのに、今の私には、彼が迷子の子供のように頼りなく見えた。
「……つ、む……」
微かに、彼の唇が動いた。血に濡れた睫毛が震え、黄金の瞳が、薄く開かれる。けれど、そこにはもう、私を射抜くような鋭い光はなかった。ただ、深い霧の中を彷徨うような、虚ろな光だ。
彼の指先が、私の冷え切った手に、触れるか触れないかの距離で止まった。力なく、まるで壊れ物に触れるのを躊躇うような、あまりにも微かな動き。
「……無事、か……。怪我は……ないか……」
「……え?」
耳を疑った。その言葉は、連れ戻した獲物の状態を確認するような冷徹な響きではなかった。ただひたすらに、私の安否を、私の命の灯火を案じる、震えるような慈愛と、祈りに似た響きが混じっていた。
「……どこへ……行ったのだと……思っていた……。……忽然と……消えて……」
リュシアンの黄金の瞳に、じわりと涙のような光が滲んだ。それは痛みによるものではない。私の姿を、その瞳に映し出せたことへの、魂の底からの安堵だ。
「……探したのだ……。……貴様が……、冷たい場所で……一人で、倒れているのではないかと……。……間に合って……よかった……」
頭の中が、真っ白になった。激しい川のせせらぎが遠のき、世界には私と、目の前で死にかけているこの男しかいないような錯覚に陥る。
彼は、私を道具として追ってきたのではなかったのか。逃げ出した凪という便利な道具を、自分の所有物として回収するために、執念深く追いかけてきたのではなかったのか。
(私の身を心配して……?)
絆を通じて流れ込んでくるのは、どろりとした執着ではなく、胸が張り裂けるような喪失への恐怖だった。私がいなくなったあの日から、彼は凪が訪れない苦痛に悶えながらも、それ以上に、私という存在がこの世から消えてしまったかもしれないという絶望に、身を焼かれていたのだ。
「どうして……どうして、今さらそんな……。私は、 あなたのことなんて、死んでしまえばいいと思っていたのに!」
私は叫んでいた。自分でも制御できない感情が、涙となって溢れ出す。けれど、その叫びさえも、眼前のリュシアンの静謐な眼差しに吸い込まれていく。私はこの人を憎んでいたはずだ。私の人生を奪い、家畜のように扱い、私を搾取し続けた、銀色の死神。あの日、祭壇で絆を引きちぎろうとした彼の残酷さを、私は許せないと思った。
なのに、どうして。どうして彼は、冷徹な皇子の仮面をかなぐり捨て、泥にまみれ、血を吐き、ボロボロになった身体で私の名前を呼び続けていたのか。私の安否を問い、私が生きていることに、これほどまでに震えるような安堵を見せるのか。
「……つ、む……ぎ……」
彼の指先が、私の頬に触れた。
「……もう、一度……聴かせて……くれ……」
「……え?」
「……あの、歌を」
リュシアンは、苦しげに胸を波打たせ、血を吐き出しながら、掠れた声で続けた。その言葉は、命令ではなかった。私を凪として利用するための強制でも、王族としての尊大な要求でもない。
「……暗闇の中で……、それだけを……探していた……。……凪が欲しいのでは……ない。……お前の……声が……聴きたいのだ……」




